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2008年11月29日 (土)

藍博洲『幌馬車の歌』

藍博洲(間ふさ子・塩森由岐子・妹尾加代訳)『幌馬車の歌』(草風館、2005年)

 映画「悲情城市」(→参照)は二・二八事件を取り上げたことで台湾映画史上、一つの画期点をなしている。政治犯として捕らえられていた人物が処刑場へと引き立てられていくシーンで、同房の人々から哀愁のこもった歌声が沸き起こる。「幌馬車の歌」──侯孝賢は、本書の著者が雑誌に発表した文章を読んでこのシーンの着想を得たそうだ。

 鍾浩東は1915年、台湾南部・屏東の生まれ。大規模な抗日武装蜂起としては最後となる西来庵事件のあった年である。皇民化運動が進められる中、家庭的に中国民族意識が強く反抗精神も旺盛であった彼は、孫文の『三民主義』や五四運動期の文学作品を読んで日本による同化教育に反発していた。しかし、中国人としての民族意識に基づき台湾の解放を目指しながらも他ならぬ“祖国”に裏切られてしまう。親族や友人など身近に接した人々からの聞き書き、公文書等の史料、時には拷問者の証言の引用までも織り交ぜ、様々な声のポリフォニックな響き渡りを通して彼のたどった悲劇を浮き上がらせていくノンフィクションである。

 鍾浩東は日本の明治大学に留学したが、日中戦争が始まり、抗日運動に身を投ずるべく仲間と共に大陸へ渡る。この時点からすでに不吉な予兆があった。身分証明書がないため台湾出身=日本のスパイという容疑をかけられて尋問を受け、銃殺刑の間際までいったが、たまたま来合わせた台湾出身の国民党幹部・丘念台のとりなしで何とか助かる。この時、やはり抗日運動に馳せ参ずべく南洋、シンガポール、マレーシアなどから来た若者たちも共産党員の疑いをかけられて拘留されているのを見かけという。

 日本の敗戦後、鍾浩東は台湾に戻り、基隆の中学校長となる。高度な教育環境を整えようという熱意と清貧な生活態度は広く尊敬された。植民地時代の日本人教師には横暴で差別的な人も多かったが少なくとも金銭面での不祥事はあまりなかったのに対して、新たに大陸から来た教員たちは平気で袖の下を要求したため台湾の人々はそのギャップに愕然としたという趣旨のことを別の本で読んだことがあるが、鍾浩東の誠実な姿勢はそれだけ目立ち、慕われたのだろう。このような国民党政権の腐敗体質は台湾の人々の強い反感を買っており、1947年、二・二八事件がおこる。国民党軍による虐殺を目の当たりにして、自分たちは一体何人なのか分からなくなったという知識青年の戸惑いが本書の証言の中にあった。事件後も白色テロという形で特務による政治犯の拉致・失踪が日常化し、共産党系の細胞に加入していた鍾浩東も連行された。1950年、彼の一番好きだった「幌馬車の歌」を歌いながら処刑場へと向かう姿を同房の人々は見送ることになる。

 この「幌馬車の歌」は、実は日本語の歌であった(田村志津枝『悲情城市の人びと』晶文社、1992年)。鍾浩東の妻・蒋蘊瑜(蒋渭水の養女)は、知り合ったばかりの頃に夫から教えてもらったという。この歌を歌うたびに故郷の田園風景を思い浮かべると彼は語っていたそうだ。抗日民族主義者であった彼が死に際して日本の歌を歌ったというのも不思議なアイロニーを感ずるが、彼は西洋の歌とばかり思っていたらしい。本書の著者も付論でこの歌は決して軍国主義の歌ではないと強調しているように、どの民族、どの言語というレベルのことではなく、彼のたどらざるを得なかった悲劇と、この望郷の想いを歌い上げた詩情とを重ね合わせたとき、何とも言いがたい哀しさに身がつまされる思いがする。

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