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2008年11月25日 (火)

日本政治を新書で読む

 飯尾潤『日本の統治構造──官僚内閣制から議院内閣制へ』(中公新書、2007年)は、政党政治家と官僚とが渾然一体となって政策形成を行なってきた戦後日本の政治構造を擬似的・変則的な議院内閣制であったと捉える。いわゆる55年体制において政権交代はなかったが、①省庁別に関係利益団体と接点をもって個別問題ごとに民意集約機能を果たしていた省庁代表制、②大きな政策方針転換については審議会を利用、③自民党内の派閥抗争を通した擬似政権交代で国民のカタルシス解消、④野党との取引により与党外の社会的利益も集約、これらの柱に支えられる形で、自民党一党優位でありながらも首相を空虚な中心に据えた分散的な政治文化において、この変則的な議院内閣制は一定の実績を挙げてきたという。

 経済が右肩上がりであった頃は政策項目を増やしても財源的に支障はなかった。しかし、現在、限られた財源の中では政策課題の実行にあたり、配分関係のトレードオフが必要である。政策決定の強力な権力核が必要であり、それは当然ながら民主政としての正統性を持つものでなければならない。飯尾書は首相権限の強化という点で議院内閣制が本来持っているはずの一元代表制としての性格に着目する。教科書的には司法・立法・行政の三権分立が政治構造のスタンダードと思われているが、議院内閣制は立法と行政とが一体となっているところに特徴がある。ここに権力核の強化と民主政的正統性を両立させるカギがあり、従来型に代わる政治システムの可能性を見出そうとしている。

 野中尚人『自民党政治の終わり』(ちくま新書、2008年)は、こうした戦後政治体制を自民党の組織ネットワークに焦点を合わせて分析している。議員の後援会組織や業界団体を通して草の根レベルまで触手がおろされており、この組織化によって世の中の利害に対応するという形で民意の集約・調整機能を果たしてきたボトムアップ、コンセンサス重視型のシステム=「自民党型の戦後合意」システムと捉える。これは中選挙区制下での自民党議員同士の競争によって活性化されると同時に、野党を取り込むチャネルも持っていた。洗練された政治モデルとは言いがたいが、イデオロギー的に柔軟な政治運営を通して広範な利益集団を包摂できた点で、実は高度な民主性を達成していたと評価される。

 従来、官僚主導という観点から政治批判を行なう議論がよく見られたが、飯尾、野中ともに官僚を戦後政治システム内の柱の一つとして位置づける枠組みを提示している。従来型の論点としては、たとえば辻清明『日本の地方自治』(岩波新書、1976年)は、地方自治体における機関委任事務の多さや旧内務官僚的な牧民思想などを挙げて、官僚主導の中央集権が戦後になっても依然として続いていると問題提起をしていた。対して村松岐夫『日本の行政──活動型官僚制の変貌』(中公新書、1994年)は、省庁間においても、中央‐地方関係においても(機関委任事務という形で地方レベルまで各省庁割拠は根を張っているが)一定の競争関係があって決して一方向的なものではなく、そのバランスとして政策過程を把握できるとする。ただし、この省庁代表制がセクショナリズムとして逆機能を見せていることを指摘、行政改革の必要を論じている。飯尾、野中、村松ともにトップ機能の強化という方向に論点を進めていく。

 強力な権限を持った首相としてはやはり小泉純一郎に注目せざるを得ない。竹中治堅『首相支配──日本政治の変貌』(中公新書、2006年)は、1993年の細川政権成立から2005年の郵政選挙までの政治史的流れを概観・総括した上で、首相権限の強力な新たな政治システム=2001年体制(2001年に小泉内閣が発足)が成立したと主張する。橋本行革による内閣府の権限強化という下準備がすでにあって、小泉はこれを活用し、同時に世論の支持によって与党内でトップダウンの決断ができるという条件を備えることができた。選挙の顔としての人気が権力に直結するようになったと言える。大嶽秀夫『日本型ポピュリズム──政治への期待と幻滅』(中公新書、2003年)はポピュリズム型政治家の一人として小泉を取り上げてはいるが、まだ郵政選挙前の分析なのでピンと来ない。内山融『小泉政権──「パトスの首相」は何を変えたのか』(中公新書、2007年)では、小泉のパトスによる強力な政治的求心力に基づくトップダウン型政策決定は、国内の経済問題については竹中平蔵の采配もあってうまくかみ合っていたが、外交案件については成功しなかったと評価されている。他方、新書ではないが信田智人『官邸外交』(朝日選書、2004年→参照)は田中真紀子がらみのゴタゴタで外務省が機能不全に陥ったという要因も相俟って、外交も首相のトップダウンで進める方式が定着したと指摘している。

 内山書は、小泉のパトスを前面に押し出す政治手法によってこれまで政治に関心のなかった層が掘り起こされたことは評価しつつも、ロゴスが軽視されている点に危うさを見出している。そういえば、郵政選挙の後、いわゆるニート層の中で、小泉の進める新自由主義的な政策は彼らにとってむしろ不利であるはずなのに、「ぶっこわせ!」という感情レベルで反応して自民党への投票行動が見られた、と教育社会学の本田由紀が指摘していたのを思い出した(ただし、本田は“ニート”という表現のむやみな多用を批判している)。なお、小泉ものとしては他に御厨貴『ニヒリズムの宰相小泉純一郎論』(PHP新書、2006年)があるが、私は未読。

 選挙の顔としての人気が首相の条件となりつつある点では、柿﨑明二『「次の首相」はこうして決まる』(講談社現代新書、2008年)が、政治部記者として見たここ最近の永田町の動きをたどりながら、政治家たちが世論調査に左右されている姿を描き出しているのが興味深い。一見、喜劇的ですらあるのだが、民主政の本来を考えるなら相当に深刻な問題だ。

 伊藤惇夫『民主党──野望と野合のメカニズム』(新潮新書、2008年)は、民主党の内部を熟知した立場(著者は元民主党の事務局長)から人脈的・組織的特徴をまとめている。政権交代可能な政治勢力を目指している割には、あまりパッとした印象を受けないのだがなあ…。かつての55年体制における万年野党であった社会党については原彬久『戦後史のなかの日本社会党──その理想主義とは何であったのか』(中公新書、2000年)がある。自民党の系譜については、新書ではないが、冨森叡児『戦後保守党史』(社会思想社・現代教養文庫、1994年/岩波現代文庫、2006年)と北岡伸一『自民党──政権政党の38年』(読売新聞社、1995年/中公文庫、2008年)の2冊が学生の頃に読んで面白かった記憶がある。最近、両方とも復刊されているのでおすすめできる。

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