« 国立ハンセン病資料館 | トップページ | 若林正丈『台湾の政治──中華民国台湾化の戦後史』 »

2008年11月 4日 (火)

炭鉱がらみで色々と

 ジョン・フォード監督「わが谷は緑なりき」(1941年)はなかなか好きな映画だ。イギリスの炭鉱町を背景とした少年の成長譚。久しぶりに観なおしてみると、(モノクロではあるが)映像も、ストーリーも、古典的にすっきりとした美しさにしみじみと感じ入るのだが、その分、現実の炭鉱現場における生々しい泥臭さは完全に捨象されているとも言える。

 炭鉱を舞台にとった映画には、閉山間際の哀感を背景にしたヒューマン・ドラマが多いという印象がある。イギリス映画「ブラス!」はロンドンのコンクールを目指して奮闘する炭鉱町のブラスバンドの話。李相日監督「フラガール」は閉山後の村おこしで観光客誘致のためフラダンスに頑張る姿を半ばユーモラスに描く。両方とも見ごたえはあるし、イギリス・日本と舞台は違えども、ストーリーも何となく似ている。台湾の呉念真監督「多桑」(→記事参照)や韓国のチョン・スイル監督「黒い土の少女」(→記事参照)のように、坑夫として働きながらも報われず、社会に適応できない自身の不甲斐なさへの苛立ちから自暴自棄となってしまう父親を見つめるという筋立ても印象に強く残る。

 ジョージ・オーウェル(土屋宏之・上野勇訳)『ウィガン波止場への道』(ちくま学芸文庫、1996年)は「わが谷は緑なりき」より少し前の頃、イングランド北部における炭鉱労働者の生活実態を書き留めようとしたルポルタージュである。彼らの苛酷な生活環境への憤りが動機ではあるのだが、その客観的な筆致には、むしろ書き手と坑夫たちとの距離感も窺われてくる。実際、オーウェル自身、社会主義にシンパシーを寄せる者として階級の垣根を飛び越えたいと言いつつも、自らに体感としてしみついているブルジョワ臭・知識人臭にどうしてもぶつかってしまうことを率直に打ち明けている。自分の限界を変に“正義感”で糊塗してごまかさないところは、書き手としてむしろ真摯な態度だと思う。

 上野英信の本を何冊か立て続けに読んだ。旧満洲・建国大学を経て召集され、広島で被爆、その後、京都大学を中退して筑豊の炭鉱地帯に身を投じたという経歴の人である。最近、M先生から上野の『天皇陛下萬歳──爆弾三勇士序説』(洋泉社modern classic新書、2007年)をご教示いただいた。上海事変で爆弾を抱えて突撃し、“勇士”とされた彼が死に際して本当に「天皇陛下万歳」と言ったのかどうか分からない、仮に言ったとしても、そこには世間一般で受け止められているのとは違ったものとして彼なりの万斛の想いが込められていたのかもしれない。彼は炭坑労働者の出身であった。かつての仲間たちが、これを“誇り”と受け止めたことをどう考えるか。同じく上野の『追われゆく坑夫たち』(岩波新書、1960年)とあわせて読むと、それだけ彼らが自尊心も剥奪された絶望的状況にあったことの裏返しでもあるだけに、その二重の哀しさには複雑な気持ちになってしまう。M先生からはもう一冊、西里龍夫『革命の上海で』(日中出版、1977年)もご紹介いただいたが、西里にしても、上野にしても、渦中に入って体当たりでぶつかっていく。激しく、そして不器用ではあっても、相手に対して誠実である。そうしたあたりには、M先生ご自身の研究対象との向き合い方に相通ずるものが確かに感じられ、改めて襟を正した次第(M先生の謦咳に接してかなり深刻なカルチャーショックを受けています)。

 上野英信『地の底の笑い話』(岩波新書、1967年)は炭鉱労働者たちから聞き取った話を集めている。妙におかしくも、ペーソス漂う話をもとに、彼ら彼女らの生活世界を見つめていく。たとえば松谷みよ子の『現代民話考』に採録されていてもおかしくないような怪異譚に私はひかれる。不思議な話に仮託される形で、生きていく上で胸に去来する感情や切実な智慧が浮かび上がっている。上野にしても、一緒に筑豊で文学活動を行なった森崎和江にしても、それを迷信として切って捨てるようなことはしない。不思議を、近代的懐疑に由来する戸惑いと同時に、受け容れていこうとする。

 坑道を掘り進めていく一番の先端、いわゆる切羽、真っ暗闇の中でつるはしを振るう先山とその助手としての後山との関係の緊密さは、一挙手一投足が命に関わっているだけに尋常なものではない。夫婦や親子で入ることが多く、他人同士の男女がコンビを組んだときには性愛の営みも含めて親密さを確かめ合った。地上の人間としてはどうしても卑猥な目で見てしまうが、そういうのとは位相が異なる。坑内のことは地上には持ち出さないのが掟となっており、それだけ、地下と地上とで世界観の違いをはっきりさせていることが窺える。そこには幽霊譚もある。地上の我々からすれば不可解に思えるタブーもある。何よりも、近い親族がまさにここに埋まっているという鎮魂のいとおしさもある。森崎和江『奈落の神々──炭坑労働精神史』(平凡社ライブラリー、1996年)はそうした話を丹念に聞き取りながら、炭鉱が開かれて以来紡がれてきた地下の精神世界を掘り起こそうと努める。炭鉱の閉山は単なる失職を意味するのではなかった。そこは生きるにはあまりに過酷な世界ではあったが、それ以上に、彼ら彼女らにとって体感的に切り離せない共同体ともなっていた。炭鉱で働いた人々は「地上の人には分からんだろうけど」と前置きする。森崎もやはり地上の人間として得心しがたいというもどかしさを感じつつ、階級闘争史観のような図式的な理解ではどうにもならない一つ一つの話を受け止めていくところがとても魅力的な本だと思う。

|

« 国立ハンセン病資料館 | トップページ | 若林正丈『台湾の政治──中華民国台湾化の戦後史』 »

ノンフィクション・ドキュメンタリー」カテゴリの記事

コメント

 どちらかといえばSだと思うのですが、とりあえずこれでいきましょう・・。
 私と「炭坑モノ」の出会いは、小学校の時の課題図書『天の赤馬』(斉藤隆介)でして、厳密に言えばそれは炭坑ではなく隠し銀山の農民一揆の話なんですが、このころから「炭坑モノ」には萌えましたね。変なガキです。私の子どもの頃と言えば、左翼教育バリバリの時期でして、もちろんこの童話も今となっては「何でこんなものを子どもが読んでるんだ?」ってな作品でした。で、これが小学生の読書感想文コンクール・某県3位(?)かなんかになりまして・・・。それからというもの、炭坑モノフリークとなってしまったわけです。

投稿: M先生(笑) | 2008年11月 5日 (水) 00時44分

 S先生(笑)、コメントをありがとうございました(確かに、先生の“激しさ”にMは似つかわしくありませんね)
 斉藤隆介なんてまたなつかしい名前です。『モチモチの木』とか思い出しましたが、それはともかく。私などは炭鉱の坑道に、子供心に冒険といったイメージからワクワク感がありました。ヨーロッパのファンタジーに出てくるドワーフとか、宮崎アニメ世代なので「天空の城ラピュタ」の冒頭を思い浮かべたり。炭坑モノの捉え方にも世代差がありそうですが、もはや炭坑そのものがほとんどない現在、イメージを持つ取っ掛かりすらつかめない人が多そうな感じもします。その点では、ゴリゴリ左翼の炭坑モノも骨董的に芳しくも思われてきます。

投稿: トゥルバドゥール | 2008年11月 5日 (水) 14時40分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 炭鉱がらみで色々と:

« 国立ハンセン病資料館 | トップページ | 若林正丈『台湾の政治──中華民国台湾化の戦後史』 »