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2008年11月28日 (金)

エドマンド・バーク『フランス革命についての省察』

エドマンド・バーク(中野好之訳)『フランス革命についての省察』(上下、岩波文庫、2000年)

 他に、半澤孝麿訳(みすず書房、1997年)も私の手もとにあるし、中公クラシックスで水田洋訳が出ているのも知っているが、なぜ敢えて中野訳の岩波文庫かというと、電車の中で読むのに簡便というだけの理由。水田訳は見てないけど、避ける方がいいでしょう。水田訳(岩波文庫)のホッブズ『リヴァイアサン』なんて直訳調があまりにひどくて読むのに苦労した覚えがある。

 エドマンド・バークの保守主義思想で肝心な点は、第一に、人間の本性も、その人間の織り成す社会も複雑極まりない。従って、単純な一般論で社会構想をでっち上げても必ず無理が生じてしまうということ。第二に、国家社会という場において、一人の人間は孤立して存在するのではなく、祖先から子孫へと受け渡される連鎖の中にある。「あらゆる学問、あらゆる芸術の共同事業、すべての完徳における共同事業である。この種の共同事業の目的は、数多の世代を経ても達成されないから、それは単に生きている人々の間のみならず、現に生きている者とすでに死去した者や今後生まれる者との間の共同事業となる」(上、177~178ページ)。一人の人間の限られた脳髄で考えられることなど高が知れている。ある一時代における思いつきですべてをひっくり返してしまうと、先人の試行錯誤の繰り返しの中で積み上げられてきた叡智=伝統が失われてしまう。“進歩”の名の下で過去を全否定、先人の残してくれた叡智を破壊してしまい、“理性”という人間の思い上がりででっち上げた代物がかえって抑圧的な体制を生み出しかねない、そうした危険をフランス革命に見出したところにバークの批判がある。「憤怒と狂乱は、慎慮と熟考と先見性が百年かけて築き上げるものを、ものの半時間で引き倒すだろう。古い体制の誤謬と欠陥は、目に映り手で触れられる。それらを指摘するのには、大した能力は要らない。」それに対して、「今まで試みられなかった物事には困難が生起しないし、批評は現実に存在していないものの欠陥の発見にはほとほと困惑する。かくて、性急な熱狂と眉唾ものの希望が想像力のあらゆる領野を支配して、それらは、何の見るべき抵抗も受けずにここで活躍する」(下、64~65ページ)。

 だからと言って、社会的な矛盾を放置していいわけではない。「古い体制の有用な部分が保存され、新しく付加された部分が既存の部分へ適合される時にこそ、強靭な精神力、着実で忍耐強い注意力、比較し結合する多面的な能力、そして便法をも豊かに考え出す知性の秘策が発動さるべきである。それは二つの対抗し合う悪徳の結合した力、つまり一切の改革を拒否する頑迷さと、他方で現存する一切のものへの嫌悪や倦怠を感ずる軽薄さとの、不断の構想に傾注さるべきである」(下、65~66ページ)。伝統墨守でもなければ、軽薄な進歩崇拝でもない。皮膚感覚に馴染んだ常識的なバランス感覚に基づいて改良を進めていくということ。当たり前すぎて結論はつまらないが、この地味さの背景には伝統に基づく叡智への信頼という強靭な骨がある。だから、ぶれない。

 保守主義は自律的に思想として成り立っているわけではない。エドマンド・バークのフランス革命批判が政治思想としての保守主義の出発点と位置付けられていることから分かるように、あくまでも“進歩主義”への反措定として現われた思想的立場である。伝統とは長い時間の蓄積を通して皮膚感覚になじんだもので明瞭に論理化することはできず、言葉として定式化された時点で皮膚感覚から遊離したものになりかねない。だからこそ、「~ではないもの」という反措定としてしか現われざるを得ない。保守主義の本領は懐疑にある。フランス革命にしても、その後の社会主義にしても、“理性”と“進歩”の幻想の下、明晰でスッキリした論理を用いつつ、それが明晰であればあるほど単純化→本来的に語り得ぬものを抑圧→生身の感覚を失ったお題目=イデオロギー→異質なものの排除という暴力、こうした危険への洞察が保守主義思想の持ち味である。

 いわゆるポストモダン思想が、語りつつ、語られざる何ものかへの眼差しを忘れず、固定的な言説によって人間がかえって縛られてしまう逆説を解きほぐそうというところに特徴があるとするなら、その点では意外と保守主義思想と共通する面もあると言える。もちろん、保守主義の言う伝統やらコモンセンスやらが体制化してしまうことをポストモダンは否定し、もっと存在論的なレベルで語られざる深みへと進む点では明らかに違う。ただし、“理性”という大義名分による言説化→反転して人間への抑圧となりかねない危険、ここへの洞察という点ではそれほど距離はない。もう一つ言うと、自称保守が国家やら民族やらという大仰で泥臭い、手垢にまみれた言葉を使って語り、それが大義名分化すること自体にこうした逆説がはらまれている可能性もある。保守主義と一言で言っても、良質なものもあればまがいものもあるので要注意。

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コメント

どうも、お久しぶりです。
実は私は哲学研究者(予備軍)、しかもカント研究者(予備軍)なのです。そこで、カントとバークは同時代人で、しかも、フランス革命の態度については全く正反対ですね。一方はそれの合理主義・設計主義的な面に嫌悪感を抱き、他方はそれの自由・平等の精神を断固――どんなに犠牲が出たとしても――肯定する。二人とも、美と崇高の問題について著作を残し、二人とも、ヒュームから何らかのインスピレーションを得ている。私自身は、バークについては特になにも感じるところはないのですが――それどころか、19世紀以降の、イギリス的な保守の精神を受け継いだミルやケインズは、好きな人物です――、バークを好きだといっている現代の日本人には、余り好意的ではない、というところです。
レオン・ブランシュヴィックの著作に『モンテーニュの読者、デカルトとパスカル』というものがありますが、私の妄想の世界には、『モンテーニュの読者、カント』という著作があります。カントと懐疑主義というと、ヒュームとの関係で扱われるのが王道ですが、私には、モンテーニュ(あるいはエラスムス)から始まるモラリストの系譜にカントを位置づけたい、という思いがあるのです。その上でカントの語る「理性」を捉えないと、どうも薄っぺらなものになるような気がするのです。
トゥルバドゥールさんは、保守主義と進歩主義、懐疑主義と合理主義、というところで語っておられますが、自称カント研究者(予備軍)としては、もう一つ付け加えたいと思うのです。つまり、功利主義と尊厳論(義務論・権利論)です。カントは、ルソーを通じて労働者を尊敬することを学んだと言っていますが、バークは(私が読んだ本の間接引用でしたが)労働者を豚のようだとか言っており、そこには、やはりひっかからざるを得ないのです。バークの言葉には、「上から目線」のようなものがある気がして仕方ないのです。伝統を語ること、社会制度の総体的な調和を語ること、社会全体の「功利」を語ることは、人間(人格)の尊厳を語ることに優先するのか、否か。カントとバークとがフランス革命について取った態度は、そういう問いを投げかけているような気がします。
長々と失礼しました。

投稿: ずんだ | 2008年11月30日 (日) 02時32分

 ずんださん、どうもお久しぶりです。コメントをありがとうございました。
 私がバークに関心を持っているのは懐疑という一点だけで、それ以外の論点ははしょってます。私も別にバーク大好きというわけじゃないので擁護する義理もないのですが、気になった点をいくつか。

・彼はイギリスの階級社会を前提としているので平等については留保つきですが、少なくとも自由に関しては積極的に擁護しています。むしろ、自由の名の下で自由を抑圧、平等の名の下、個々の人間の尊厳が奪われかねない、そうした逆説をフランス革命の狂騒に見出しているということではありませんか。

・その点では、ずんださんの「どんなに犠牲が出たとしても」という但書は看過できません。「労働者は豚」云々というところでバークは「上から目線」とおっしゃいますが、大義のために犠牲が出ても構わないという言い方自体、人間を数量として捉える発想が背後に潜んでいる点で極めて功利的ですし、余程残酷な「上から目線」ではありませんか?

・功利と尊厳とをそう簡単に図式的に捉えていいのでしょうか? そもそも、バークだって個人を社会の道具として捉えるような発想はしてないですし、むしろ個人が生きていく上での立脚点としての伝統という考え方でしょう。このような図式的に単純化した問いの立て方は問題の性質を歪めてしまい、かえって不毛だと思うので何とも言えません。

 いずれにしても、フランス革命というイベントを通じて、大陸的な合理論とイギリス的な経験論との大きな対話と捉えていくと、この辺りの議論は興味深いですよね。いや、教科書的なまとめ方ですみません(苦笑)

投稿: トゥルバドゥール | 2008年11月30日 (日) 04時25分

偽善者は素晴らしい約束をする、約束を守る気がないからである。
それには費用も掛からず、想像力以外の何の苦労も要らない。
「フランス革命の省察」エドマンド・バーク原著より
民主党が政権を握って以降、ネットで良く引用されて来ました。ただ、何時頃から引用されるようになったのか、本当にその著作に記述があるのかどうか、など調べています。
そちらは、2008年に投稿されておられるので、活発な引用の前なのですが、上記のような記述は、ご記憶があるでしょうか。
得てしてネットの政治ブログでは、まことしやかに捏造する場合が散見されますので、よかったらコメントをお願いします。
外国に住んでおりますので、日本語の本を入手できない環境にあり、残念です。

投稿: ぐりぐりももんが | 2011年5月29日 (日) 21時26分

当該書ですが、本棚のどこかに紛れ込んでしまって、本そのものがすぐには見つからない状態です。
見つかりましたら改めてコメント差し上げます。

投稿: トゥルバドゥール | 2011年5月29日 (日) 21時42分

原典版のダウンロードができたので、該当する英単語を検索機能でチェックしました。
正直、見当たりません。
偽言、捏造では無いかと思いますが、いかがでしょうか。
http://socserv2.mcmaster.ca/~econ/ugcm/3ll3/burke/revfrance.pdf

投稿: ぐりぐりももんが | 2011年6月 1日 (水) 12時42分

現時点でまだ当該書のチェックができていないので、私としては何とも言えません。すみません。

投稿: トゥルバドゥール | 2011年6月 1日 (水) 22時57分

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