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2008年11月

2008年11月30日 (日)

赤坂憲雄他『民俗学と歴史学──網野善彦、アラン・コルバンとの対話』『歴史と記憶──場所・身体・時間』

赤坂憲雄『民俗学と歴史学──網野善彦、アラン・コルバンとの対話』(藤原書店、2007年)

・支配者=悪玉、民衆=善玉というかつての左翼的な図式的な枠組みが、天皇制の問題も含め、かえっても問題の本質を捉えられなかったのではないかという赤坂の問いかけ。天皇制が生活に根ざしたものからあるということを認め、そこから批判的に捉えなおさなければならないと網野は応答。
・柳田國男の一国民俗学は、日本の庶民の姿を、実際の差異にもかかわらず均質なものとして描こうとした。これは現在、国民国家批判の文脈において頻繁に取り上げられているし、赤坂自身、「いくつもの日本」をキーワードに東北学という形で国境という枠組みには捉えられない地域の多様性、その積み重ねとして日本→東アジアという見方をしようとしている。他方で、柳田の一国民俗学は日本という枠組みから外には出ない→侵略の契機はなかった、とも赤坂は指摘。

赤坂憲雄・玉野井麻利子・三砂ちづる『歴史と記憶──場所・身体・時間』(藤原書店、2008年)

・「抜け落ちた記憶」をどのように捉えるか。一つには加害体験の引け目がある。そればかりでなく、たとえば旧満州からの「引き揚げもの」の記録について、自分の子供を捨てざるを得なかった、集団自決で子供を殺したのに自分だけ生き残ってしまった、あるいはレイプされた、そういった本当に深刻な体験をした人が自ら語ることができるのか?
・世間の風潮を敏感に感じ取って、自分の記憶を微妙に修正したり、他人に置き換えて語ったりということもあるだろう。様々なレベルで、自らの体験を語れないことがたくさんある。しかし、語りやすいこと、語られたことだけが記録されて“史実”に組み込まれていく難しさ。
・最近、沖縄での集団自決の軍の関与を教科書の記述から落とされたことについて沖縄の人々が強く反発したということがあった。沖縄の人々には、自分のおじい、おばあの記憶を否定されたことへの反発があった、という指摘に興味を持った。感情的というレベルのことではなく、身近な人間関係における語り口が皮膚感覚レベルで受け継がれ、世代を超えて共有される記憶。記憶の語りの持つ重層的な複雑さ、そして豊かさ。

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2008年11月29日 (土)

藍博洲『幌馬車の歌』

藍博洲(間ふさ子・塩森由岐子・妹尾加代訳)『幌馬車の歌』(草風館、2005年)

 映画「悲情城市」(→参照)は二・二八事件を取り上げたことで台湾映画史上、一つの画期点をなしている。政治犯として捕らえられていた人物が処刑場へと引き立てられていくシーンで、同房の人々から哀愁のこもった歌声が沸き起こる。「幌馬車の歌」──侯孝賢は、本書の著者が雑誌に発表した文章を読んでこのシーンの着想を得たそうだ。

 鍾浩東は1915年、台湾南部・屏東の生まれ。大規模な抗日武装蜂起としては最後となる西来庵事件のあった年である。皇民化運動が進められる中、家庭的に中国民族意識が強く反抗精神も旺盛であった彼は、孫文の『三民主義』や五四運動期の文学作品を読んで日本による同化教育に反発していた。しかし、中国人としての民族意識に基づき台湾の解放を目指しながらも他ならぬ“祖国”に裏切られてしまう。親族や友人など身近に接した人々からの聞き書き、公文書等の史料、時には拷問者の証言の引用までも織り交ぜ、様々な声のポリフォニックな響き渡りを通して彼のたどった悲劇を浮き上がらせていくノンフィクションである。

 鍾浩東は日本の明治大学に留学したが、日中戦争が始まり、抗日運動に身を投ずるべく仲間と共に大陸へ渡る。この時点からすでに不吉な予兆があった。身分証明書がないため台湾出身=日本のスパイという容疑をかけられて尋問を受け、銃殺刑の間際までいったが、たまたま来合わせた台湾出身の国民党幹部・丘念台のとりなしで何とか助かる。この時、やはり抗日運動に馳せ参ずべく南洋、シンガポール、マレーシアなどから来た若者たちも共産党員の疑いをかけられて拘留されているのを見かけという。

 日本の敗戦後、鍾浩東は台湾に戻り、基隆の中学校長となる。高度な教育環境を整えようという熱意と清貧な生活態度は広く尊敬された。植民地時代の日本人教師には横暴で差別的な人も多かったが少なくとも金銭面での不祥事はあまりなかったのに対して、新たに大陸から来た教員たちは平気で袖の下を要求したため台湾の人々はそのギャップに愕然としたという趣旨のことを別の本で読んだことがあるが、鍾浩東の誠実な姿勢はそれだけ目立ち、慕われたのだろう。このような国民党政権の腐敗体質は台湾の人々の強い反感を買っており、1947年、二・二八事件がおこる。国民党軍による虐殺を目の当たりにして、自分たちは一体何人なのか分からなくなったという知識青年の戸惑いが本書の証言の中にあった。事件後も白色テロという形で特務による政治犯の拉致・失踪が日常化し、共産党系の細胞に加入していた鍾浩東も連行された。1950年、彼の一番好きだった「幌馬車の歌」を歌いながら処刑場へと向かう姿を同房の人々は見送ることになる。

 この「幌馬車の歌」は、実は日本語の歌であった(田村志津枝『悲情城市の人びと』晶文社、1992年)。鍾浩東の妻・蒋蘊瑜(蒋渭水の養女)は、知り合ったばかりの頃に夫から教えてもらったという。この歌を歌うたびに故郷の田園風景を思い浮かべると彼は語っていたそうだ。抗日民族主義者であった彼が死に際して日本の歌を歌ったというのも不思議なアイロニーを感ずるが、彼は西洋の歌とばかり思っていたらしい。本書の著者も付論でこの歌は決して軍国主義の歌ではないと強調しているように、どの民族、どの言語というレベルのことではなく、彼のたどらざるを得なかった悲劇と、この望郷の想いを歌い上げた詩情とを重ね合わせたとき、何とも言いがたい哀しさに身がつまされる思いがする。

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2008年11月28日 (金)

エドマンド・バーク『フランス革命についての省察』

エドマンド・バーク(中野好之訳)『フランス革命についての省察』(上下、岩波文庫、2000年)

 他に、半澤孝麿訳(みすず書房、1997年)も私の手もとにあるし、中公クラシックスで水田洋訳が出ているのも知っているが、なぜ敢えて中野訳の岩波文庫かというと、電車の中で読むのに簡便というだけの理由。水田訳は見てないけど、避ける方がいいでしょう。水田訳(岩波文庫)のホッブズ『リヴァイアサン』なんて直訳調があまりにひどくて読むのに苦労した覚えがある。

 エドマンド・バークの保守主義思想で肝心な点は、第一に、人間の本性も、その人間の織り成す社会も複雑極まりない。従って、単純な一般論で社会構想をでっち上げても必ず無理が生じてしまうということ。第二に、国家社会という場において、一人の人間は孤立して存在するのではなく、祖先から子孫へと受け渡される連鎖の中にある。「あらゆる学問、あらゆる芸術の共同事業、すべての完徳における共同事業である。この種の共同事業の目的は、数多の世代を経ても達成されないから、それは単に生きている人々の間のみならず、現に生きている者とすでに死去した者や今後生まれる者との間の共同事業となる」(上、177~178ページ)。一人の人間の限られた脳髄で考えられることなど高が知れている。ある一時代における思いつきですべてをひっくり返してしまうと、先人の試行錯誤の繰り返しの中で積み上げられてきた叡智=伝統が失われてしまう。“進歩”の名の下で過去を全否定、先人の残してくれた叡智を破壊してしまい、“理性”という人間の思い上がりででっち上げた代物がかえって抑圧的な体制を生み出しかねない、そうした危険をフランス革命に見出したところにバークの批判がある。「憤怒と狂乱は、慎慮と熟考と先見性が百年かけて築き上げるものを、ものの半時間で引き倒すだろう。古い体制の誤謬と欠陥は、目に映り手で触れられる。それらを指摘するのには、大した能力は要らない。」それに対して、「今まで試みられなかった物事には困難が生起しないし、批評は現実に存在していないものの欠陥の発見にはほとほと困惑する。かくて、性急な熱狂と眉唾ものの希望が想像力のあらゆる領野を支配して、それらは、何の見るべき抵抗も受けずにここで活躍する」(下、64~65ページ)。

 だからと言って、社会的な矛盾を放置していいわけではない。「古い体制の有用な部分が保存され、新しく付加された部分が既存の部分へ適合される時にこそ、強靭な精神力、着実で忍耐強い注意力、比較し結合する多面的な能力、そして便法をも豊かに考え出す知性の秘策が発動さるべきである。それは二つの対抗し合う悪徳の結合した力、つまり一切の改革を拒否する頑迷さと、他方で現存する一切のものへの嫌悪や倦怠を感ずる軽薄さとの、不断の構想に傾注さるべきである」(下、65~66ページ)。伝統墨守でもなければ、軽薄な進歩崇拝でもない。皮膚感覚に馴染んだ常識的なバランス感覚に基づいて改良を進めていくということ。当たり前すぎて結論はつまらないが、この地味さの背景には伝統に基づく叡智への信頼という強靭な骨がある。だから、ぶれない。

 保守主義は自律的に思想として成り立っているわけではない。エドマンド・バークのフランス革命批判が政治思想としての保守主義の出発点と位置付けられていることから分かるように、あくまでも“進歩主義”への反措定として現われた思想的立場である。伝統とは長い時間の蓄積を通して皮膚感覚になじんだもので明瞭に論理化することはできず、言葉として定式化された時点で皮膚感覚から遊離したものになりかねない。だからこそ、「~ではないもの」という反措定としてしか現われざるを得ない。保守主義の本領は懐疑にある。フランス革命にしても、その後の社会主義にしても、“理性”と“進歩”の幻想の下、明晰でスッキリした論理を用いつつ、それが明晰であればあるほど単純化→本来的に語り得ぬものを抑圧→生身の感覚を失ったお題目=イデオロギー→異質なものの排除という暴力、こうした危険への洞察が保守主義思想の持ち味である。

 いわゆるポストモダン思想が、語りつつ、語られざる何ものかへの眼差しを忘れず、固定的な言説によって人間がかえって縛られてしまう逆説を解きほぐそうというところに特徴があるとするなら、その点では意外と保守主義思想と共通する面もあると言える。もちろん、保守主義の言う伝統やらコモンセンスやらが体制化してしまうことをポストモダンは否定し、もっと存在論的なレベルで語られざる深みへと進む点では明らかに違う。ただし、“理性”という大義名分による言説化→反転して人間への抑圧となりかねない危険、ここへの洞察という点ではそれほど距離はない。もう一つ言うと、自称保守が国家やら民族やらという大仰で泥臭い、手垢にまみれた言葉を使って語り、それが大義名分化すること自体にこうした逆説がはらまれている可能性もある。保守主義と一言で言っても、良質なものもあればまがいものもあるので要注意。

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2008年11月26日 (水)

スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』

G・C・スピヴァク(上村忠男訳)『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房、1998年)

 サバルタン(従属的立場にある人々)は語ることができない。それでは、我々が透明な第三者として、彼らになり代わって語ることができるのか。ここで気をつけねばならないのは、本書は、“弱者”なるものを、声を上げることのできない具体的な社会階層として捉える議論とは異質であること。そうした大文字の“正しい”議論もまた、かえって“弱者”なるものの本質主義的固定化→それ自体が抑圧の機能を果たし得る。

 本書ではインドのサティの風習が取り上げられている。「白人の男性たちは、茶色い女性たちを茶色い男性たちから救い出そうとしているのだと言いながら、そのような言いかたのもとで、実は言説的実践の内部にあって、良き妻であることと夫の火葬用の薪の上で自己を犠牲に供することとを絶対的に同一視することによって、それらの女性たちにいっそう大きなイデオロギー的強制を課す結果となっているのである」(105ページ)。かと言って、名指し→対象把握ができなければ、考えるとっかかりすらつかめない。

 「思考とは…テクストの空白部分である」というデリダの言葉をスピヴァクは引く。透明な第三者という立場(それは必然的に偽りとならざるを得ない)からの言説化そのものが権力的ベクトルを帯びてしまうというもどかしさを抱えながら、語ってはこの言説構造を崩し、という繰り返しの中で、語られざる何かに接近していくしかないのだろう。デリダにしても、本書にしても、表現が回りくどくて読みづらいのは確か。ただし、それは頭の悪い学者の衒学趣味とは全く違う。明確な結論を引き出して分かったつもりになるよりも、こうしたもどかしさそのものを追体験していくところに本書を一読してみる価値がある。

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2008年11月25日 (火)

日本政治を新書で読む

 飯尾潤『日本の統治構造──官僚内閣制から議院内閣制へ』(中公新書、2007年)は、政党政治家と官僚とが渾然一体となって政策形成を行なってきた戦後日本の政治構造を擬似的・変則的な議院内閣制であったと捉える。いわゆる55年体制において政権交代はなかったが、①省庁別に関係利益団体と接点をもって個別問題ごとに民意集約機能を果たしていた省庁代表制、②大きな政策方針転換については審議会を利用、③自民党内の派閥抗争を通した擬似政権交代で国民のカタルシス解消、④野党との取引により与党外の社会的利益も集約、これらの柱に支えられる形で、自民党一党優位でありながらも首相を空虚な中心に据えた分散的な政治文化において、この変則的な議院内閣制は一定の実績を挙げてきたという。

 経済が右肩上がりであった頃は政策項目を増やしても財源的に支障はなかった。しかし、現在、限られた財源の中では政策課題の実行にあたり、配分関係のトレードオフが必要である。政策決定の強力な権力核が必要であり、それは当然ながら民主政としての正統性を持つものでなければならない。飯尾書は首相権限の強化という点で議院内閣制が本来持っているはずの一元代表制としての性格に着目する。教科書的には司法・立法・行政の三権分立が政治構造のスタンダードと思われているが、議院内閣制は立法と行政とが一体となっているところに特徴がある。ここに権力核の強化と民主政的正統性を両立させるカギがあり、従来型に代わる政治システムの可能性を見出そうとしている。

 野中尚人『自民党政治の終わり』(ちくま新書、2008年)は、こうした戦後政治体制を自民党の組織ネットワークに焦点を合わせて分析している。議員の後援会組織や業界団体を通して草の根レベルまで触手がおろされており、この組織化によって世の中の利害に対応するという形で民意の集約・調整機能を果たしてきたボトムアップ、コンセンサス重視型のシステム=「自民党型の戦後合意」システムと捉える。これは中選挙区制下での自民党議員同士の競争によって活性化されると同時に、野党を取り込むチャネルも持っていた。洗練された政治モデルとは言いがたいが、イデオロギー的に柔軟な政治運営を通して広範な利益集団を包摂できた点で、実は高度な民主性を達成していたと評価される。

 従来、官僚主導という観点から政治批判を行なう議論がよく見られたが、飯尾、野中ともに官僚を戦後政治システム内の柱の一つとして位置づける枠組みを提示している。従来型の論点としては、たとえば辻清明『日本の地方自治』(岩波新書、1976年)は、地方自治体における機関委任事務の多さや旧内務官僚的な牧民思想などを挙げて、官僚主導の中央集権が戦後になっても依然として続いていると問題提起をしていた。対して村松岐夫『日本の行政──活動型官僚制の変貌』(中公新書、1994年)は、省庁間においても、中央‐地方関係においても(機関委任事務という形で地方レベルまで各省庁割拠は根を張っているが)一定の競争関係があって決して一方向的なものではなく、そのバランスとして政策過程を把握できるとする。ただし、この省庁代表制がセクショナリズムとして逆機能を見せていることを指摘、行政改革の必要を論じている。飯尾、野中、村松ともにトップ機能の強化という方向に論点を進めていく。

 強力な権限を持った首相としてはやはり小泉純一郎に注目せざるを得ない。竹中治堅『首相支配──日本政治の変貌』(中公新書、2006年)は、1993年の細川政権成立から2005年の郵政選挙までの政治史的流れを概観・総括した上で、首相権限の強力な新たな政治システム=2001年体制(2001年に小泉内閣が発足)が成立したと主張する。橋本行革による内閣府の権限強化という下準備がすでにあって、小泉はこれを活用し、同時に世論の支持によって与党内でトップダウンの決断ができるという条件を備えることができた。選挙の顔としての人気が権力に直結するようになったと言える。大嶽秀夫『日本型ポピュリズム──政治への期待と幻滅』(中公新書、2003年)はポピュリズム型政治家の一人として小泉を取り上げてはいるが、まだ郵政選挙前の分析なのでピンと来ない。内山融『小泉政権──「パトスの首相」は何を変えたのか』(中公新書、2007年)では、小泉のパトスによる強力な政治的求心力に基づくトップダウン型政策決定は、国内の経済問題については竹中平蔵の采配もあってうまくかみ合っていたが、外交案件については成功しなかったと評価されている。他方、新書ではないが信田智人『官邸外交』(朝日選書、2004年→参照)は田中真紀子がらみのゴタゴタで外務省が機能不全に陥ったという要因も相俟って、外交も首相のトップダウンで進める方式が定着したと指摘している。

 内山書は、小泉のパトスを前面に押し出す政治手法によってこれまで政治に関心のなかった層が掘り起こされたことは評価しつつも、ロゴスが軽視されている点に危うさを見出している。そういえば、郵政選挙の後、いわゆるニート層の中で、小泉の進める新自由主義的な政策は彼らにとってむしろ不利であるはずなのに、「ぶっこわせ!」という感情レベルで反応して自民党への投票行動が見られた、と教育社会学の本田由紀が指摘していたのを思い出した(ただし、本田は“ニート”という表現のむやみな多用を批判している)。なお、小泉ものとしては他に御厨貴『ニヒリズムの宰相小泉純一郎論』(PHP新書、2006年)があるが、私は未読。

 選挙の顔としての人気が首相の条件となりつつある点では、柿﨑明二『「次の首相」はこうして決まる』(講談社現代新書、2008年)が、政治部記者として見たここ最近の永田町の動きをたどりながら、政治家たちが世論調査に左右されている姿を描き出しているのが興味深い。一見、喜劇的ですらあるのだが、民主政の本来を考えるなら相当に深刻な問題だ。

 伊藤惇夫『民主党──野望と野合のメカニズム』(新潮新書、2008年)は、民主党の内部を熟知した立場(著者は元民主党の事務局長)から人脈的・組織的特徴をまとめている。政権交代可能な政治勢力を目指している割には、あまりパッとした印象を受けないのだがなあ…。かつての55年体制における万年野党であった社会党については原彬久『戦後史のなかの日本社会党──その理想主義とは何であったのか』(中公新書、2000年)がある。自民党の系譜については、新書ではないが、冨森叡児『戦後保守党史』(社会思想社・現代教養文庫、1994年/岩波現代文庫、2006年)と北岡伸一『自民党──政権政党の38年』(読売新聞社、1995年/中公文庫、2008年)の2冊が学生の頃に読んで面白かった記憶がある。最近、両方とも復刊されているのでおすすめできる。

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2008年11月24日 (月)

何義麟『二・二八事件──「台湾人」形成のエスノポリティクス』

何義麟『二・二八事件──「台湾人」形成のエスノポリティクス』(東京大学出版会、2003年)

 二・二八事件といえば、知っている人なら侯孝賢の映画「悲情城市」を思い浮かべるだろう(→こちらの記事を参照のこと)。本書はもちろんこの国民党政権による武力弾圧事件の経過を史料に基づき詳細にたどっているのだが、問題意識はそこにとどまらない。エスニシティは状況によって可変的なのか、それとも原初的に固定されているのか?という問いを踏まえ、日本統治時代から事件後の国民党独裁体制までを視野に入れながら、上からの強圧的な国民統合の論理と下からの自治要求との衝突から“台湾人”意識が芽生えてきた、その最大のターニングポイントとして二・二八事件を位置づける。

 日本の植民地支配下、台湾の人々は従属的な立場に置かれて政治参加は許されなかった。差別的地位にあるという共通体験から“台湾人”意識が芽生え、台湾文化協会→台湾民衆党による台湾議会設置運動をはじめとした抗日民族運動が展開された。しかし、彼らの政治意識の高さは、日本の敗戦→国民党の台湾回収という大転換の中で幻滅を味わうことになってしまう。

 台湾人側は日本という支配者が去ってようやく高度な自治が実現できると期待していたし、日本統治時代、限定的ではあったが地方自治選挙を多少なりとも経験していた。対して国民党側は、孫文の思想に示された「軍政→訓政→憲政」という三段階モデルにおける訓政=国民党一党独裁を前提としていたばかりか、台湾人は日本による“奴隷化”教育を受けてきたとして祖国=中国への忠誠心に疑いを抱いていた。両者の思惑に相違があった上に、台湾省主席として乗り込んできた陳儀による統治のまずさ(具体的には官吏・軍人の汚職、台湾土着エリートの政治参加を排除、標準中国語の押し付けなど拙速な文化政策、食糧危機、伝染病の流行等々)が重なった。台湾人は祖国復帰への期待が大きかっただけにかえって国民党支配への反感が高まり、言語的な意思疎通の難しさも相俟って、彼ら“外省人”に対して自分たちを“台湾人”と考えるエスニックな自覚が形成された。言い換えると、不平等な権力関係のまま“上からの国民統合”=祖国化(中国化)を進める国民党の存在は台湾人にとってかつての支配者・日本と変わらず、台湾人の「脱植民地化」要求が国民党による「再植民地化」と対立するという構図を生み出してしまった。

 こうした火種がくすぶる中で二・二八事件が起こり、いわゆる“省籍矛盾”が決定的となってしまう。台湾に上陸した国民党軍の精鋭部隊や特務機関は台湾人エリート層を次々と逮捕・処刑し、抗日民族運動の流れを汲む台湾土着の政治勢力はほぼ抹消された。生き残った人々のうち、ある者は国民党の統治体制に形式的に組み込まれ、ある者は海外に亡命した。日本・アメリカへの亡命者は台湾独立志向が強く、大陸へ逃れた者は国民党批判→共産党体制下における高度な自治を目指した。

 日本の敗戦から二・二八事件の前後までの時期、様々な考えを持って行動した人々の人脈関係を本書は丹念に拾い上げており、大陸帰りの祖国派台湾人の動きのほか、とりわけ自治要求を行なった台湾土着の政治勢力に1920年代以来の抗日民族運動との系譜的一貫性のあることが明らかにされているところが興味深い。

 本書は二・二八事件を中心とした政治過程の分析を通して、エスニシティそのものが政治対立を生じさせたのではなく、むしろ政治的コンテクストの中で日本人でも外省人でもない台湾人としてのエスニックな自覚が形成されたことを示している。その意味で台湾におけるエスニシティは可変的であったと言える。

 先日、陳水扁前総統が逮捕された。自らを政治弾圧で殉難する十字架上の英雄に擬するパフォーマンスが見られ、特に南部の独立派本省人の間では同情→外省人への反感という感情的しこりもあるらしい。素人考えだが、陳水扁の最大の功績は政権交代を実現させたこと、そして総統という最高権力者だった人でも法の例外ではありえないと身を以て示したこと、この二つの点で民主化の成果を(皮肉まじりではあるが)示し得たことだと私などは思っているのだが。立法院・総統選挙を前に政権腐敗で支持率が低下する中、彼はなりふり構わず族群対立を煽った。そうした選挙戦術は、暗黙のうちにエスニシティの本質主義的固定化、政治利用の可能性を含意してしまうおそれがあったし、そのしこりはこの逮捕劇からも窺われる。こうした火種が今でもくすぶっていることを考えると、現在進行形の台湾政治を考えるとき本書の示している視座を踏まえておく必要があるだろう。

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2008年11月22日 (土)

押村高『国際正義の論理』、マイケル・ウォルツァー『戦争を論ずる』他

 国境外の出来事について日常的に“知る”ことが可能となった現在、飢餓やジェノサイドをはじめ深刻な人道問題を他人事として放置できるのか?という問いが政策決定上の要因として無視できなくなっている。以前、このブログでもソマリア、ルワンダ、ダルフールの問題を取り上げたことがあるが、究極的なアポリアにぶつかってしまうのが軍事力の扱い、人道的介入の問題だ。

 軍事力=絶対悪とみなす傾向がかつて日本の進歩的左翼に顕著に見られたが、現在、そうした絶対平和主義は少なくとも国際法・国際政治学などの分野では稀だと言える。人道目的の武力行使が必要であることについては一定のコンセンサスが得られている。ただし、“平和”という大義名分の下で恣意的な侵略行為を正当化しかねない危険は常に存するわけで、武力行使を可能にする要件を厳しくするのか、それとも緊急対応できるよう緩くすべきなのか、そうした要件設定の幅をめぐって議論がかわされているのが現状である。最上敏樹『人道的介入』(岩波新書、2001年→参照)や押村高『国際正義の論理』(講談社現代新書、2008年)を読むと、安易な結論を下すことの出来ない難しさにもどかしい戸惑いを禁じ得ない。

 押村『国際正義の論理』を読んで興味を持ったのは次の二つの論点。第一に、“戦争の違法化”が本当に“正義”にかなうのか?というカール・シュミットの問題提起(90~93頁)。第一次世界大戦後、ケロッグ=ブリアン協定によって戦争違法化の努力が進められたが、戦勝者が中心となって規範化を行なってしまうと、戦争という一時的・偶然的出来事による戦勝国・敗戦国の図式が固定化されてしまう。戦勝国の論理が国際法という普遍性を身にまとう→規範の絶対性のゆえに反発もより強く、苛烈な闘争状態に陥るおそれがある、という(同じ頃に書かれた近衛文麿「英米本位の平和主義を排す」という論文を思い浮かべた)。

 第二に、格差原理を国際社会にまで広げて適用するのをためらったジョン・ロールズの議論(170~176頁)。彼のいわゆる“公正としての正義”論は主権国家の枠内においての社会政策の義務化を意図している(後述)。だが、他国にまで社会正義の名の下で踏み込んでしまうと、相手国内におけるコンセンサスの秩序を揺るがしてしまうおそれがある。主権国家の多元性を所与の条件としている以上、格差原理の適用はあくまでも国内限定で、国境の外に広げることは正当化しがたい、という。私はロールズ『万民の法』は未読だが、『公正としての正義 再説』でも自分の議論はあくまでも自分たちの社会に限定されるという趣旨の但し書きがされていたように記憶している。

 ともすると、世界政府のような統一体の中で一元的な法体系→警察的抑止が可能となればいいと夢見たくなることもある。しかし、シュミットやロールズの議論をみるにつけ、思惑の異なる様々なロジックがせめぎ合う中で辛うじて危ういバランスを保とうとしている国際法のダイナミズムそのものに興味がひかれてくる。

 国益追求のため没価値的に戦争を肯定するリアリズムに対して、人道目的限定でルールを定めた上でなら手段として武力行使を容認する考え方を正戦論という。正戦論は決して戦争を肯定してはいない。ただ、現実に人間は戦争をしている。武力を抑止できるのは武力以外にない。この端的な事実に我々は一体どのように向き合えばいいのか? マイケル・ウォルツァー『戦争を論ずる』(風行社、2008年)は、こうした正戦論の立場による論考を集めている。

 ウォルツァーはコミュニタリアニズムの代表的論客として知られている。ジョン・ロールズの公正としての正義論は、アトム的個人を前提→無知のヴェール→自分が不利益を被る可能性→不利益を最小限に食い止めようという動機が働く→配分的社会政策を正当化できる、という論理構成をとる。これに対して、何を不利益と感じるのかはその人の属する共同体の価値観によって異なってくる、抽象的な“負荷なき”個人など現実にはあり得ず、ある共同体における価値意識が共有されていてはじめて他者への配慮があり得る、と批判したのがコミュニタリアニズムである。特定の共同体の価値意識を排他的に称揚するというのではなく、様々なレベルにおいて共同体が共存することを模索しており、その共存の調整原理が“寛容”だとされる(マイケル・ウォルツァー『寛容について』みすず書房、2003年)。エスニシティの多元性を特徴とするアメリカ社会において、コミュニタリアニズムはマイノリティ擁護の論陣を張った。

 正戦論とコミュニタリアニズムとの関わりでいうと、「緊急事態の倫理」という論文に興味を持った。ウォルツァーの議論では、祖先から継承される生活様式の維持、そこにおいて一人の個人は共同体に分かちがたく組み込まれている、ということが前提となっている。彼の議論はマイノリティ擁護という点ではリベラル左派だが、時間軸における共同体と個人との一体性を重視する点では保守主義的である。日本の論壇における政治図式とは必ずしも重ならないので要注意。

 価値観のそれぞれ異なる共同体の多元的共存が破られる状態、“寛容”が成り立たない状態、たとえばナチスによるホロコーストのような最高度の緊急事態においては、個人を前提とした功利計算による考え方では対応できない。第一に、無辜の民を守るために自らの命を投げ出すリスクを負わねばならない。第二に、自分たちの共同体の絶滅の危機を回避するための反撃において、相手側の非戦闘員を巻き込む可能性を排除できない。その際、無辜の民を殺す可能性のある政治判断を行なう指導者は、自らの「汚れた手」の罪悪を自覚せねばならない。自分というものを超えたレベルで共同体に価値的なコミットメントをしていなければ、命を投げ出すリスクと「汚れた手」の引き受け、プラスマイナス両面における道徳的強靭さに耐えることはできない、という。

 緊急事態において通常の功利計算的な権利概念は乗り越えられるという考え方はカール・シュミットの例外状態の議論も想起させる。例外は、我々が普段目を背けて考えようとしない問題を明瞭に突きつけてくる。だからこそ、例外がすべてを説明する、とカール・シュミットは言っていた。正戦論は戦争についての現実的な認識とそれを何とかしようという理想主義的な情熱とが絡まり合っており、そこにはらまれた逆説からは政治のより本質的な問題が浮かび上がってきて目が離せない。

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2008年11月20日 (木)

新保祐司『信時潔』

新保祐司『信時潔』(構想社、2005年)

 田沼武能によって撮影された信時潔の写真が本書カバーを飾っている。和服姿、ゴツイ面構えに短く刈り込んだ頭髪。大工の棟梁というおもむきで、近現代西欧音楽を摂取した作曲家とは一見したところではわからない。

 信時は「海ゆかば」の作曲者として知られている。軍国主義礼賛と受け止められ、戦後、この曲が演奏される機会はほとんどなくなった。私自身、名前は知っていてもメロディーは思い浮かばない。そもそも、母校の校歌の作曲者が実は信時なのだが、そのこと自体最近まで知らなかったくらいだ。同年代の山田耕筰の場合、彼の戦争協力を批判する声が現在でもあるにしても、一応、近代日本音楽の先達として確固たる位置を占めているのに対し、朴訥な信時は山田のように器用に立ち回ることはできなかった。

 “軍国主義”というレッテル貼りによって彼の音楽性そのものを無視してきた戦後の安易な風潮に対しての著者の憤りには賛成できる。ただ、その一方で、信時のメロディーの根柢から政治的なものを超越した精神的な歴史性・民族性を感じ取ろうとするところは、私には正直なところよく分からない。著者は1950年代の生まれだから戦後世代で、戦前・戦後という区分を越えて連綿と続く感性を取り戻したいという情熱があるのだろう。文芸批評ではなく国学と称したいと著者は言っているが、意識下の集合的心性を汲み取ろうとしていると考えるなら、何となくユング的な感じもする。否定するつもりは全くないのだが、共感のとっかかりが私にはつかめない、その意味で私自身の感性が歴史的な“日本”なるものからかけ離れてしまっているのかとつくづく思ったりもした次第。

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2008年11月19日 (水)

石田一志『モダニズム変奏曲──東アジアの近現代音楽史』

 ここしばらく、江文也という作曲家に興味を持って少しずつ調べている。侯孝賢監督「珈琲時光」が私は大好きで、この映画で彼の名前を知って以来ずっと気にかかっていた。戦前の台湾出身。日本で名を成し、戦中に北京に行ったまま日本の敗戦を迎え、文化漢奸の容疑をかけられたものの中華人民共和国に仕える、が、文革に巻き込まれたり、と彼の人生そのものが東アジア現代史の一側面を体現している。

 今年、彼が戦争中に刊行した『上代支那正楽考──孔子の音楽論』(平凡社・東洋文庫、2008年)が復刊された。解説として付された片山杜秀「江文也とその新たな文脈──1945年までを中心に」という論文が秀逸だった。江は亡命ロシア人音楽家チェレプニンに引き立てられ、彼の影響で中国の伝統に目を開かされたこと、同様にチェレプニンに見出された伊福部昭と並べているあたりなど非常に興味深い。江文也のことはまた機会を改めて。

 江文也について文献検索をしているうちに、石田一志『モダニズム変奏曲──東アジアの近現代音楽史』(朔北社、2005年)を知った。先日このブログでも取り上げた片山杜秀『音盤考現学』『音盤博物誌』(アルテスパブリッシング、2008年)にしてもそうだけど、従来はマイナーだった日本や東アジアの近現代音楽史研究からまとまった成果が現われつつあるのが嬉しい。

 私は高校生の頃から現代音楽には興味があって、CDのライナーノーツで石田一志という名前は見かけていた(確か、ショスタコーヴィチの交響曲だったと思う)。大学に入って石田先生が講師で来ているのを知り、迷わず受講した。ポール・グリフィス『現代音楽小史』(音楽之友社、1984年)をテキストに、楽曲を聴かせて適宜解説を加えるというオーソドックスな進め方だったけど、私にはとても面白くて休まずに出席していた。スティーヴ・ライヒやグレツキを好きになったり、ジョン・ケージの有名な「4分33秒」を初めて聴いた(?)のもこの授業だった。いつの間にか東アジア音楽史なんていう分野を切り開いていたとは知らなかった。

 日本・中国(補章として香港・台湾を含む)・韓国の三部構成、それぞれ19世紀から現代に至る音楽史を時系列に従ってまとめている。作曲家を中心に事典的な項目を通史的に並べたという感じで、分析の切り口に特に斬新さがあるわけではない。しかし、旧満洲国が中国に残した音楽的影響、文革の問題、朝鮮半島なら親日派や南北対立など、東アジアには音楽だからと言って政治的にナイーブでは済まされない難しさがある。本書の一見無味乾燥な叙述は、そうした政治評価から距離を置く姿勢にもなっており、安心して読める。500ページを超す大著だが、眺めているだけでも色々なつながりが見えてくるのも面白い。たとえば、チェレプニンは日本で江文也や伊福部昭などを発掘する一方、中国でもその後の音楽界をリードする人材を育成していることなど初めて知った。知らない音楽家の名前が出てきたときにすぐ調べられるようレファレンス本として手もとに置いておきたい。

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2008年11月18日 (火)

ステファン・コルキュフ『台湾外省人の現在──変容する国家とそのアイデンティティ』

 今年の正月は台北にいた。1月1日は中華民国の建国記念日にあたり、この日を期して、蒋介石の銅像の鎮座する中正紀念堂は台湾民主紀念館と改称された。いわゆる“正名運動”の一環だが、立法院・総統選挙を間近に控えた政治の季節、政権腐敗で支持率低下に悩む陳水扁が族群対立を煽って挽回しようとする意図にも合致するタイミングだった。宿舎でテレビをつけたら、独立派と統一派がつかみ合わんばかりに激論をかわす姿が映し出されていた。

 翌日午前、私も台湾民主紀念館に足を運んだ。自由広場と改称されたそこは、前日の喧騒とは打って変わって静かだった。長い階段のふもとのあたり、車椅子の老人が一人ひっそりと佇み、扁額の架け替えられた紀念堂をじっと見上げている。私がちょうど通りかかったとき、日本人観光客がこの老人に話しかけるところだった。一瞬の間があった。観光客が「日本語、わからない?」と言うのとほぼ同時に、その老人は中国語で何やらまくし立て始めた。老人は外省人なのだろう。くだんの日本人観光客には、ある年齢以上の台湾人なら日本語教育を受けているはずだという考えがあったのだろうが、本省人と外省人との微妙な関係について配慮する用心を欠いているのは軽率だと思った。すぐ隣の国なのに、“親日的”な台湾に好意を抱く日本人がこれだけ多いにも拘わらず、台湾社会の多元的な複雑さは意外と理解されていない。

 その老人は、彼ら外省人が台湾にいることの“正統性”が一つ一つ消し去られていくことに様々な思いをかみしめていたのだろう。前日テレビで見た声高に議論する人々とは異なり、この老人の無表情な静けさが印象に残っている。

 外省人、と一言でいっても、台湾の外から来たことを意味するだけで、その出身地は様々だ。大陸は広い。国民党の進めた国語政策には、台湾人だけでなく、この方言的にバラバラな外省人をも統合しようという目的もあった。外省人というエスニック・グループが初めから鮮明だったのではなく、二・二八事件や白色テロで本省人が国民党への不信感を募らせる中、その敵愾心から逆規定される形で外省人として一括りにされたと言える。

 いわゆる本省人には、日本→中華民国と支配者が交代する歴史の中で、自分たち自身の政治的アイデンティティを定位できなかったという揺らぎがある。そうした本省人と対立的に捉えられがちな外省人もまた彼らなりに自己認識を見出せない困難を抱えている。ステファン・コルキュフ(上水流久彦・西村一之訳)『台湾外省人の現在──変容する国家とそのアイデンティティ』(風響社、2008年)は、外省人へのアンケート調査を踏まえ、理念的には大陸志向でありながらも、生活レベル・感性レベルではむしろ台湾に根を下ろしつつあるという乖離に外省人自身が戸惑っている姿を読み取ろうとしている。

 外省人の話す中国語にも時折閩南語のフレーズが混じり、彼らが台湾に土着化しつつある特徴の一つとして指摘される。政府に期待する政策項目としても経済や社会問題に関わるものが上位を占め、当面の生活には直結しない両岸関係のプライオリティーは最も低い。それに、親族訪問で大陸に行っても、生活意識の違いからもはや故郷にはなじめないことに気づいてしまうケースも多いらしい。

 両岸関係が膠着状態にある現在、もはや台湾から離れて暮らすことはできない現実に外省人もうすうす感づいている。他方で、台湾本土化の政治的趨勢が不可避な中で疎外されていると感じ、また生活面でも挫折を味わっている彼らにとって、両岸統一というスローガンは一つの精神的拠り所となっている。たとえそこで言う祖国が観念的に想像されたものに過ぎないとしても。

 彼らの抱えている葛藤は統一か否かという単純な二項対立に収斂するものではない。現実としての土着化傾向と、それを自ら否定したい理念性というアンビヴァレンスは明確に割り切れる性質の問題ではないが、政治争点化されることで、この無理が外省人を苛んでいるという。言説化→実際の生活感覚を押し殺してしまうという矛盾。その点で、著者は個人的見解とことわりながら、外省人庶民を苦しめているのは他ならぬ外省人政治家たちだと指摘する。著者の結論に賛成するかどうかは別として、外省人の抱える感性面での相克に焦点を合わせた研究は少ないとのことで、現代台湾社会を理解する上で本書は必読の文献であろう。

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2008年11月16日 (日)

奥中康人『国家と音楽──伊澤修二がめざした日本近代』、山東功『唱歌と国語──明治近代化の装置』

 伊澤修二がらみで掲題書2冊がほぼ同時に書店に並んでいたので取りあえず買ってあったのだが、例によって“積ん読”状態。奥中康人『国家と音楽──伊澤修二がめざした日本近代』(春秋社、2008年)がサントリー学芸賞受賞とのことで、慌てて引っ張り出す。どうでもいいけど、サントリー学芸賞4部門8点のうち5点までは刊行時に入手していました(他に、日暮吉延『東京裁判』平松剛『磯崎新の「都庁」』堂目卓生『アダム・スミス』片山杜秀『音盤考現学』『音盤博物誌』)。ついでに言うと、先週授賞式のあったアジア・太平洋賞も4点のうち3点まで同様(若林正丈『台湾の政治』水谷尚子『中国を追われたウイグル人』園田茂人『不平等国家 中国』)。

 奥中『国家と音楽』では、久米邦武『特命全権大使米欧回覧実記』の記述を踏まえ、欧米のコンサートホールで大勢の人々が一つの音楽に熱狂的な拍手を送り、みんなで一斉に歌うというシーンに岩倉使節団は感嘆したのではないかと指摘する。国家と国民とを有機体として捉え、その関係性を有効に機能させるための装置として伊澤は音楽を重視したのだという。忠君愛国=近代天皇制を軸とした国民形成の手段として西洋音楽による感性的な規律化が行なわれた。伊澤については、第一に西洋音楽の普及→文明開化の役割→開明派として肯定、もしくは第二に天皇制と結びついた封建主義教育→否定、という形で従来は評価が二分されていたらしい。本書は、現代の我々の価値観をいったん保留した上で、この分裂的なイメージを一つに集約して伊澤の教育思想を捉え返している。

 山東功『唱歌と国語──明治近代化の装置』(講談社選書メチエ、2008年)は、日本語学の立場から唱歌教育に注目、その立役者の一人として伊澤が取り上げられる。学校教育で子供たちに暗誦させるための手段として唱歌が使われたが、国語・唱歌・体操(たとえば、行進曲やラジオ体操)という三教科によって身体レベルでの規律化が重視されていた。手段として西洋的な音感が基盤となりつつ、その西洋的なものを覆い隠しながら“日本”なるものが演出されたという指摘が興味深い(たとえば、信時潔作曲の「海行かば」)。

 以前、台北市内を歩き回ったとき、芝山巌学堂の跡地まで足をのばしたことがある(→参照)。日本が清から台湾を割譲されたばかりの頃、ここに起居していた日本人教師たちが原地民によって殺害されるという事件があった。伊藤博文の揮毫による碑文が現在でもたっている。この教師たちの取りまとめ役だったのが伊澤修二なのだが、彼はたまたま、台湾で病死した北白川宮の遺体に随行して一時帰国中だったので難を逃れた。伊澤修二というと私にはまず植民地に派遣された学務官僚としてのイメージが先にあって、近代音楽教育の確立者としての姿とは切り離して捉えていた。上掲2冊とも伊澤の台湾時代については具体的には触れられていない。しかし、近代日本が国民国家形成にあたり、音楽教育による規律の身体化が不可欠な要素とされていたこと、そこで主導的な役割を果したのが伊澤であったことを知り、彼の台湾派遣が持った意味合いもトータルで納得できる。日本と植民地との関係を考える上でも示唆的な論点が提示されていると思う。

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2008年11月14日 (金)

片山杜秀『音盤考現学』『音盤博物誌』

片山杜秀『音盤考現学』『音盤博物誌』(アルテスパブリッシング、2008年)

 『レコード芸術』に連載された批評エッセイをまとめたもの。著者の『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ、2007年)は読んでいた。政治思想史畑の人とばかり思っていたので、掲題書を書店で見かけたとき、なぜに現代音楽?と不思議に思ったのだが、パラパラめくると二〇世紀を彩る数多くの音楽家たちの話題がちりばめられている。この手の本で読みやすいものは意外と少ないので、取りあえず買ってあった。積ん読状態になっていたのだが、サントリー学芸賞受賞とのことで引っ張り出したところ──いやいや、これが実に面白い!

 第一に、一般的な認知度の低い近現代日本音楽史の人物群像がこまめに掘り起こされている。山田耕筰の島国的せせこましさを批判した團伊玖磨に中国・シルクロードと大陸的なものへの思いを見出したり、信時(潔=「海ゆかば」の作曲者)楽派に坂本龍一を絡めたり、松村禎三の宗教性に淫靡なエロスを感じ取ったりとイマジネーションを豊かにふくらませているのも面白いし、伊福部昭への愛着などなかなか読ませる。一見自由人らしい山田一雄が、日本人は本当に西洋音楽を理解できるのかという問いで堂々巡りしていたのに対し、古き謹厳実直さ=保守的にイメージされやすい朝比奈隆が、芸術そのものへと向き合う姿勢からとっくに“日本人”を超えてしまっていた、その意味で実は新しかったのではないかという対比は興味深い。

 第二に、音楽エッセイという形を取りつつ、実は全体的なライトモチーフとして近代思想史が語られている。たとえば、アイヴズの不協和音にエマーソンを結びつけてアメリカの個人主義を論じたり。シュトックハウゼンなんて私にはワケワカメだったけど、中心となる音程を欠いた彼の総音列主義に、ナチズムから解放されたドイツ青年の思い入れを感じたり。近現代日本の作曲家たちの系譜の後景に、西洋を模倣しつつもお国訛りが出てしまう“近代”の葛藤や、岡倉天心の呪縛を読み取ったり。とにかくテーマは尽きない。音楽という感性的なものをとっかかりに視点を変えてみると、かたくなりがちな思想史的テーマもヴィヴィッドなものとして立ち現れる。そこが新鮮だ。

 軽妙な筆致、縦横無尽な話題の引っ張り方には博識な才人ぶりがうかがわれる。音楽と思想史、こういう聴き方、論じ方があるのかと、いちいち目からウロコを落としてワクワクしながらページをめくった次第。

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2008年11月12日 (水)

『憤れる白い鳩 二〇世紀台湾を生きて──六人の女性のオーラルヒストリー』

 陳水扁が逮捕されましたが、そのことはまた機会を改めて。

周芬伶・編著(藤目ゆき・監修、馮守娥・監訳)『憤れる白い鳩 二〇世紀台湾を生きて──六人の女性のオーラルヒストリー』(明石書店、2008年)

 六人の女性からの聞き取りをもとに、戦後の台湾を女性史という観点から語らせていく。

 元“皇民作家”で戦後も作家として書き続けた龍瑛宗の妻・李耐、彼女の気の強さは学者肌の夫を悩ませ、息子夫婦とも折り合いがつかない。どうでもいいけど、ソクラテスは悪妻がいたからぐれて哲学に走ったのか、それともソクラテスが変な奴だったからクサンチッペは悪妻になったのか、という卵が先か鶏が先かみたいなことを土屋賢二が書いていたのを思い出した。あまり関係ないけどね。

 本書の監訳者ともなっている馮守娥は二二八事件後の白色テロで連行され、政治犯を収容したことで悪名高い火焼島(緑島)へ送られた経験を持つ。もう一人、労働運動で検挙された許金玉にしてもそうだが、出獄後も警察に付きまとわれるため職がなく、それでも懸命に生きてきたことを語る。

 黄家瑞は対照的に、上海の豊かな名家の生まれ。張愛玲のいとこにあたる彼女の語りには、ヴィスコンティの映画を思わせるような黄昏た頽廃感もどことなく漂う。

 伊蘇はブヌン族の巫女。少数民族の保護という問題意識や、彼女の語りから言葉を超えた精神性を感じ取ろうとするかのような書き方は、ネイティヴ・アメリカンとその調査をする白人の文化人類学者というのと同じ構図だな。

 楊秀卿は台湾の伝統歌謡・念歌をなりわいとする盲目の女性。今ではラジオ番組の人気者となっているらしいが、不遇だった頃の放浪生活を回想する。採録されている話は切り詰められていて短いのだが、韓国のパンソリ唄いの親子を描いたイム・グォンテク監督「西便制──風の丘を越えて」のイメージと二重映しになって、この人が私には一番印象的だった。

 語り手の配置には台湾社会の多元的なありようが見えるように配慮されている。女性の生活レベルから見た台湾戦後史として興味深い。注のつけ方や監修者のあとがきをみると、訳者グループには中台統一派の色合いが濃い(日本の進歩的・体制批判的な知識人には、こと中国問題になると、“中国”の不可分一体性という言説に疑いを持たない人が多いのが本当に不思議)。そのあたりは割り引いて読む方がいいでしょう。

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2008年11月10日 (月)

喜田貞吉のこと

 私は高校生の頃、江上波夫に憧れを持っていた。大学に入って考古学の授業を受けたとき、テキストの鈴木公雄『考古学入門』(東京大学出版会、1988年)に、いわゆる騎馬民族説は戦前における喜田貞吉の日鮮同祖論の焼き直しとも言えるという趣旨の一文があって、それ以来喜田の名前が気にかかっていた。

 喜田はいわゆる法隆寺再建論争で一方の論陣を張ったほか、国定教科書の編纂にあたっていたとき南北朝並立の記述をしたため右翼から攻撃されて休職に追い込まれたことでも知られる(いわゆる南北朝正閏問題)。歴史記述は公正な立場から行なわねばならないという姿勢がうかがわれるし、もう一つ彼には、歴史学は社会問題の解決に役立たなければならないという熱意もあった。具体的には、被差別部落の問題に歴史学の立場から取り組んだ先駆者とされている。

 彼は、日本人は混合民族であるという見地に立っていた。大陸系、マレー系、様々な種族が日本列島に渡来する中、“天孫民族”がそうした異民族を融合しながら現在の日本人が形成された(この点で、単一民族という純血主義は否定されている)。何らかのきっかけで取りこぼされた人々が、たとえば山窩、アイヌ、被差別部落などとして残存した、とされる。現在では考えられないことだが、当時、被差別部落は異民族であって日本人ではない、という考えが割合と強く、それが差別の根拠ともされていたらしい。喜田は、被差別部落もまた本来は融合されていておかしくなかった人たち→同じ日本人である→だから差別に根拠はない、というロジックをとった。

 韓国併合が強行される時代状況の中、喜田は同様のロジックを朝鮮半島に対しても適用した。それが日鮮同祖論である。彼の場合、朝鮮半島出身者が日本人によって差別されてしまうことへの憤りが動機であって、膨張主義とは本来的に異なる。その点では彼なりの善意であった。しかしながら、被差別部落問題とは異なり、独立別個の民族意識を持つ朝鮮半島の人々にとって彼の善意は到底受け入れられないものであった(以上、小熊英二『単一民族神話の起源──〈日本人〉の自画像の系譜』新曜社、1995年、を参照)。

 第一に、民族的境界線の内側に取り込むことで同朋意識を強調するのか、それとも民族的プライドを維持するため境界線を強化すべきなのかという問題。第二に、たとえ動機が純粋な善意であっても、その善意の置かれたコンテクストによってはかえって相手への知的暴力となりかねない困難。こうした二重の困難が喜田の議論に見え隠れする。

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2008年11月 9日 (日)

大谷渡『台湾と日本──激動の時代を生きた人びと』

大谷渡『台湾と日本──激動の時代を生きた人びと』(東方出版、2008年)

 日本統治時代に青春期を過ごした世代の台湾の人々からの聞き書きをもとに当時の時代を描く。著者には戦前の女性ジャーナリスト北村兼子の評伝があるが(私は未読)、彼女が台湾民族運動穏健派の指導者・林献堂を訪れた経緯を調査するために台湾へ行き、当時を知る人々から話を聞いたことが本書のきっかけになっている。

 取材相手は男女を問わず医師が多い。医師もしくは弁護士など技術的な分野に台湾人の人材を限定しようとした日本の植民地政策が反映されている。台湾社会の中でも裕福で恵まれた階層の人々がほとんどで、年代的に学校生活での話題が多い。

 日本人教師には熱意があって公平な人も多かったようだし(中学校で物理・化学を教えていた屋良朝苗の名前を挙げる人が複数いた)、日本人が自分たちに教育を授けてくれたことには感謝していると一様に語られる。だが同時に、みんな日本人による差別で悔しい思いをしたとも語っており、耳が痛い。台湾人生徒がトップの成績をとっても、成績優秀者の表彰を受けさせないように成績を改竄して日本人を一番にするなんてことも行なわれ、悔しくて泣いた、などという話もある。

 特に台湾育ちの日本人に差別意識が強かったそうだ。その一方で、日本の学校に留学すると、遠いところからわざわざ、という感じに暖かく迎え入れてくれて、むしろ台湾を知らない人たちの中にいた方が差別を感じなかったというのが興味深い。これとパラレルな話だが、田村志津枝『台湾人と日本人──基隆中学「Fマン事件」』(晶文社、1996年→参照)で、台湾育ちの日本人が日本に行くと、台湾人がやっているような泥臭い仕事も日本人がやっているのを見て驚いた、という話が紹介されていたのを思い出した。

 なお、この世代への聞き書きとしては平野久美子『トオサンの桜──散りゆく台湾の中の日本』(小学館、2007年→参照)も面白かった。

 この世代のご老人たちはもはや“絶滅危惧種”なわけで、もっと色々な肉声を聞き取るのは今をおいて時期はないように思う。

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胎中千鶴『葬儀の植民地社会史──帝国日本と台湾の〈近代〉』

胎中千鶴『葬儀の植民地社会史──帝国日本と台湾の〈近代〉』(風響社、2008年)

 “政治”レベルの問題というのは言説化しやすく、従って明快に整理しやすい。しかし、日常生活に根ざした変化というのは、当事者にとってごく当たり前の空気のようなものだが、それだけに、その社会にとって本質的なものをはらんでいる。本書は葬儀というテーマに着目し、抵抗・妥協・流用と様々な受容のあり方を通して日本の植民地支配が台湾にもたらした葛藤、“台湾でありながら日本化する”という方向性の抱えた困難を捉え返そうとしている。

 もともと台湾社会に火葬の風習はなかった。日本の台湾統治初期において衛生対策にも力を入れようとしたが、日本人=火葬=衛生的/台湾人=土葬=不潔、という図式が出来上がってしまった。当時、日本内地においても火葬が必ずしも一般的ではなかったこと、台湾社会において土葬は不潔とはみなされていなかったことを考え合わせると、こうした差異化が両者の文化的意味づけを作り上げてしまう一助となった可能性がある。1915年の西来庵事件で道教的民間信仰が核となっていたことに衝撃を受けた総督府は宗教政策にも力を入れ始めるが、日本仏教界が台湾在来の仏教寺院を取り込む形で乗り込んできた。1930年代以降の皇民化政策において火葬も含めた“葬儀改善”=内地化が進められたが、その際には仏式が主流となり、神道系は入り込めなかったというのも面白い。

 抗日民族運動指導者たちの直面した葛藤に私は関心を持った。彼らは高度な近代的教育を受けた知識人として、伝統的な“陋習”は台湾の近代化を阻む要因となっているという認識を持っていた。たとえば蒋渭水が亡くなったとき(1931年)、迷信打破という考え方から伝統色・宗教色を排して簡素な“大衆葬”が行なわれたが、これは当時の台湾社会の中でも先鋭的で、結局は根付かなかった。彼ら知識人にとって、近代化という軸において“陋習”は否定されねばならない。他方、民間信仰や伝統的習俗は民衆生活レベルでは大きな精神的支柱となっており、台湾人アイデンティティーの皮膚感覚的根拠になっていたとも言える。民族運動指導者としてそれを否定することができるのか。近代化が、統治者である “日本経由の近代”を意味してしまう植民地社会にあって、近代化志向の知識人たちは、近代をとるのか、民族的アイデンティティーの根拠としての伝統をとるのか、というアポリアにぶつからざるを得なかった。そうした“政治”という次元では抽象化されて見えづらくなってしまう葛藤が、葬儀という社会生活レベルで具体的に表面化したことを本書は明確に浮き彫りにしており、非常に興味深い研究である。

 また、“日本経由の近代”にどれほどの実体があったのかも分からない。植民地の統治階層としての在台湾日本人は、台湾人の視線にさらされながら“近代的”たるべく振舞わざるを得なかった。しかし、そうした日本人自身にも心情的揺らぎがあったのではないかという本書の指摘も示唆深いように思う。

 話を広げると、朝鮮近代文学の祖とされる李光洙にしても、“日本経由の近代”を軸として朝鮮社会の後進性を批判するというロジックをとっており、統治者への阿諛追従としての“親日派”とは言えない。本書でも台湾の“皇民作家”に触れられているように、皇民化政策を通して“近代”と“日本”とを分かちがたく内面化せざるを得なかった彼らは、抗日/親日という単純な図式では捉えきれないもっと複雑なアイデンティティーの葛藤を抱えていた。そうしたあたりを汲み取ろうとする研究動向が近年ようやく進んでいることに私は関心がそそられている。

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2008年11月 8日 (土)

エロシェンコのこと

 エロシェンコといえば、私はまず中村彝のあの有名な肖像画を思い浮かべる。もう一枚、鶴田吾郎による肖像画もあるが、エロシェンコを匿っていた中村屋の相馬黒光の自伝『黙移』(平凡社ライブラリー、1999年)によると、この二枚の絵は二人同時に描いたものらしい。中村彝の描く穏やかな詩人らしい風貌、対して鶴田の描いた野生的な自我の強さ。同時に描いたのに、図らずも彼の性格の半面ずつが描き分けられていることに驚いたと黒光は記している。

 「せまい檻」という作品がある。動物園の檻に閉じ込められた虎、彼は夢の中で、垣根に囲われた羊やインドのラージャの妻妾たちを解き放とうとするが、羊も女たちも立ちすくんで失敗する、そんな想像をめぐらす。目覚めると、相も変らぬ檻の中。阿呆面下げた人間どもは「虎が吼えているぞ!」と下品な笑い声をあげている。自由へのもがきも結局ひとり空回りするだけ、そのみじめさ自体が格好な見世物となってしまう。エロシェンコの童話について、子供にとっては真面目すぎるし大人にとっては不真面目すぎる、と言った人があるらしい。子供の読み物としては現実世界の厳しい醜さがにじみ出ているし、一方で、彼の純粋さを求める心情は大人の目からすると陳腐にも感じられてしまう、そうしたアンバランスを彼も自覚していたのかもしれない。彼の作品には韜晦がないだけに、その分、説教くささも否めない。しかし、その潔癖な理想主義は、居場所が得られずに転々とした彼自身の人生の軌跡と重ね合わせたとき、どこか痛々しくも感じられる。どこの国に行っても、この人は放っとけない、という気持ちを会う人ごとにわきおこさせたであろうことは想像に難くない。

 エロシェンコの評伝としては、高杉一郎『夜明け前の歌──盲目詩人エロシェンコ』(岩波書店、1982年)が同じエスペランチストとしての共感を以てつづられているほか、生国ロシアではハリコウスキー(山本直人訳)『盲目の詩人エロシェンコ』(恒文社、1983年)がある。また、藤井省三『エロシェンコの都市物語──1920年代 東京・上海・北京』(みすず書房、1989年)は、エロシェンコの移動に合わせ、東京・上海・北京それぞれにおける彼への反応をたどりながら当時の時代的雰囲気を描き出している。横の視点で国境を越えた同時代的な空気を知りたいというとき、エロシェンコという人はうってつけのトリックスターになってくれる。彼の作品は、高杉一郎編集『ワシリイ・エロシェンコ作品集1・桃色の雲』『同2・日本追放記』(みすず書房、1974年)で読める。1は日本語作品、2は中国・ロシアで書かれたエスペラント作品を収録している。

 ハリコウスキー書では、著者が若い頃に参加した世界学生祭で、中国人学生が「“アイロシャンケ”は中国語で書いていた」と言うと、日本人学生が「いや、“エロさん”は日本語で書いていた」と議論しているのだが、肝心のロシア人である著者自身は彼の名前を知らなかったというエピソードから始まる。日本や中国での知名度に対し、生国ロシアではほとんど知られていなかったらしい。なお、“アイロシャンケ”とは愛羅先珂。日本人は彼のことを“エロさん”とか“エロくん”と呼んでいた。どうでもいいが、北京滞在の折、周作人の幼い子供からまだよく回らぬ口で“エロチンコ”と呼ばれ、さすがの彼も「困った、困った」と苦笑いしていたそうな。

 エロシェンコは1890年生まれ、4歳のときに麻疹の高熱により失明。モスクワやロンドンの盲学校に在学中、エスペラントを学ぶ。日本では盲人でもマッサージ師として立派に生計を立てているという話を聞き、広い世界を知りたいという情熱も相俟って東への夢をふくらませ、1914年に来日。タイ・ビルマ・インド放浪をはさんで、1921年、社会主義者の疑いをかけられて日本を追放される。アタマン・セミョーノフ支配下の沿海州を経て中国へ行き、はじめは上海に滞在、次いでエスペラントの教授として蔡元培から北京大学に招聘され、魯迅・周作人兄弟の家に起居する。彼らとは日本語で会話していたようだ。中国にはなじめなかったらしく、「時のおじいさん」という作品には北京生活の寂しさがうかがえるし、中国人学生の演劇を酷評したため猛反発を受けてしまうという騒動もあった。結局、中国語はマスターしないまま、1922年、ロシアに戻る。盲人教育に熱意を持ち、チェコト、トルクメン、ヤクート、ウズベクへ行く。なお、トルクメンにいた頃、兄がバスマチの襲撃で殺されてしまい、必死になってその遺体を捜したという記述が高杉書に見えるが、ハリコウスキー書にはない。旧ソ連体制下で書くと何か差し障りでもあったのだろうか。ガンを宣告されて、1952年、故郷で死去。

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2008年11月 5日 (水)

若林正丈『台湾の政治──中華民国台湾化の戦後史』

若林正丈『台湾の政治──中華民国台湾化の戦後史』(東京大学出版会、2008年)

 本年度アジア・太平洋賞大賞受賞作。書店に並び始めた時点で買い求めてはいたのだが、なにぶん分厚い本なので断続的に読みつぎ、時間がかかってしまった。著者には『台湾──変容し躊躇するアイデンティティ』(ちくま新書、2001年)や『蒋経国と李登輝──「大陸国家」からの離陸?』(岩波書店、1997年)など一般向けの著作もあるが、これらで示された論点も網羅し、“中華民国台湾化”というキーワードを軸に戦後台湾を動かしてきた政治力学を詳細に分析。台湾ナショナリズム・中国ナショナリズムそれぞれの質的変容をたどりながら、原住民族や客家なども含めた多文化主義の進展を捉え返していく。

 台湾はおおむね親日的とされる。その通りではあるのだが、それを日本による植民地時代への郷愁と結びつけて語ってしまうと妙な具合になってくる。清→日本→アメリカという“帝国”において周縁化されてきた国際関係的位置。省籍矛盾→族群政治→多文化主義という国内的政治力学。こうした現在進行形の台湾独得な政治的コンテクストの中でいわゆる親日的なものも現われているわけだが、台湾への親近感を語る日本人でもこうした背景を理解していない人が意外と多いように思う。いわゆる親日感情には、国民党支配へのアンチとして国民党以前への高評価がシーソーのように傾いた点が無視できないし、他方で、台湾における抗日運動評価にも、国民党による押し付けイデオロギーに対して本省人の主体性を強調する立場からの異議申し立てという側面があった。

 いずれにせよ、この小さな島国には、国内的にも国際関係的にも複雑な政治力学が幾重にも絡まりあっており、一面的な理解を許さない。私などはそうした複雑さに一つのドラマを見出して興味が尽きないのだが。本書は浩瀚かつ緻密な研究書ではあるが、だからこそ、現代台湾について基本的な見取り図を身につけるには、まず本書を一読するのがむしろ近道であろう。

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2008年11月 4日 (火)

炭鉱がらみで色々と

 ジョン・フォード監督「わが谷は緑なりき」(1941年)はなかなか好きな映画だ。イギリスの炭鉱町を背景とした少年の成長譚。久しぶりに観なおしてみると、(モノクロではあるが)映像も、ストーリーも、古典的にすっきりとした美しさにしみじみと感じ入るのだが、その分、現実の炭鉱現場における生々しい泥臭さは完全に捨象されているとも言える。

 炭鉱を舞台にとった映画には、閉山間際の哀感を背景にしたヒューマン・ドラマが多いという印象がある。イギリス映画「ブラス!」はロンドンのコンクールを目指して奮闘する炭鉱町のブラスバンドの話。李相日監督「フラガール」は閉山後の村おこしで観光客誘致のためフラダンスに頑張る姿を半ばユーモラスに描く。両方とも見ごたえはあるし、イギリス・日本と舞台は違えども、ストーリーも何となく似ている。台湾の呉念真監督「多桑」(→記事参照)や韓国のチョン・スイル監督「黒い土の少女」(→記事参照)のように、坑夫として働きながらも報われず、社会に適応できない自身の不甲斐なさへの苛立ちから自暴自棄となってしまう父親を見つめるという筋立ても印象に強く残る。

 ジョージ・オーウェル(土屋宏之・上野勇訳)『ウィガン波止場への道』(ちくま学芸文庫、1996年)は「わが谷は緑なりき」より少し前の頃、イングランド北部における炭鉱労働者の生活実態を書き留めようとしたルポルタージュである。彼らの苛酷な生活環境への憤りが動機ではあるのだが、その客観的な筆致には、むしろ書き手と坑夫たちとの距離感も窺われてくる。実際、オーウェル自身、社会主義にシンパシーを寄せる者として階級の垣根を飛び越えたいと言いつつも、自らに体感としてしみついているブルジョワ臭・知識人臭にどうしてもぶつかってしまうことを率直に打ち明けている。自分の限界を変に“正義感”で糊塗してごまかさないところは、書き手としてむしろ真摯な態度だと思う。

 上野英信の本を何冊か立て続けに読んだ。旧満洲・建国大学を経て召集され、広島で被爆、その後、京都大学を中退して筑豊の炭鉱地帯に身を投じたという経歴の人である。最近、M先生から上野の『天皇陛下萬歳──爆弾三勇士序説』(洋泉社modern classic新書、2007年)をご教示いただいた。上海事変で爆弾を抱えて突撃し、“勇士”とされた彼が死に際して本当に「天皇陛下万歳」と言ったのかどうか分からない、仮に言ったとしても、そこには世間一般で受け止められているのとは違ったものとして彼なりの万斛の想いが込められていたのかもしれない。彼は炭坑労働者の出身であった。かつての仲間たちが、これを“誇り”と受け止めたことをどう考えるか。同じく上野の『追われゆく坑夫たち』(岩波新書、1960年)とあわせて読むと、それだけ彼らが自尊心も剥奪された絶望的状況にあったことの裏返しでもあるだけに、その二重の哀しさには複雑な気持ちになってしまう。M先生からはもう一冊、西里龍夫『革命の上海で』(日中出版、1977年)もご紹介いただいたが、西里にしても、上野にしても、渦中に入って体当たりでぶつかっていく。激しく、そして不器用ではあっても、相手に対して誠実である。そうしたあたりには、M先生ご自身の研究対象との向き合い方に相通ずるものが確かに感じられ、改めて襟を正した次第(M先生の謦咳に接してかなり深刻なカルチャーショックを受けています)。

 上野英信『地の底の笑い話』(岩波新書、1967年)は炭鉱労働者たちから聞き取った話を集めている。妙におかしくも、ペーソス漂う話をもとに、彼ら彼女らの生活世界を見つめていく。たとえば松谷みよ子の『現代民話考』に採録されていてもおかしくないような怪異譚に私はひかれる。不思議な話に仮託される形で、生きていく上で胸に去来する感情や切実な智慧が浮かび上がっている。上野にしても、一緒に筑豊で文学活動を行なった森崎和江にしても、それを迷信として切って捨てるようなことはしない。不思議を、近代的懐疑に由来する戸惑いと同時に、受け容れていこうとする。

 坑道を掘り進めていく一番の先端、いわゆる切羽、真っ暗闇の中でつるはしを振るう先山とその助手としての後山との関係の緊密さは、一挙手一投足が命に関わっているだけに尋常なものではない。夫婦や親子で入ることが多く、他人同士の男女がコンビを組んだときには性愛の営みも含めて親密さを確かめ合った。地上の人間としてはどうしても卑猥な目で見てしまうが、そういうのとは位相が異なる。坑内のことは地上には持ち出さないのが掟となっており、それだけ、地下と地上とで世界観の違いをはっきりさせていることが窺える。そこには幽霊譚もある。地上の我々からすれば不可解に思えるタブーもある。何よりも、近い親族がまさにここに埋まっているという鎮魂のいとおしさもある。森崎和江『奈落の神々──炭坑労働精神史』(平凡社ライブラリー、1996年)はそうした話を丹念に聞き取りながら、炭鉱が開かれて以来紡がれてきた地下の精神世界を掘り起こそうと努める。炭鉱の閉山は単なる失職を意味するのではなかった。そこは生きるにはあまりに過酷な世界ではあったが、それ以上に、彼ら彼女らにとって体感的に切り離せない共同体ともなっていた。炭鉱で働いた人々は「地上の人には分からんだろうけど」と前置きする。森崎もやはり地上の人間として得心しがたいというもどかしさを感じつつ、階級闘争史観のような図式的な理解ではどうにもならない一つ一つの話を受け止めていくところがとても魅力的な本だと思う。

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2008年11月 2日 (日)

国立ハンセン病資料館

 国立ハンセン病資料館へ行ってきた。西武新宿線・久米川駅からバスで20分くらいか、畑や分譲住宅が交互に現れるよくある東京郊外の風景の中、武蔵野の雑木林もそこかしこに見え隠れする。下車したものの、資料館がどこにあるのか分からなかったので、取りあえず目の前にある多磨全生園の敷地内に入り込んだ。

 正門を入ったところに“史跡”の位置を示す案内地図があったので、無断で申し訳ないが園内を散策させてもらう。正門とはまた別に、外に通ずる脇道があるのが目に入った。そこにあった説明板によると、患者は正門を使えず、消毒室のあるこちらから入らされたらしい。北條民雄『いのちの初夜』で、まさにここを通るときの戸惑いが描かれていたのを思い出す。近くには“監獄”跡というのもあった。園内のあちこちにあるスピーカーからは「チチチ…」と鳥の鳴き声を模した電子音が流れている。交差点ごとに、目の見えない人の手掛かりとなるよう設置されている。昔は鈴を鳴らしていたそうで、資料館内に展示してあった。

 企画展示は「ちぎられた心を抱いて──隔離の中で生きる子どもたち」。写真や展示品と共に、入所した子供たちが文集に寄せた文章や手紙、後になってからの回想などをパネルで示している。強制的に家族から切り離されてしまった寂しさ、消毒される自分に、そういう人間になってしまったんだとスティグマをおされる悲しみ、もう社会には戻れないという絶望、そういったことが幼い文章でつづられているだけにいっそう切なく感じられてくる。

 ハンセン病の感染力が極めて低いのは周知の通りである(はずだ)。個人的免疫力・栄養状態・衛生環境などの条件はあるが、幼少時に多量のらい菌を吸い込まない限り感染はしないし、仮に発症したとしても特効薬が開発されているので現在では完治する(日本での発症例は年間1桁台)。ただし、特効薬開発以前に病が進行したことによる身体上の障害、容貌にまつわる社会的偏見、長期入所していたことによる社会復帰の困難などの理由で現在も入所している方々がいる。

 明治以来、隔離がハンセン病対策の基本方針とされていた。当初は故郷を追い出されて放浪する人々の収容に重点が置かれていたが(資料館の前には四国遍路に出た親子の像があった)、1920年代後半から全国各地で“無癩県運動”がおこされ、1931年成立の癩予防法によって警察力も動員した患者の強制隔離が進められた。園内だけで通用する金券が資料館に展示されていたが、これも現金を持たせないことで脱走を防ぐという意味合いがあったようだ。所長には懲戒検束権、つまり言うことを聞かない患者を処罰する権限が与えられた。監禁室が各療養所に設けられ、とりわけ草津にあった栗生楽泉園の重監房は二十数名の死者を出したことで悪名高い(詳細は宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』(集英社新書、2006年)を参照のこと。資料館にも楽泉園の重監房が模型で復元されている)。当時におけるハンセン病の権威・光田健輔の方針で、所内で患者が結婚する際には断種が条件とされたが、反抗的な患者に対する懲罰として断種が行なわれたケースもあったという。療養所は世間から隔絶されているため、不法行為が行われやすかった。また、療養のためには本来、安静が必要なのだが、所内の人手不足から患者も作業に動員され、ますます病状を悪化させてしまった。

 “らい予防法”は1996年に廃止された。厚生省内部からこの法律の廃止に尽力してきた大谷藤郎『らい予防法廃止の歴史』(勁草書房、1996年)は、国のハンセン病政策について資料をふんだんに示しながら廃止に至るまでの経緯をまとめている。沖浦和光・徳永進編『ハンセン病──排除・差別・隔離の歴史』(岩波書店、2001年)は歴史や宗教から現代の問題まで多面的な論考を集めており、入門的に読みやすいのではないか。強制隔離は植民地でも徹底されたが、韓国南部の離島・小鹿島(ソロクト)にあった療養所については滝尾英二『朝鮮ハンセン病史──日本植民地下の小鹿島』(未来社、2001年)を参照のこと。台北近郊にも楽生院という療養所があった。本橋成一監督「ナミイと唄えば」で、ナミイおばあが台湾を再訪してここの患者さんたちと交流するシーンがあったのを思い出した。

 強制隔離の方針を示してきたいわゆる“らい予防法”に科学的根拠が乏しいことは早くから言われていた。大谷藤郎はその例として自ら私淑していた小笠原登の名前を挙げる。小笠原は京都帝国大学に勤務する医者だが、実家は浄土真宗のお寺で、祖父の代からハンセン病患者の治療に携わっており、その感染性の低いことは経験則から知っていた。そうしたことを戦争中に学会で発言したところ、大バッシングを受け、結局沈黙せざるを得なくなってしまったらしい(小笠原登については八木康敞『小笠原秀実・登──尾張本草学の系譜』リブロポート、1988年を参照)。

 強制隔離を推進した光田健輔は、断種手術を進めたことから分かるように当時流行の優生学思想の持ち主であり、癩者の存在は文明国の恥である、という彼の物言いが私は以前から気にかかっていた。外づらを気にして、あるべき理想像に向けて対内的な“民族浄化”を進めることが、結果として排除の論理につながってしまう。

 戦前・戦中期日本において優生学思想が制度化されるにあたっての犯人として彼を糾弾する議論は多い(たとえば、藤野豊『日本ファシズムと医療──ハンセン病をめぐる実証的研究』岩波書店、1993年)。他方、たとえば神谷美恵子は長島愛生園で会った光田の旺盛な仕事ぶりに尊敬を示しているし(「光田健輔の横顔」『神谷美恵子著作集2 人間をみつめて』みすず書房、1980年)、患者一人ひとりへの向き合い方は熱心だったので一部には光田を慕う患者もいたという。徳永進は光田の負の側面を踏まえつつ、時代的制約の中でもヒューマニスティックな熱意も共存していたことにある種の困難を感じ取っている(「隔離の中の医療」沖浦和光・徳永進編『ハンセン病──排除・差別・隔離の歴史』岩波書店、2001年)。武田徹『「隔離」という病い──近代日本の医療空間』(中公文庫、2005年)が指摘するように、彼個人の問題に帰してしまうのではなく、その両義性も含めてもっと大きな枠組みから捉え返す視点が必要となるのだろう。

 蛇足ながら、“文明国の恥”という表現がナイーブに語られてしまうところには、西洋という外の視線を気にする明治以来の妙なコンプレックスを感じてしまう。先日、いわゆる“からゆきさん”について触れたときも、外交当局が取り締まる姿勢に同様なものを感じた(→参照)。私は相互扶助の情緒的根拠としてナショナリズムを一概には否定してはいないのだが、こういう冷たいナショナリズムは嫌いだ。

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2008年11月 1日 (土)

溥儀とその周辺のこと

 大人が鑑賞するような文芸映画を私が初めて観に行ったのはベルナルド・ベルトルッチ監督「ラストエンペラー」だった。中学一年生のとき、同じく歴史が好きな同級生と一緒に。

 手もとに溥儀の『わが半生』(小野忍・野原四郎・新島淳良・丸山昇訳、筑摩叢書)がある。カバーやオビに映画の写真が使われた1988年の第20刷。「ラストエンペラー」を観た前後の時期に買って読んだものだ。最初、清朝崩壊から満州国建国にいたる波乱に満ちた政治史への興味から読み進めていたが、その辺りの叙述は退屈で、むしろ戦犯として拘留中の生活記録の方が面白く感じた覚えがある。生活上は完全な無能力者である溥儀が、日常の雑事にいちいち驚いている様子が印象的だった。引き続き、レジナルド・ジョンストン(入江曜子・春名徹訳)『紫禁城の黄昏』(岩波文庫、1989年)を買ったし、エドガー・スノー(梶谷善久訳)『極東戦線』(筑摩叢書、1987年)を図書館で借りて読んだ記憶もある。

 日本による対外侵略という不幸な時代を背景にしつつも、多様な人々が動機も様々に、国境を越えてぶつかり合っている姿に大きなドラマを感じて、漠然とではあったがこの時代のあり様に興味が尽きなかった。

 自伝や回想録の類いではどうしても避けられないことだが、溥儀の『わが半生』も肝心なところでは曖昧な箇所、虚偽の箇所がある。戦後の“人民中国”において更生した証とせねばならなかったわけだし、皇后たちとの関係については再婚した女性への慮りもあったらしい。何よりも溥儀自身の自己顕示的な韜晦癖も難物で、ゴーストライターだった李文達も史実の確定という点では色々と苦慮したようだ。入江曜子『溥儀──清朝最後の皇帝』(岩波新書、2006年)はそうした辺りも踏まえた史料批判の上で彼の人物像を描き出していく。

 溥儀の戦後における“韜晦”の一例として、満州国で御用掛を務めた吉岡安直のことが挙げられる。第三夫人・譚玉齢の病死は吉岡たちによる毒殺だ、と溥儀は東京裁判で証言した。しかし、入江曜子『貴妃は暗殺されたか──皇帝溥儀と関東軍参謀吉岡の謎』(新潮社、1998年)や中田整一『満州国皇帝の秘録──ラストエンペラーと「厳秘会見録」の謎』(幻戯書房、2005年)によると、溥儀に仕える吉岡の態度は実直で、むしろ溥儀と関東軍との間で板ばさみになってしまうような立場にあった。溥儀はそうした吉岡に信頼を寄せていた。溥儀の証言は保身のための濡れ衣だったようである。

 「厳秘会見録」とは、満州国皇帝として日本の要人に謁見した際、外部には流出させないという条件でつけられていた会見録。溥儀から信頼を得ていた通訳・林出賢次郎によって記録されており、戦後も林出家で保管されていた。波多野勝『昭和天皇とラストエンペラー──溥儀と満州国の真実』(草思社、2007年)もこの会見録に依拠している。なお、林出は、関東軍参謀長として赴任してきた東条英機の圧力により解任され、その後は母校・東亜同文書院に戻り、戦後は昭和天皇の中国語通訳も務めたらしい。

 映画「ラストエンペラー」での皇后・婉容とイースタン・ジュエルこと川島芳子との絡みにはいかにもベルトルッチらしい官能的な退廃感があって、まだ中学生だった頃の私には結構強烈だった(もちろん、フィクションだが)。入江曜子『我が名はエリザベス──満州国皇帝の妻の生涯』(ちくま文庫、2005年)は、婉容のモノローグという形式で、アヘンに耽溺していく彼女の心の動きを語らせる。視座を彼女に置いたことで、溥儀を取り巻く権力闘争もどこかニヒルに相対化されていくところが面白い。なお、寺尾紗穂『評伝 川島芳子──男装のエトランゼ』(文春新書、2008年)は、日中の狭間にあった川島の不安定な葛藤がよく整理されており、興味深く読んだ。

 戦後中国において、溥儀の関係者もそれぞれに多難な人生を送らねばならなくなった。入江曜子『李玉琴伝奇──満州国最後の〈皇妃〉』(筑摩書房、2005年)は、庶民から溥儀の妃に選ばれた第四夫人・李玉琴の生涯を、とりわけ戦後に焦点を合わせて描く。溥儀自身の“性的”問題もあって関係はあまりしっくりしていなかったようだが、やはり“人民の裏切者”の妻であった過去は文革期において深刻だ。自らの身の“潔白”を証明するため、彼女は溥儀を糾弾せねばならなくなる。溥儀自身は文革の成り行きに怯えつつも、これといった被害も受けないまま病死した。

 蛇足ながら満州国関連では、外交部長や駐日大使も務めた謝介石という人物の存在が気にかかっている。台湾出身で日本の明治大学に学んだ後、中国に渡る。溥儀の復辟を画策した張勲に仕えた。謝介石が満州国の高官となったのをきっかけに台湾出身者で満州国へ仕官を求めてやってくる者が増えたという。田村志津枝『李香蘭の恋人──キネマと戦争』(筑摩書房、2007年→こちらの記事を参照のこと)でも指摘されていたが、当時の台湾人は植民地という立場的曖昧さを逆利用される形で、“日中の掛橋”として汪兆銘政権や満州国など日本の傀儡政権で重用されたらしい。

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