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2008年10月26日 (日)

山崎柄根『鹿野忠雄──台湾に魅せられたナチュラリスト』

山崎柄根『鹿野忠雄──台湾に魅せられたナチュラリスト』(平凡社、1992年)

 先日、ぶらりと立ち寄った古書店で本書を見かけ、鹿野忠雄という人は以前から気にかかっていたので買い求めた。鹿野の名前を初めて知ったのは辻原登「四人の幻視者(ボワイヤン)」というエッセイ(日本経済新聞2006年1月22日朝刊)。小説のモデルになりそうな人物四人を取り上げているのだが、ちょっと面白かったので切り抜いてある。

 鹿野は1906年、東京生まれ。小さい頃から無類の昆虫好き。台湾に採集遠征に出かけた帝大生から昆虫標本を見せられ、原地民の風習の話を聞き、未開拓の熱帯への憧れをつのらせていた。台湾へ行きたい!と念じていたちょうど折りしも、台北に総督府立の高等学校が設立され、一も二もなく彼は台湾へと渡る。

 高等学校生の頃から彼は一人で山地へ分け入り、昆虫採集にいそしみ、そして気軽に原住民の懐に飛び込んでいった。まだ首狩りの風習が残り、台湾総督府の統治が全島にいきわたってはいなかった頃である。タイヤルの若者たちを引き連れて歩いている姿を目撃され、驚かれたという逸話も残っている。タイヤルの少女に恋をして、彼女の写真はいつまでもとっておいたらしい。

 その後、彼は動物学者として身を立てるが、民族学・考古学・地理学と脱領域的な関心の広がりを示した。当時の官学アカデミズムにおける縄張り意識の中では立場が悪くなってしまったようだが、渋沢敬三をはじめ鹿野の行動力を認めた人々の庇護で調査を続け、彼の業績は世界的にも認められるようになった。

 1941年、太平洋戦争勃発。陸軍の命令で嘱託としてフィリピンへと渡り、マニラの博物館の保全に尽力。日本の敗色が濃くなりつつある1945年、助手を連れて北ボルネオの山地へと入るが、そのまま消息を絶った。台湾にいた時から原住民社会に溶け込むことができる人だったので、いつかひょっこり姿を現わすのではないかとも言われたが、軍律違反で憲兵隊に殺された可能性もあるらしい。まだ38歳という若さであった。

 鹿野忠雄の著作としては、『山と雲と蕃人と―台湾高山紀行』(文遊社、2002年)が復刻されている。なお、鹿野の他にも台湾の魅力に惹かれて飛び込んでいった学者たちがいた。柳本通彦『明治の冒険科学者たち──新天地・台湾にかけた夢』(新潮新書、2005年)でも魅力的な群像が描かれている。

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