からゆきさんのこと
矢野暢『「南進」の系譜』(中公新書、1975年)および、同『日本の南洋史観』(中公新書、1979年)を読み返した。明治期の「南進」論は、体制に容れられず、悲憤慷慨し、絶えず夢を追う者たちの、いわば在野の思想であり、以後の時代における国策としての「南進」論とは明らかに断絶がある。明治のロマンチストたちの楽観性には、彼ら自身が無自覚なところに政治的なスキがあり、昭和に入ってからの国策としての南方進出論においてシンボル的英雄として祭り上げられてしまった。また、戦後、賠償目的の技術協力という形で日本企業が進出したが、あくまでも国策としての関係であって庶民レベルまで含めた人的交流が乏しいという点で、戦前の日本軍進出時と類似した構図を見出している。
庶民レベルでは、「南進」論なる政治的議論とは関係なく、東南アジアへ渡る無名の人々がいたことにも矢野は目配りを忘れていない。とりわけ注意がひかれるのは、いわゆる「からゆきさん」のこと。なお、「からゆきさん」とは本来、唐(から)の国=外国へ出稼ぎに行く人々を総称した九州北部の方言らしいが(「からゆきさん」はとりわけ島原・天草出身者が多かったという)、いつしか、海外で売春をせざるを得なくなってしまった底辺女性を指すように意味が狭められるようになった。
山崎朋子『サンダカン八番娼館』(文春文庫、2008年)はこの分野で筆頭に挙げるべき古典的著作だろう(なお、この文春文庫版には、表題作とその続編である『サンダカンの墓』の両方が収録されている)。日本に戻り、孤独と貧窮の中で暮らす元「からゆきさん」のおさきさん。この老婆としばし共同生活を送りながら、ほとんど肉親に近い情を通わせつつ聞き書きした記録を読んでいると、単に歴史の証言というばかりでなく、その肉声の生々しさに何とも言いがたい気持ちになってくる。森崎和江『からゆきさん』(朝日新聞社、1976年)も、たとえば若い頃のあまりに無残な記憶をひきずって時にフラッシュバックで狂気に駆られてしまう老女を見つめるときの静かな眼差しに、詩的な、しかし抑えたやさしさが感じられて、とても魅力的な作品だと思う。
日本の外交当局は海外における日本人娼婦廃絶に動き出すが、それは彼女たちを思ってのことではなかった。醜業につく日本人女性の存在は国家的威信を汚すというのが理由である。シンガポールなど西洋人の多い都市以外では徹底されなかったため、辺鄙な地方へ追いやられてますます悲惨な境遇に落ち込んでしまった女性たちもいた。そうした事情で孤独な人生を送ってきた女性への聞き書きが山崎『サンダカンの墓』にある。
思いあたることがあって、本棚から山室軍平『社会廓清論』(中公文庫、1977年)を引っ張り出した。本書でも「海外醜業婦」に1章が割かれている。救世軍のリーダーとして廃娼運動に尽力した山室だが、その動機は無論ヒューマニスティックなものであることに疑いはないけれども、「日本国民の恥」という表現をしているのが気にかかった。
『サンダカン八番娼館』のおさきさんは、見知らぬ女性が転がり込んできても、彼女の事情を一切詮索しない。人それぞれに都合がある、話したければ自分から話すだろうし、話したくないならそれなりのわけがあるのだろう、と言う。彼女自身がつらい思いを重ねてきたからこそ自然とにじみ出てくるやさしさ、それが読んでいて、山崎ならずとも胸が衝かれる思いがする。『からゆきさん』に出てくるおヨシさんは、きつい境遇の中にあっても刻苦勉励して、自分で事業を起こし、財をなす。成功者、のはずだが、結局彼女は自殺してしまう。死後の始末を自分できっちり整えた上で。どんな思いを秘めていたのか、分からない。いずれにせよ、二人ともタイプは全く異なるが、その人なりの強さを持って生きてきたことに頭が下がる。
同時に、まだ十代のうちに、異国で悲惨な境遇に打ちひしがれて死んでいき、思いを語ることすらかなわなかった少女たちのことも思う。そして、これは過去のことというばかりでなく、ひょっとすると今現在にあっても、この地球上のどこかでそうした過酷さに苦しんでいる人もいるはずだということにも。
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