« 『トゥイーの日記』 | トップページ | ウイグル問題についてメモ(5) »

2008年10月 8日 (水)

キルケゴール『現代の批判』

キルケゴール(桝田啓三郎訳)『現代の批判』(岩波文庫、1981年)

 キルケゴールをダシに使いながら、相変わらずどうでもいい雑談に堕していますので、あしからず。

「現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激にぱっと燃えあがっても、やがて小賢しく無感動の状態におさまってしまうといった時代である。」(23ページ)

 分別、反省、といえば聞こえはいいけれど、要するに、現代は知ったかぶりの小賢しい奴らが騒ぎまわっている時代だって言っているわけです。

「原理とは、この語の表わすとおり、最初のもの、すなわち、実体的なものであり、感情や感激がまだ形をなして顕現するにいたらない状態にあるイデーであって、このイデーがその内部にひそむ推進力によって個人を駆り立てるのである。情熱のない者はこのような原理を欠いている。情熱のない者にとっては、原理はなにか外的なものとなり、そのために彼はひとつのこともすればまた他のこともし、またその反対のことまでもすることになる。情熱のない人の生活は、原理の自己顕現、自己展開ではない。むしろ彼の内的生活は、なんとなくせわしなく、たえず途上にあり、「原理のために」なにかをなそうと追いかけている。こういう意味の原理は、公衆と同じような、なにか巨大なもの、なにか抽象的なものになってしまう。」(95~96ページ)

 “原理”といっても、いわゆる“原理主義”とは全く意味内容が異なるのでご注意を。訳語の問題で理解しづらいけれども、要するに、自分自身を否応なく駆り立てていく何か。そのために自分は存在しているとしか言いようのない何か。情熱といっても政治的情熱、芸術的情熱、人それぞれに様々だろうが、一生をかけて向き合っていくしかない何か。

 飛躍的な脱線かもしれないが、吉田松陰の「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」なんて言葉を何となく連想している。私は、実は吉田松陰という人が好きだ。ただし、国家のため、民族のため、みたいな表層的な政治的直接行動主義というレベルでは捉えたくない。内面的な確信があるときに、言葉よりも先に体が動いてしまう、やむをえない心情。そうした松陰的なメンタリティーは、たとえば仮に社会主義・無政府主義というロジックを取れば幸徳秋水にもなるだろう。政治思想の表面としての論理的整合性を整理することはもちろん前提作業として必要ではあるが、そこに目を奪われてしまっていては思想史の基本は見失われてしまうと思う。

 彼らに言いっぱなしはない。陽明学思想には(近代日本においては日蓮主義も)テロリズムに走ってはた迷惑な奴らが多いが、その行動は非難されるべきも、少なくとも自分が命を落とす代償を覚悟している点ではひたむきであり、それを全否定するつもりにはなれない(この点では安岡正篤って奴はウサンくさい)。ただし、知行合一というのも、自身の内なる確信をギリギリまで見つめていく、従って自己認識=行動というところに陽明学は学問的意義を求めているわけで、自己顕示のための行動・言動という雑念はすでに振り払われていることが本来は前提となる(松陰は李卓吾の愛読者→陽明学、というコンテクストでご理解を)。

 “原理”→やむを得ないなにか、これが外在化したとき、どんなに威勢のいいことを言ったところで、所詮は自己顕示のための単なるポーズに過ぎない(いわゆる“ネット右翼”を念頭に置いています)。近代という時代に入り、人間が平準化されているという自覚を抱くようになったとき、それでも自分は特別な存在なのだと思いたがる妙なプライドが首をもたげる。いや、ボクは世の中の役に立っている、大義のために闘っている、だからボクは偉いんだ、そんなボクをみんな認めてよ、というまるでエヴァンゲリオンのシンジくん(笑)みたいな鬱屈。そうした鬱屈のはけ口として威勢のいい発言もするが、所詮、自身の内的必然によってきたる言葉ではないから、中身はからっぽ。

「原理というやつも、途方もない怪物みたいなもので、ごくつまらない人間でさえ、ごくつまらない自分の行動にそいつを継ぎ足して、それで自分が無限に偉くなったつもりでいばっていられるといったようなものである。平々凡々たる、とるに足りない人間が「原理のために」いきなり英雄になる。」(96ページ)

 小賢しくなって、もっともらしいことをさんざ喋喋しつつ、結局はただの言いっぱなし。それでも、自分は何かをやっている、特別な存在なんだという自意識だけは満足させようとする。自分自身の向き合わざるを得ない何かひたむきなものの具体的な発露として振舞いなり言葉なりが出てきているのではない、その意味で、すべてが抽象的。そうした抽象的人間の集合体としてキルケゴールは“公衆”という表現を使う。現代風に言えば“大衆”か。

「公衆は、ひとつの国民でも、ひとつの世代でも、ひとつの同時代でも、ひとつの共同体でも、ひとつの社会でも、この特定の人々でもない。これらはすべて、具体的なものであってこそ、その本来の姿で存在するのだからである。まったく、公衆に属する人はだれ一人、それらのものとほんとうのかかわりをもってはいない。…このような人たちから、すなわち、彼らがなにものでもないような瞬間における諸個人から成り立っている公衆というやつは、なにかある奇怪なもの、すべての人であってなんぴとでもない抽象的な荒野であり真空帯なのだ。…公衆は一切であって無である。あらゆる勢力のうちで最も危険なもの、そして最も無意味なものである。公衆の名において全国民に語りかけることはできる。けれども、その公衆は、どんなつならぬたった一人の現実の人間よりも、より少ないものなのだ。公衆という規定は反省の奇術である。この奇術にかかると、個人個人はだれでもこの怪物が自分のものになったような気がするので、のぼせあがってしまい、現実の具体的な世界などは比べものにならぬほど貧相に見えてくる。…ますます多くの個人が気のぬけたような無感動のゆえに、無になろうと努めることだろう、──それも、公衆に、参与者が第三者になるという滑稽な仕方でできているこの抽象的な全体に、なろうがためなのだ。自分自身ではなにひとつ理解せず、また自分自身ではなにひとつする気もない、この無精な群集、この立見席の観衆は、そこで、気晴らしを求めて、世間の人のすることはみなおしゃべりの種になるためにおこなわれるのだ、という空想にふける。」(77~80ページ)

 こうしてキルケゴールの実存哲学は、二十世紀における大衆社会批判へと継承されていくわけです。で、そういうてめえのタカピーな態度がムカつく、ってつっこまれたら私もぐうの音も出ないわけで、すべて自戒をこめていると付言しておきます。

|

« 『トゥイーの日記』 | トップページ | ウイグル問題についてメモ(5) »

哲学・思想」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/197828/42729866

この記事へのトラックバック一覧です: キルケゴール『現代の批判』:

« 『トゥイーの日記』 | トップページ | ウイグル問題についてメモ(5) »