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2008年9月21日 (日)

ハンナ・アレント『政治の約束』

ハンナ・アレント(ジェローム・コーン編、高橋勇夫訳)『政治の約束』(筑摩書房、2008年)

 アレントが計画していたが結局未完に終わってしまったという「政治入門」の草稿を中心に再編集した論文集。編者序文にある、アレントがセミナーで学生たちに語ったという次の言葉が印象的。「理論は要りません。一切の理論を忘れてください」。すぐに言葉をついで「それは私たちが考えることをやめるという意味ではない、なぜなら思考と理論は同じものではないからです」。

・過剰な暴力→自分たち自身を破滅させかねないのに、それでも政治とは何なのか?
「原子爆弾が発明されてこの方、私たちの不信感は、政治と政治が行使しうる暴力手段が人類を滅亡させるかもしれないという、著しく正当な恐怖に基づいている」(184ページ)。政治とは手段の領域で、その目的は政治の外部にあるという考え方→「本来そうした考え方は、政治にとって周縁的な、どちらとも決めがたい問題──すなわち政治を守るために時として必要になる野蛮な暴力とか、政治的自由が実現される前に最初に確保されねばならない生命維持のための糧食とか──なのだが、いまや生活(=生命)の維持と組織化を第一の目的とする手段として暴力を用いることによって、すべての政治的活動力の中心に躍り出たのである。危機は、いまや政治的領域が、かつては唯一それ自身を正当化するように思えたものを脅威に晒しているという点にある。このような情況では、政治の意味をめぐる問いそのものが変わってしまう。今日その問いは「政治の意味とは何か?」では、まずありえない。政治に脅かされていると感じている世界中の人々にとって、自他に向けて発するはるかに適切な問いは次の通りだ。「政治はいまなお何らかの意味を持っているか?」」(182ページ)。

・複数性→多様な視点、その前提として自由
古代ギリシアのポリスにおける討論→「…決定的な要素は、人が議論を一変させたり主張を覆したりすることができりょうになったということではなく、話題をさまざまな側面から──すなわち政治的に──偽りなく見る能力を身に着けたということであり、またその結果として、人々は現実世界から与えられる多数の可能な観点を引き受ける仕方を理解して、まったく同一の話題がそれらの観点から考慮されうるようになり、それらの観点において、それぞれの話題が、それぞれ同一であるにもかかわらず、非常に多様な見解のもとに見えてくるということである。…同一の事柄を多様な立場から見る能力は人間世界の内部に在り続けるのだ。つまり、それは生まれつき(by nature)持っている立場を、同一の世界を共有している他の誰かの立場とやりとりすることに尽きるのである。…説得を通して他者に影響を与えること、それこそポリスの市民が互いに交流するやり方だったが、そのためには、精神的にも身体的=物理的(フィジカル)にも自分自身の立場や視点に絶対的に縛られてはいない、ある種の自由が前提とされていたのである。」(199ページ)

・複数性=世界→政治の意味
(※以下の引用は長くなりますが、とりわけ感銘を受けながら読んだ箇所です)
「…ある事柄は、それがすべての側面で現れ認識されうる限り、感覚的世界と歴史的‐政治的世界の双方においてリアルであるというのがほんとうなら、リアリティをさらに真実らしくさせ、たしかに長続きさせるためには、個人や民族の複数性、そして立場の複数性がつねに存在しなければならない。言い換えるなら、世界は複数の観点(パースペクティヴズ)が存在するときに限って出現するのだ。つまり世界は、いついかなる時でも、こんな風にもあんな風にも見られる場合に限り、初めて世俗的事象の秩序として現れるということである。もしある民族や国民が、または世界におけるそれ独自の位置──その由来はともあれ、簡単には複製されえない位置──から発するユニークな世界観を持っているある特定の人間集団が、絶滅させられるなら、それは単に一つの民族なり国民なりが、あるいは一定数の個人が死滅するということではなく、むしろ私たちの「共通世界」の一部が破壊されるということであり、今まで現れていた世界の一側面が二度と再び現れえなくなるということなのである。それゆえ、絶滅は一つの世界の終わりというだけではなく、絶滅を行う側もまた道連れにされるということでもあるのだ。厳密に言えば、政治の目的は「人間」というよりも、人間と人間の間に生起して人間を越えて持続する「世界」なのである。…互いに何かしら個別的な関係を持ち合いながら世界に存在する民族の数が多ければ多いほど、それらの間に生起する世界の数もますます多くなるし、世界はますます大きく豊かになるだろう。ある国家の中に世界を──すべての人々に公平に見え隠れする同一の世界を──見るための観点の数が多くあればあるほど、その国家は世界に対してますます意義深く開かれたものになるだろう。他方で、万が一地球に大地殻変動が起きて、あとにはたった一つの国家しか残されなくなったとしたら、そしてその国家内の誰もがあらゆることを同一の観点から理解して、互いに完全に意見を一致させながら暮らすようになったとしたら、世界は、歴史的‐政治的意味では、終焉したことになるだろう。…掛け値なしの意味で、人間は世界が存在するところでしか生きてゆけないし、また世界は、掛け値なしの意味で、人類の複数性というものが、単一の種の単なる数的増加以上のものであるところでしか、存在しえないのである。」(206~207ページ)

 編者序文によると、アレントは、ある事件について考えることは“それを思い出すこと”であり、忘却は私たちの世界の有意味性を危険に曝すことになる、とも語っていたという。もちろんホロコーストが念頭に置かれているわけだが、ユダヤ人に限らず、どんな民族もどんな個人も、それぞれがかけがえのない有意味な存在=複数性として世界を構成しているというメッセージとして理解できるだろう。

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