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2008年9月26日 (金)

福田恆存「一匹と九十九匹と」

福田恆存「一匹と九十九匹と」(千葉俊二・坪内祐三編『日本近代文学評論選【昭和篇】』岩波文庫、2004年、所収)

 先日、何で読んだのだったか、社会科学が対象とするのは多数であり、一人を対象とするのが文学だ、という趣旨の記述があった。その通りだと思う。そんなことをむかし誰かが書いていたなあ、と喉元まで出かかってわだかまっていたのだが、今週、ふと思い出した。福田恆存「一匹と九十九匹と」だ。

 福田は『新約聖書』「ルカによる福音書」から「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや」という一節を引く。彼は正統的なキリスト教解釈とは違うのだろうと自覚しつつも、このイエスの言葉は政治と文学との役割の違いを示したものだと感じ取った。

「…かれは政治の意図が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つてゐたのに相違ない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見てゐた。なぜならかれの眼は執拗に「ひとりの罪人」のうへに注がれてゐたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいつたいなにものであるか──イエスはさう反問してゐる。…ぼくもまた「九十九匹を野におき、失せたるもの」にかゝづらはざるをえない人間のひとりである。もし文学も──いや、文学にしてなほこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか。」(347頁)

 福田のこの文章は1947年、まだ敗戦のショックが覚めやらぬ中、当時勢いづいていたプロレタリア文学派の政治性に対する批判として発表された。もちろん、左翼・右翼の別など問題ではない。ある政治目的の下、人的にも動員され、作品内容としても図式化された文学なんて代物では、この失われた一匹を、この人間の救われがたい矛盾を見つめていくことはできない、そうした憤りに衝き動かされていた。

 政治は具体的に目に見える形での解決を求める。物理的・定量的な問題に還元され、目に見えない人間の心情などはすべて無視される。政治の論理にデリカシーなんて期待すべくもない。だから悪い、と決め付けるのも早計だ。現実には、政治でなければ解決できない問題がたくさんある。ただし、

「善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかへしめ、文学者にもまた一匹の無視を強要する。しかもこの犠牲は大多数と進歩との名分のもとにおこなはれるのである。…善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感してゐなければならない。」「…こゝに「ひとりの罪人」はかれにとつてたんなるひとりではない。かれはこのひとりをとほして全人間をみつめてゐる。善き文学と悪しき文学との別は、この一匹をどこに見いだすかによつてきまるのである。」(347~348頁)

 だいぶ以前のことだが、知人から誘われてホームレスの実態調査というのに一度だけ参加したことがある(頭数を揃えるためで、私など何の役にも立ちませんでしたが…)。「役所にさあ、あんたから何か言ってくれよ」と屈託なく話してくれる人はまだいい。一人、いまだに忘れられない人がいた。まだ40歳にもなっていないのに見た目はかなり老けていた。こちらから色々と話しかけても一問一答に終わってしまい、話の接ぎ穂がなく困ってしまった。それでも、ポツリポツリと語る断片から、すべて自分のせいなのだから仕方がない、という諦めが窺えた。

 衣食住の問題、医療上の問題(内臓疾患等で、見た目は元気そうでも、体のだるさから激しい労働はできない人が多い)、法制度上の問題(たとえば、夜逃げした人には住民票はないし、保証人もいない→就職先が見つからない)など、立てるべき対策はある。財源等がネックとなるが、その調整は政治の問題である。しかし、こういう境遇に落ち込んでしまった自分自身を許せないという自尊心の傷つきにはどのように向き合えばいいのか。それに対して私などまるで無力であるのがショックだった。もし手を差し伸べようとしたら、同情を見せる素振りそのものが彼の傷ついた自尊心にさらに塩を塗りこめることになってしまう。もちろん、カウンセリング等の方法もあるにはあるが、なかなか難しい。究極的には、彼自身が自分の人生をどう捉え返すのかという問題に尽きるのであって、他人に手出しはできない。心の中に根を張った傷つきに対して、他人の力=政治など無力なのである。

 自分が無力であることを感じ取れるかどうか、それだけでも違ってくると思う。感じない人は、善意という大義名分の下、彼の心の傷をさらに広げてしまいかねない。それに、無力であることが悔しいという自覚は、今の私には何もできなくても、いつか別の機会に、別の形で、自分のできることをやろうというバネにつながる。少なくとも、声高に騒ぎ立てて何かをやった気になってしまうよりかははるかにましだと思う。

 “文学”とか言っても、別に大仰なことではない。社会的に公式化されたロジックによって見失われてしまう“最後の一匹”のことを常に気に留めておくこと、“正しい”人生経路から外れてしまった一つ一つを見つめていくこと、そうした感性を忘れてしまわないように努力していくこと、それが広い意味で“教養”(文学も含めて)なのだと思う。

 なお、福田恆存と言えば、『人間・この劇的なるもの』は私の愛読書の一冊だ(→記事参照のこと)。魔女の予言に翻弄されるマクベスと、メランコリックに逡巡するハムレットとを対比しながら、“自由”の真意義は“必然”に身をさらしていることの自覚にあると喝破したあたりなど私には衝撃的だった。最近、新潮文庫で復刊されたようでうれしい。

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コメント

はじめまして。
いつも見させてもらっています。
どのようにしてこのブログに辿りついたのかは忘れたのですが、いつの間にか、ネットに繋げばいつもチェックするようになっていました。
トゥルバドゥールさん、ご自身は、どこかで、自分は保守的だと仰っていたと記憶しています。その保守的という言葉が、私には、すんなり理解できており、勝手に共感していました。私は、自分では左翼的であろうと思い、また、社会政策面では左翼的な政策を肯定するのですが、性格的な面では保守的であることを自覚しており、そのことにアンビヴァレントな感情を抱いていました。その場合、「保守」とは、田中美知太郎が「保守的」であると言われる場合の「保守」の意味であり、政治的な対立の一方の立場や、今日の大衆化状況の中で浮き彫りになってきたネット右翼のような存在を意味しているのではないことは、もちろんです。この意味での「保守」を、トゥルバドゥールさんに感じて、勝手に共感していました。そのエッセンスは即ち、この日記でも触れられているような姿勢です――99匹より1匹を。
トゥルバドゥールさんのそれぞれの日記は、安易な「断定」を差し控え、それぞれの歴史的・地理的な状況に位置づけられている人々やその集団に寄り添うものであり、また、それぞれのテクストを、これもまた、決まり文句になりがちなスタンダードで裁断せず、「個」としてのテクストの内実を、丁寧にすくい取っていこうとするものだ――と私は理解しており、そうした、対象に対する姿勢に、私は共感していました。
私自身のことを言わせてもらえれば、新自由主義や政治的保守主義というものが、彼らの夢、思い込み、彼らの意図またはレトリックに反して、実際上は「非人間的」な帰結を導き、にもかかわらず、人が普通の生活をしている限り、人は、自分の意図や願望にかかわらず、その時点における政府の行為になんかなの関与をし、そして、その統治に積極的に抵抗しないという点において、その政府に与し、保守主義者として、自らを現わさざるを得ない、けれども逆に、コミュニズムを、陰に陽に主張する人々の、もちろん、彼らのヒューマニタリアンな意図は無視し得ないものの、その思考や認識における画一的・官僚的な性質にも、個を捨象する「非人間的」なものを感じざるを得ない――こうした中で手にしようと思った態度が、徹底して個に密着する(この極端に相対主義的になりうる)態度でした。こうした思考プロセスがトゥルバドゥールさんと同じなのか、似ているのか、分からないのですが、少なくとも私は、勝手に近さを感じ取っていました。
どうも、一方的なラブ・レターという感じになってしまい、また、突然のことで怪しむかも知れませんが、あまり不審にならないで下さい。いつも見ています、ということを伝えたかっただけですので。
これからも楽しみにしています。

投稿: ずんだ | 2008年9月28日 (日) 01時59分

 真摯なコメントをいただきましてありがとうございました。基本的な考え方として同意できます。ただ、“保守”か“左翼”かというあたりには、私はあまりこだわりがないんですね。強いて言うならば、シニカルなリベラリストといったところでしょうか。ご指摘のように“保守”とレッテル貼りされてしまう田中美知太郎にしても、あるいは福田恆存や山本夏彦などにしても、そういう感じじゃないかなと勝手に思っています。

 徹底して個に密着する、とおっしゃっておられるのでご理解いただけると思うのですが、どんな主義主張であっても、そこにひたむきさがあるのならば傾聴に値する、というのが私の基本的な考え方です。

 ただ、ひたむきさと言っても明瞭な基準はない。迫力として感じ取るものでしかない。曖昧である。だからこそ、レッテル貼り、カテゴリー分けはしたくない。右翼でも左翼でも、慈善活動家でも遊び人でも何でも構わない、ただその人が宿命的にやらざるを得ないことにひたむきに取り組んでいるのであれば、やはり敬意を払わなければいけない。カテゴリー分けは、ひたむきなものも、まがいものも、すべて一括りにしてしまう。そこに誤解が生じる。それじゃあ、ひたむきな人があまりにかわいそうだ。そういう考え方です。ひたむきさの結果として意見が対立してしまうことがあるし、場合によっては残酷な殺し合いに発展してしまうことすら歴史的にはありました。だけど、メタなレベルで言うならば、そうした一切をひっくるめて、よし、という考え方もしています。

 つまり、それぞれの人がとにかくひたむきに生きているのであれば、そこに矛盾があっても認めていこうという意味で私は個人主義者ですし、その共存を目指すという意味で私はリベラリストですし、一切のカテゴリー分けを拒否したいし、レトリックに誤魔化されたくないという意味で私はシニシストです。シニカルなリベラリストというのはそういう意味です。

 ずんださんのコメントとかみ合っているかどうか不安ですが、きっかけとして鬱憤晴らしをさせていただきました(笑)。とりとめなく失礼いたしました。

投稿: トゥルバドゥール | 2008年9月28日 (日) 17時48分

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(1) 以下で述べようとしていることは、二次元と三次元は比較可能か(1)、における最後の記述と関連している…ような気がする。再掲しよ... [続きを読む]

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