「わが教え子、ヒトラー」
「わが教え子、ヒトラー」
総統の心身は病み果てて威厳が失われている。このままでは新年の演説で国民を熱狂させることはできない──考えあぐねた宣伝相ゲッベルスにあるアイデアがひらめいた。ユダヤ人としてザクセンハウゼン収容所に入れられている往年の名俳優アドルフ・グリュンバウム教授を総統の演技指導者としてベルリンに連れてくる。“下劣な”ユダヤ人の指導を受けねばならないとなれば、総統の心中に憤怒がわきおこり、演説に再び迫力が出るはずだという計算。ところが、ゲッベルスの思惑とは裏腹に、グリュンバウムの演技指導で孤独な内面を吐露し始めたヒトラーは、むしろ彼に信頼を寄せるようになる。原題、Mein Führerには、「我が総統」という意味合いと同時に、ヒトラーのグリュンバウムに対する「Mein Führer=私の先生」という呼びかけとが重ね合わされている。
第三帝国の官僚制が戯画化されていたり、ゲシュタポのヒムラーが変な格好していたり(脇役だが、俳優さんはこの演技で何か受賞したらしい)とコミカルなテンポで進む。偽者ヒトラーの演説で最後をしめくくるのはチャップリン「独裁者」の本歌取りか。ヒトラーもの映画で定番のテーマは、独裁者の孤独(悪逆非道な奴の人間性を肯定するなんてけしからん、という意見もありますが、とりあえずおいておきましょう)。この映画でも、独裁者としての威厳を求められて内面をさらけだせない彼の苦悩、それをマジックミラーごしに見る側近たちのある者は笑い、ある者は心配から憤るというシチュエーションを通して浮き彫りにされている。「ヒトラー 最期の12日間」(2004年)では敗戦を目前にして、部下たちが次々と離反していく孤独が描かれていた。アレクサンドル・ソクーロフ監督「モレク神」(1999年)で描かれていたのは、独裁者でもどうにもならぬ死にひとり恐れおののく姿(ただし、ソクーロフの映画は史実としてのヒトラーというよりも、彼に仮託して神話世界的なイマジネーションを広げているものと私は受け止めた。昭和天皇をモデルにした「太陽」についても同様に考えている)。
ヒトラーもの映画ではメノ・メイエス監督「アドルフの画集」(2003年)が私は好きだ。W.W.Ⅰ終結直後のバイエルン。不器用で傷つきやすい芸術家崩れの青年アドルフ・ヒトラーと、彼の才能に目をつけたユダヤ人画商とのすれ違ってしまった愛憎を描く。アドルフのスケッチを見た画商は「マリネッティなんて目じゃない、君こそ新しい未来派だ!」と絶賛。そこにあるのは、十数年後に具現化することになるナチスの衣装や建築などのイメージ。アドルフの傷つきやすさと、それが反転したルサンチマンが放っておけない感じで、ユダヤ人画商とのすれ違いには、歴史のイフのような話以前に哀しさが身につまされた。
なお、「わが教え子、ヒトラー」の主演ウルリッヒ・ミューエは惜しくも昨年に亡くなられたという。「善き人のためのソナタ」(2006年)での渋い感じに私は好感を持っていたので残念。
【データ】
原題:Mein Führer: Die Wirklich Wahrste Wahrheit über Adolf Hitler
監督・脚本:ダニー・レヴィ
2007年/ドイツ/95分
(2008年9月14日、渋谷、Bunkamura ル・シネマにて)
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