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2008年9月17日 (水)

アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?──モダニティの帰結』

アンソニー・ギデンズ(松尾精文・小幡正敏訳)『近代とはいかなる時代か?──モダニティの帰結』而立書房、1993年

 ここのところ色々と面倒くさいので、前回同様に箇条書きメモです。ギデンズの議論は、“脱~”→“再~”という循環性の中で錯綜する状況を捉え返していこうとするところに特徴がありますね。

脱埋め込み
・時間と空間の均質化・分離→個人一人一人の活動が地域ごとの特定の脈絡に「埋め込まれていた」状態から解き放たれる→無限に拡大された時空間の中で社会関係を再構築。
・抽象的システム・専門家システムへの“信仰”(なぜ飛行機が飛ぶのかという原理を知らなくても、我々は飛行機を利用する)や貨幣(時間・空間の括弧入れ)→時空間拡大の手段

再帰性
・「再帰性は、システムの再生産の基盤そのもののなかに入り込み、その結果、思考と行為とはつねに互いに反照し合うようになる。日常生活で確立された型にはまった行いは、「以前なされた」ことがらが、新たに手にした知識に照らして理に適うかたちで擁護できる点とたまたま一致する場合を除けば、過去とは本来的に何の結びつきももたない。あるしきたりを、それが伝承されてきたものであるという理由だけで是認することはできない。伝統は、伝統によってはそれ自体の信憑性が検認できない、そうした知識に照らしてのみ正当化することが可能である。この点は、習慣自体がもつ惰性とあいまって、たとえ近代の最も進んだ社会においてさえ、伝統が引きつづき何らかの働きを果していることを意味する。しかし、伝統の果たす役割は、現代の世界での伝統とモダニティとの融合に着目する論者が想定するほどには、概して大きくはない。なぜなら、正統と認められている伝統は、見せかけの衣をまとった伝統であって、その存在証明(アイデンティティ)を近代の有する再帰性からのみ得ているからである。」(55ページ)
(※エリック・ホブズボームたちの『創られた伝統』も同様の議論)
・社会科学の研究成果は一般の人びとにも摂取される→「モダニティの示す再帰性は、体系的な自己認識が絶えず生成されていくことと直接関係するため、専門家の知識と一般の人びとが行為の際に用いる知識との関係を固定化しない。専門的観察者の求める知識は(何らかに、また多様なかたちで)その認識対象と再び一体化し、それによって(原理的にも、また通常、実際にも)その認識対象を変えていく。」(63ページ)
(※エコノミストが年頭の景気予測がはずれた時、自分の予言が適切だったからこそみんな違う投資行動を取った、その結果としてはずれたのだと言い訳をする小話を思い浮かべた)

信頼と存在論的安心
・確かにあり得る不安であっても度を越した不安(いわゆる“杞憂”ってやつですね)→精神分裂的にも見えるが、他の「普通の人びと」がこれを変だと思うのは、幼少期から“信頼”という予防接種を受けているから。
・「…人間以外の対象の信憑性にたいする信頼は、一人ひとりの人間の信憑性や養育にたいする、もっと原初的な信仰にもとづいている。他者にたいする信頼は、絶えず繰り返して生ずる心理学的欲求である。他者の信憑性や高潔さから確信を引き出すことは、熟知している社会的、物質的環境で経験に付随して生ずる、いわば情緒の再成型である。存在論的安心と型にはまった行いは、習慣という浸透性の強い影響力を介して、本質的に結びついている。…日々の生活の(一見)こまごました型にはまった行いの予測可能性は、心理学的安心感と深く関係している。そうした型にはまった行いが──いかなる理由からであれ──損なわれた場合、不安は、洪水のように押し寄せて、一人ひとりのパーソナリティの揺るぎなく確立された諸側面をさえ剥ぎ取って、つくり変えていくかもしれない。」(124ページ)
・前近代において偶然的なリスクを伴う環境→“信頼”を伴う関係状況で対処:①親族、②地域共同体、③宗教、④伝統(時間的な連続性を生活パターンとして定式化→存在論的安心感に寄与)→これらは脱埋め込み・再帰性により弱体化→モダニティにおいてリスクは査定可能で、不可避的運命とは捉えない。
・脱埋め込みと同時に、再埋め込み→近代は非人格的システムが生活世界を覆いつくしていくというイメージは正しくない(176ページ)。他者との親密性はかつて場所的特性の中にあったが、現在は距離を隔てても可能。
・モダニティにおいては、自己実現がアイデンティティの基盤。

ジャガノート、ハイ・モダニティ(ポスト・モダンではない)
・モダニティは、操縦の極めて困難な大型トラック・ジャガノートが暴走しているようなもの。
・グローバル化したリスク→専門家知識の限界。
・社会的知識の循環性→社会的環境の機能に対して次々と新たな知識が投入されてくる(現状分析→新しい理論という形で。たとえば、投機市場なんか特徴的でしょう)→安定不変の社会的環境は形成できない。
・「近代という時代を創りだした人びとは、先在するドグマにとって代わり確信できるものを捜し求めたとはいえ、近代の時代気質のなかには、実際上、懐疑心が制度化されている。…近代においては、知の主張はいずれも本来的に循環していく。」(218ページ)
・「…グローバル化のもたらす不安定な帰結は、モダニティの示す再帰性が循環的なものであることと相まって、リスクと偶然性がいまだかつてない特質を呈するような事象世界を形づくっていく。…グローバル化は、ローカルな極とグローバルの極の両端で、人びとを、変動の複雑な弁証法の構成要素として、規模の大きなシステムに結び付けていく。しばしばポスト・モダンというレッテルを貼られている現象の多くは、実際には歴史上類例をみないかたちで目の前にあるものとないものとが混在する世界に生きることの経験と関係している。モダニティの示す循環性が定着していくにつれて、進歩は内容を欠いていき、また、横のレヴェルでは、「ひとつの世界」に生きることが必然的にもたらす日々流入する情報の量は、時として圧倒的なものになりうる。しかし、それは、文化の崩壊や、自我が中心性を欠いた「記号世界」のなかに分解していくことの表出では《ない》。それは、重大な帰結をもたらすリスクにみちた、気のもめる舞台背景のもとで展開する、自我と地球規模の社会組織との同時変容の過程である。」(219ページ)

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