カール・シュミット『パルチザンの理論』
カール・シュミット(新田邦夫訳)『パルチザンの理論──政治的なものの概念についての中間所見』(ちくま学芸文庫、1995年)
・スペインでナポレオン軍に対して行なわれたゲリラ戦争→非正規的な戦争→パルチザンの理論の出発点。
・古典的な国際法:戦闘員と非戦闘員の区別、交戦権を持った主権国家同士のルールを持った戦争。主権国家の動員する正規軍の条件は、責任を負う指揮官、制服等の目印、武器の公然携帯、戦争法規の遵守。
・パルチザンはこうした枠づけの外にいる。制服がない→非正規性。盗賊とは違う→政治的性格。神出鬼没の遊撃性。土地的性格。
・非正規な闘争者としてのパルチザン→戦闘員の権利と特権なし。通例の法によれば犯罪者であり、略式な刑罰および報復的措置で除去され得る。「正規の軍隊が、厳格に訓練され、軍人と市民とを正確に区別し、制服を着用する相手のみを正確に敵とみなせばみなすほど、正規の軍隊は、相手側において制服を着用しない一般住民までもが闘争に参加した場合には、ますます敏感に、また神経質になる。そのさい軍人は、苛酷な報復、銃殺、人質、村落破壊という手段で反応し、そのことを詭計に対する正当防衛と考える。正規の、制服を着用する相手が敵として尊敬され、血なまぐさい闘争においても犯罪者との区別が明確化されればされるほど、逆に非正規の闘争者は犯罪者としてますます苛酷に取り扱われる。このすべては、軍人と市民とを、戦闘員と非戦闘員とを区別し、また敵をそのようなものとして犯罪者と宣告しないという珍しい道徳的な力を育て上げた、古典的なヨーロッパ戦争法の論理からの当然の帰結であった」(77~78ページ)
(※こうした形で、日中戦争やヴェトナム戦争などにおいて一般市民の虐殺が行なわれたわけです)
・古典的な国際法は主権国家を主役として戦争を枠づけ→20世紀以降、戦争から枠づけがなくなり、革命的な政党が主役の戦争となった。
・パルチザンの基本的立場は、本来、自分たちの土地から侵略者を撃退することなのだから防御的→相手はあくまでも“現実の敵”(はねかえして引き下がってくれればそれで済む敵)であって、“絶対的な敵”(殲滅すべき敵)ではない。
・しかし、レーニンはこの概念の重点を、戦争から政治へ、すなわち友と敵との区別へと拡大。
・戦争は政治の継続であるというクラウゼヴィッツの公式→簡潔なパルチザンの理論、レーニン、毛沢東によって拡大される。レーニンがクラウゼヴィッツから学んだのは、「友と敵とを区別することは、革命の時代においては、第一次的なものであり、また、戦争および政治をも規定するものである」という認識。「絶対的な敵対関係の戦争と比較して、古典的なヨーロッパ国際法の、承認された規則にしたがって行なわれる枠づけされた戦争は、決闘申込みに応じうる騎士の間の決闘と同じである。レーニンのような、絶対的な敵対関係によって鼓舞された共産主義者には、このような種類の戦争は、単なるゲームであると思われたのは当然であった。」「絶対的な敵対関係の戦争は、いかなる枠づけも知らない。絶対的な敵対関係をきわめて明確に作り上げることが、その戦争に意味と正義とを与えるのである。…すなわち絶対的な敵は存在するのか、またそれは具体的に誰なのか?…敵を識ることが、レーニンの巨大な衝撃力の秘密であった。…すなわち現代のパルチザンは本来的に非正規なものになり、またそれによって既存の資本主義的秩序の最強の否定になり、そして敵対関係の本来的な執行者に適したものになった、ということにもとづいていた」(110~113ページ)→友・敵関係において、革命イデオロギーに基づいて“絶対的な敵”を認識。
・レーニンの革命性に、毛沢東は土地的基礎付け(農村に基盤を置く)を行なった。
・技術工業的発展により核兵器等の絶滅兵器の登場→相手を絶滅し得る→相手に対して絶滅に値する道徳的無価値な存在と宣言せねば自分たちの正当性を確保できない→相手を“絶対的な敵”と規定。
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