カール・シュミット『政治的なものの概念』
カール・シュミット(田中浩・原田武雄訳)『政治的なものの概念』(未来社、1970年)
箇条書きメモ。カール・シュミットの議論に賛成するかどうかは別として、盲点に容赦なく切り込んでくるところが刺激的で興味は尽きません。
・政治現象固有の指標は何か? 有名な“友‐敵”概念。「政治的な行動や動機の基因と考えられる、特殊政治的区別とは、友と敵という区別である。…それが他の諸標識から導き出されるものではないというかぎりにおいて、政治的なものにとって、この区別は、道徳的なものにおける善と悪、美的なものにおける美と醜など、他の対立にみられる、相対的に独立した諸標識に対応するものなのである。…政治上の敵が道徳的に悪である必要はなく、美的に醜悪である必要はない。経済上の競争者として登場するとはかぎらず、敵と取引きするのが有利だと思われることさえ、おそらくはありうる。敵とは、他者・異質者にほかならず、その本質は、とくに強い意味で、存在的に、他者・異質者であるということだけで足りる。…友・敵といったような特殊な対立を、他の諸区別から分離し、独立的なものとしてとらえることができるという、この可能性のなかにすでに、政治的なものの存在としての事実性、独立性があらわれているのである。」(15~17ページ)
・「敵とはただ少なくとも、ときとして、すなわち現実的可能性として、抗争している人間の総体──他の同類の総体と対立している──なのである。敵には、公的な敵しかいない。なぜなら、このような人間の総体に、とくに全国民に関係するものはすべて公的になるからである。敵とは公敵であって、ひろい意味における私仇ではない。…政治的な意味における敵とは、個人的ににくむ必要はないものであり、私的領域においてはじめて、「敵」、すなわち自己の反対者を愛するということも意味をもつのである。」(18~19ページ)
・“敵”概念があるかぎり、戦争は常に現実的可能性をもつ→重大事態をふまえての結束だけが政治的→例外事態も含めて常に決断が必要→“主権”をもつ単位(例外状況における決断については、カール・シュミット『政治神学』の記事を参照のこと)
・異常事態において規範なし→対外的には国家の交戦権は自国民に死の覚悟、敵の殺戮という二重の可能性を命じる。対内的には内敵宣言。生殺与奪の権。
・ある個人なり国家なりが、自分たちに敵などいない、と宣言して武装解除しても無意味→「もしも、一国民が、政治的生存の労苦と危険とを恐れるなら、そのときまさに、この労苦を肩代わりしてくれる他の国民が現れるであろう。後者は、前者の「外敵に対する保護」を引き受け、それとともに政治的支配をも引き受ける。このばあいには、保護と服従という永遠の連関によって、保護者が敵を定めることになるのである。…一国民が、政治的なものの領域に踏みとどまる力ないしは意志を失うことによって、政治的なものが、この世から消え失せるわけではない。ただ、いくじのない一国民が消え失せるだけにすぎないのである」(59~61ページ)
・あらゆる政治理論は、性悪説にせよ性善説にせよ、何らかの形での人間本性を前提している。
・“自由主義”“平和主義”と言っても、非好戦的なのは用語法だけにすぎない。「…このいわゆる非政治的な、さらには一見反政治的でさえある体系は、既成の友・敵結束に奉仕するか、さもなければ新たな友・敵結束にいきつくものなのであって、政治的なものの帰結からのがれることなど不可能なのである。」(102~103ページ)
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