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2008年9月16日 (火)

ジョック・ヤング『後期近代の眩暈──排除から過剰包摂へ』

ジョック・ヤング(木下ちがや・中村好孝・丸山真央訳)『後期近代の眩暈──排除から過剰包摂へ』(青土社、2008年)

文章にまとめるのが面倒くさくなったので、以下、だいぶ雑ですが箇条書きでメモ。

日常生活の脱埋め込み(ギデンズやバウマンの著作を読むとよく出てくるキーワード。disembeddingの訳語らしいが、ちょっとイメージがわきづらい)
・文化・諸制度への埋め込み(ある枠組みの中に自分自身が組み込まれているという感覚)から外れて流動化。選択肢が増えた、自由だという感覚と同時に、存在論的不安、アイデンティティの基盤が崩れた感覚。
・「後期近代を貫くのは、社会的な場所が喪失されたイメージ、物語(ナラティブ)が崩壊し構造が不安定になるイメージである。つまり空間と文化がもはや一致しないような断片化された世界のイメージであり、ある空間が別の時空間や個々人の想像の産物と結びついたような融合物のイメージである。…いわばアノミー、無関係、無関心の荒野であり、互いを意識せず、関心ももたず、ただ勝手に漂流する原子たちの荒野である。そんな断片的かつ分断された分裂性の世界にあって、社会的連帯と人びとの結びつきの感覚はどのように生まれうるだろうか。」(328ページ)(※こうした“後期近代”のイメージは、バウマンの言う“リキッド・モダニティ”と同じ)

他者化・社会的排除
・保守派は移民や貧困層という他者に否定的な属性を投影、悪魔化、文化本質主義→反転的に自己の肯定的属性を確認→貶め
・リベラル派は、貧困層を物質的・道徳的に不利な立場に置かれたものと考えるが、隔離された対象として救済の対象→懸隔
・保守派もリベラル派も、逸脱者を周辺化→自分たち中心層の強化→二項対立という図式では変わらない。
・社会学的調査でも、被調査者に対する客観性→こうした懸隔が再生産される(ひび割れの政治学)
・他者化された人々→社会から受けた屈辱や排除に対抗するため、自己を硬化させる。自己強化の循環構造→スティグマ化と他者化のアイデンティティ・ポリティクス、否定的なアイデンティティの構築。
・二項対立を強化するのではなく、二項対立を脱構築するのが合理的な対処法。

過剰包摂
・社会的排除された人々→社会全体から空間的・社会的・道徳的に切り離されているわけではない。後期近代社会の過剰包摂的性質こそ、社会構造の最底辺にある不満を説明する上でのカギとなる。境界が曖昧になり、価値観が共有され、なおかつ生きることが報われないという矛盾が社会全体に存在。「満ち足りたマイノリティ」とそうでない人の思いとがよく似ていて、同じような欲望や情熱をもっていて、差異は本質的なものではなく、小さいからこそこうした不満が出てくる。
・「アンダークラスの生活と文化的抵抗を形づくるのは、貧困と尊重の欠如という二重のスティグマである。…社会の過剰包摂には、主流社会の成功の価値観、アメリカン(あるいは先進国)ドリームの一身の受容、消費主義的な成功とセレブリティの崇拝を伴う。まさにこの文化的統合こそが排除の屈辱という傷口に塩を塗り込めるのだ。」(96ページ)
・アンダークラス→社会の主流から排除されることで生じる相対的剥奪感→尊厳の剥奪、負け組み感覚、何者でもないこと、アイデンティティの日常的侵害。
・貧困層は富裕層から他者化されると同時に、富裕層に似てくる。貧困層がそうでない人々に近づけば近づくほど、貧困層は排除への憤りを募らせる。

・自己実現の達成こそが理想だとする個人主義。フォーディズムからポスト・フォーディズムへの移行→労働世界の解体→非正規労働市場の拡大、不安定性、アンダーグラスの増加→市場の力はより不平等で非能力主義的な社会を生み出し、市場の価値観は万人に自己責任の精神を奨励。
・脱埋め込みの感覚→アイデンティティの揺らぎ
・存在論的不安の個人的感情を修復しようとすること→本質化の訴えかけに結びつく。つまり、存在論的不安に対する解決法として本質主義(つまり、民族・宗教等の属性を自分たちの“本質”とみなす形で排他的なアイデンティティを形成してしまうこと)。
・自己が他者によって定義される→他者化された集団もまた態度を硬化させて、その押しつけられたアイデンティティを強化してしまう。
・「コミュニティの構築、あるいはその創造は、ある一面を称揚しこれ幸いと受け入れる一方、別の面を罵り、排除する物語(ナラティブ)を構築することでもある。」(333ページ)
・「アイデンティティと文化が次々と生みだされる後期近代の世界にあっては、多文化主義は、自分たちのルーツ探しや「本当の」自己の発見というまったく逆の結果をもたらす。そのような固定的な本質は、ひいては大文字の他者(プロテスタント教徒に対するカトリック教徒、非イスラム教信者に対するイスラム教信者、黒人に対する白人)と対比され、固定した差異という観念から偏見が生じるのを許してしまう。実に皮肉なことに、寛容性を求める多文化主義は、偏見と不寛容性を生みだしてしまうのである。(274ページ)
(※たとえば、マイケル・ウォルツァーなどのコミュニタリアニズムが、そのリベラルな動機とは裏腹に、かえって相互懸隔を拡大・固定化・不寛容化してしまうという批判と理解できる)
・「屈辱を受けた他者は悪魔化や劣等地位という他の場所へと追いやられ、望ましい自己は、国、宗教や階級、ジェンダーいずれかにおいて原理的に優越しているという空想の他の場所にあてがわれる。最終的にもたらされるのは自己欺瞞つまり人間らしい自発性、再帰性(リフレキシビリティ)、営為からの離脱である。だからこそ、われわれがアイデンティティの問題に注意を払い、自己の価値や自己実現化という感覚を保証しつつも他者に体系的に屈辱を与え侮辱する、本質主義の偽りの根拠に身を委ねない政治について論じることが決定的に重要なのだ。」(370~371ページ)

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