フロイトをネタに適当な雑談(いい加減だから読まなくていいです)
今回はいい加減な雑談です。ただ吐き出したいだけですから、読まなくていいです。話題がどこにとぶのか分かりません。テキトーですから、間違っているとクレームがあったって(今回に限り)無視します。あしからず。
ここのところ、精神的に少々荒れております。なんか、自分の将来を悲観してしまっているというか。気分がすごく暗いんで、ショック療法のつもりでドストエフスキー(安岡治子訳)『地下室の手記』(光文社古典新訳文庫、2007年)を読んだら、ますます暗くなってきた。鏡で自分を見ているようで…。
それはともかく。飛躍的な連想があって、フロイトです。中山元訳の『幻想の未来/文化への不満』(光文社古典新訳文庫、2007年)と『人はなぜ戦争をするのか──エロスとタナトス』(光文社古典新訳文庫、2008年)の二冊がいま手もとにあります。以下、これを適当に参照しながら。
欲動、リビドー、エス、まあ何でもいいけど、人間の内奥にアモルファスなエネルギーを措定して、それが外に向えば攻撃衝動、内に向えば自己破壊的な衝動となる。このエネルギーが社会的に肯定される方向にうまく誘導できれば“昇華”と呼ばれる。基本的に、善悪という価値判断にはなじまない。むしろ、このエネルギーを野放しにしておくと何をしでかすか分からない、“万人の万人に対する闘争”となってしまうから、制限をかけるために共同体なり文化なりがでっち上げられた。善悪という道徳はいわば法律、“超自我”はおまわりというか裁判官みたいなものか。この辺の論理構成はホッブズ『リヴァイアサン』と同じです。
ところで、19~20世紀にかけて国家の消滅を目指す政治運動が高まります。マルクス主義です。国家をなくし、財産を平等にして物質的な不満がなくなればみんな仲良くなれるはず(レーニンは『国家と革命』で、書記と簿記係だけが必要になる、なんて言ってますが、それがシステム化されれば国家なんじゃないかという疑問がわきますし、そもそも書記さんが権力握って勝手なことをやったわけです)──チッチッ、てめーら、あめーぜ、ってフロイト先生は舌打ちしてます。物質的に平等になったって、平和になったって、人間の奥底に潜む攻撃衝動は絶対になくならない、だから国家による規制が必要となる。ウィーン大学でフロイトの若き同僚で彼に私淑していた法哲学者ハンス・ケルゼンもこうした観点からマルクス主義の国家論にケチつけてます(『社会主義と国家』)。
ちなみに、私はフロイトの精神分析学を“科学”だなんて思っちゃいません。けっこうウサンくさいです。ただ、19~20世紀(さらには現代にいたるも)という時代状況を考える時に彼の議論を踏まえるとある程度まで納得のいく説明ができる、そういう意味で一つの社会思想だと考えています。カール・シュミットは、あらゆる政治理論は性善説か性悪説かのどちらかに立つし、説得力を持つのは後者の方だという趣旨のことを言ってますが、フロイトも明らかに性悪説です。
「そもそも人間は、指導者と指導者にしたがう人に分かれます。これは人間に生まれつきの不平等性であり、これをなくすことはできないのです。そして大多数は指導者に服従する人々です。自分たちのために決定してくれる権威を必要としますし、こうした指導者にはほとんど無条件にしたがうのです。」(「人はなぜ戦争をするのか」31~32ページ)
民主主義は“平等”第一という思考になじんだ私たちにとって何ともむかつく発言ですな。このクソジジイはこんなことも言ってます。
「人間に文化的な仕事を強制しなければならないのと同じように、大衆を少数者の支配にしたがわせるようにしなければならない。大衆は怠慢で、洞察力に欠けた生き物だからだ。そして大衆は欲動を放棄したがらず、欲動を放棄する必要性を議論で説得することはできない。誰もがたがいに放埓にしたい放題をするばかりである。大衆が指導者として手本とする個人の影響なしでは、大衆を労働に従事させることも、欲動を放棄させることもできない。文化は大衆の労働と、欲動の放棄によって初めて成立するのである。」(「幻想の未来」15~16ページ)
こういうエリート理論は別に珍しいものではありません。たとえば、プラトンが『国家』で、人間の心を放埓な部分、気概の部分、理性の部分と三層モデルで示して、理性が他二者を支配すべきものとし、この図式を社会関係にも適用していわゆる“哲人政治”を主張したことは有名です。20世紀においても、たとえばロベルト・ミヘルス『現代民主主義における政党の社会学』、ヴィルフレド・パレート『一般社会学提要』などがエリート支配の必然性を指摘(他にもガエターノ・モスカってのがいますが、私は読んでません)。パレートは、パレート最適で有名なあの人です。経済学史の方では限界効用革命の大成者とされていますが(詳しいことは知りませんが)、後年、社会学に転向しました。ちなみに、ミヘルス、パレート、モスカともムッソリーニのお気に入りです。
大衆の問題については、ギュスターヴ・ル=ボン『群衆心理』以来、色々な人たちが議論してますね。なお、戦争の時の熱狂状態に絡めてフロイトはこう言ってます。「多数の人々、数百万人の人々が集うと、個人が獲得してきた道徳的要素は解消されてしまい、原初的で、ごく古く、粗野な心構えだけが残る」(「戦争と死に関する時評」70ページ)。一人一人は良い奴であっても、マスというレベルになると凶暴になり得る、大衆なる現象の不思議さ。
人間は攻撃衝動の十全な発揮にこそ満足を得られる→「多数の人々を、たがいに愛しながら結びつけることができるのは、攻撃欲の〈はけ口〉となるような人々が外部に存在する場合にかぎられるのである」(「文化への不満」228ページ)。つまり、外部に敵がいなければ、ある共同体内で人々を結束させることはできないということ。これもイヤな真実ですな。
ちなみに、19世紀、ダーウィン以来の進化論の流れの中で、一匹だけで生き残るのは難しいから種が形成された→この種を共同体のアナロジーとして応用して社会理論とするのがはやりました。大正・昭和初期、進化論を使って社会評論に筆を振るっていた丘浅次郎って人がいたのですが、種の結束には外部が必要→戦争がなければ共同体はまとまれない、だから戦争はなくならない、というペシミスティックな議論をしてました。フロイトもこっちですね。他方、種の結束が常態化すれば外敵がなくても維持できる、だから国家権力がなくても人間は仲良くできるとしたのがクロポトキン『相互扶助論』です。これはアナキズムの理論的根拠となりました。日本では大杉栄や、実は北一輝なんかにも影響を与えています。なお、『相互扶助論』の大杉栄訳は今でも全く違和感のない自然な文体で読めます。
差異をつくって、境界線の内部での結束を保つために外敵を設定し、そちらに攻撃衝動を振り向ける。このプロセスが延々と続く。民族紛争なんて終わるわけありません。
人間がこの世に存在する限り戦争はなくならない。この厳然たる事実を我々は善悪の彼岸に立って受け容れるしかない、そうフロイト先生はおっしゃっています。仮に完全に平和な状態が出現したとして、今度は心奥に渦巻く攻撃衝動はそのはけ口に困ってしまい、平和であること自体に人間は耐えられなくなる。人間は退屈に耐えられない存在なんだ、ってドストエフスキーも言ってました。で、私が何言いたかったかっていうと、みんな殺しあって死んじまえ、ってことです。冗談ですけどね。
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