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2008年8月21日 (木)

松岡洋右について

 ちょっと必要があって、松岡洋右に関わる先行研究3冊に目を通した。

 良かれ悪しかれ、国際舞台で絵になる派手なパフォーマンスをやってのけた日本の政治家というのは戦前・戦後を通じてあまり見られないが、松岡洋右などは稀有な一人だろうか。1932年、「十字架上の日本」と呼ばれるようになる大演説をぶって国際連盟総会議場を退席する姿。1940年代初め、ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンらと肩を並べる姿。ちょうど映像というメディアが強い政治力を発揮し始めた時代だけに、とりわけ国連総会退場のシーンは当時の鬱屈していた日本国民の溜飲を下げさせ、松岡は英雄として凱旋する。ただし、彼自身は連盟脱退を望んでいなかった。しかし、国際情勢・国内世論、いずれの面においても彼の努力で局面を打開できる余地はなかった。政治的野心満々の松岡は、国連脱退のシーンも自らを演出する舞台に仕立て上げてしまう(当時の日本はすでに大衆社会化していたからこそ、対外硬の世論が盛り上がりやすかったことに留意すべき)。

 松岡についての伝記研究としては三輪公忠『松岡洋右──その人間と外交』(中公新書、1971年)とデービッド・J・ルー(長谷川進一訳)『松岡洋右とその時代』(TBSブリタニカ、1981年)の2冊がある。両書とも、若き日の松岡がアメリカで苦学した体験から導き出された対米観に、彼の外交姿勢の原点を見出す。すなわち、「アメリカ人に対する行動の仕方としては、たとえ嚇されたからといって、自分の立場が正しい場合に道を譲ったりしてはならない。そのためにもし殴られたら、すぐその場で殴り返さなければいけない。一度屈服すれば二度と頭を上げることができないからだ。対等の待遇を欲するものは、対等な行動でのぞまなければならない」(三輪書、36ページ)。

 松岡は日独伊ソ四国協商を目指して外交構想を練り、日独伊三国同盟(1940年)及び日ソ中立条約(1941年)を結んだ。同じく枢軸派と目される革新派外交官・白鳥敏夫が観念的な対米決戦論を高唱していたのとは異なり、松岡はむしろ対米戦争回避を目的としていたことはよく指摘される(細谷千博「三国同盟と日ソ中立条約」(『太平洋戦争への道・第五巻』朝日新聞社、1963年、所収)がこうした議論の嚆矢とされるが、私は未読)。この外交上のグランドデザインには松岡の対米観に基づくパワーポリティクスの論理が働いていたと言える。

 ただし、松岡の目論見はあっさりと外れてしまう。三宅正樹『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』(朝日選書、2007年)はヒトラーやスターリンという独裁者によって日本外交が翻弄される様子を活写しているが、松岡構想にとって致命的だったのはドイツ外交の二層性を見抜けなかったこと。交渉相手のリッベントロップ外相は反英親ソ路線で松岡構想にのるつもりだったが、肝心のヒトラーが親英反ソ路線、ソ連軍がフィンランド相手に苦戦しているのを見て独ソ戦を決めてしまう。熱烈なヒトラー心酔者であったリッベントロップはボスの命令に従うしかない。ユーラシア同盟をバックに対米交渉を打開しようとした松岡の外交路線は破綻してしまい、それどころか三国同盟はかえってアメリカの態度を硬化させてしまった。

 なお、三宅書では、日ソ中立条約には松岡が満鉄時代に薫陶を受けた後藤新平の新旧大陸対峙論の影響もあるのではないかとほのめかされている。

 松岡という人物の強烈なパーソナリティーのため、当時の外交政策における彼のイニシアティブという側面に目が奪われやすい。もちろん、彼の役割も重要だが、同時に当時の多角的な政治・経済・外交構造の中で松岡を位置づけ、彼の失敗の問題点を洗いなおす研究も最近は現われていることを付記しておく。

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