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2008年8月26日 (火)

竹井隆人『集合住宅と日本人──新たな「共同性」を求めて』

竹井隆人『集合住宅と日本人──新たな「共同性」を求めて』(平凡社、2007年)

 人間関係の希薄さによる社会不安に対しての処方箋としてコミュニティの復活を求ようとする議論では、たとえば農村や長屋のような顔の見える関係性がなつかしげに語られることがある。私自身、東京の無味乾燥な郊外住宅地に育ったこともあり、そうした自分自身の経験したことのないウェットな共同体に憧れを持ちやすい。ただし、所詮“憧れ”に過ぎないと自覚はしているが。このようなコミュニティ復活論が単なる精神主義に陥りやすいことは本書の指摘する通りである。そもそも、自発性を基とするコミュニティを政策として作り上げようという発想自体に矛盾をはらんでいることは以前にも触れた(→ジグムント・バウマン『コミュニティ──安全と自由の戦場』の記事参照のこと)。

 安易なコミュニティ復活論に対して、住民自身による一定のルール形成を通したガバナンスによって共同性を構築しようとするところに本書の眼目がある。第一に、都市における見知らぬ他者との共同性を組み立てるために個人対個人ではなく個人対集団社会という関係を保証するルールが必要であり、第二に、妙な住民エゴに陥らないよう自分たちの集団内部で自分たち自身に制限をかけていく必要がある。両方の問題の結節点として、本書は集合住宅における自治に着目している。

 住民自身によるしっかりとした自治的共同体が並立していくというイメージを本書は持っているのだろう。住民全員の参加、熟議、私的政府といった表現を見ていると、ルソーが社会契約論の理想としたスイスのカントンを思わせる。また、いわゆる“ゲーテッド・コミュニティー”の保安機能についての少々異様なまでに積極的な擁護はカントンにおける住民全員による共同防衛も連想させる。ただ、本書で主張されている直接民主主義がどこまで可能なのか私にはよく分からない。そもそも集合住宅という生活形態はたとえその意味内容を広げたとしても果たして一般性を持つものだろうか。何よりも、個人一人一人の共同参画→自治という政治モデルは、結局、民主主義論の永遠の理想に終わってしまうだけではないだろうか。前提とされる自律的な個人主義を如何に根付かせるかという問題意識は分かるが、これもまた別種の“べき”論に終わるだけで、それほど有効な議論とも思えない。

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