大森荘蔵『流れとよどみ──哲学断章』
大森荘蔵『流れとよどみ──哲学断章』(産業図書、1981年)
人生で一番の愛読書を挙げろと言われたら、私は躊躇なく『荘子』を挙げる。この『荘子』で寓話としてほのめかされる、かたくなな“ことわり”を取り払った感覚、これをたとえば科学哲学という分野で表現しようとしたら、それが大森さんの文章になるのではないか。強引かもしれないが、そんな気がしている。『知の構築とその呪縛』(ちくま学芸文庫、1994年)などで展開されていた“自然の死物化”の議論など、読みながら『荘子』にある「渾沌の死」のエピソードを思い浮かべていた。
デカルト以来の「主観-客観」二元論を科学哲学という枠組みにおいて克服する──なんて言うと、たいそうなことに聞こえるかもしれないが、何のことはない、我々が日常に普通に感じ取っているありのままの感覚を、そのあるがままに受け止めればいいではないか、ただそれだけのこと。
“学問”として定立された“哲学”は、今まさにここで感じ取っている生身の感覚をことさらに切り離し、対象化し、構図化していく。本来、あたりまえのことを、不自然な手間を介在させることで、ことさらにあたりまえでなくしてしまった。世界の狭い一点に“私”なるエアポケットがあって、そこに鎮座した主観的主体が無機的な世界に対して感情やら何やらを投影しているのではない。そうした一見我々が馴染んでいるかのような「主観-客観」の構図を大森さんは突き崩し、“私”=主観も、“世界”=客観も同一地平にあるというあたりまえのことを説く。「消えたのはただひどく粗大な哲学的構図だけであって、山川草木、日々の出来事、それは一木一草、一飯一茶にいたるまで元のままである。だからあとに残ったのはのっぺらぼうの顔ではなくて、哲学的汚れを落とした素顔なのである」(162ページ)。
この世界の描き方は多様にあり得る。科学的描写もあれば日常的描写もある。前者の厳密さが正しくて後者の感性的曖昧さが錯覚だというのではなく、両者とも描写の仕方として優劣はない。大森さんの表現を使えば“重ね描き”されている。科学的描写を特権化し、日常的描写を追放しがちなところに近代的世界観のいびつさを大森さんは嗅ぎ取っている。
“哲学”といえば、何やら難しそうで、難しそうだからこそありがたそうな、そんな倒錯した印象を抱かれやすい。本来、生きるためにこそ哲学を切実に必要としているのに、その難しそうな印象から遠ざかってしまう人がいる。他方で、哲学が特に必要でなくても、難しい=偉い、みたいな妙な錯覚からファッションとして哲学を勉強し、なおさら複雑怪奇な議論を進めて道に迷ってしまう人もいる。上の大森さんの表現を使えば“哲学的汚れ”だ。そのあたりの錯覚を何とか振り払おうとしていたのが昨年お亡くなりになった池田晶子さんだろう(→池田晶子・大峯顕『君自身に還れ──知と信を巡る対話』の記事を参照のこと)。
大森さんの論文は割合と読みやすい。それに、どことなく詩的な感興がわきおこってくるから不思議だ。読んだからといって特に真新しい知見が得られるわけではないが、視点の取り方は変わってくるのではないか。科学哲学に興味がなくても一読してみると面白いと思う。
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