藤原帰一『戦争を記憶する──広島・ホロコーストと現在』
藤原帰一『戦争を記憶する──広島・ホロコーストと現在』(講談社現代新書、2001年)
去年の夏、広島で原爆にまつわる場所を歩いて回った(→「広島に行ってきた」①・②・③の記事を参照のこと)。たまたま出会った大学生から原爆についての意識調査のアンケートに協力して欲しいと頼まれた。最後に憲法改正の問題、憲法第九条の問題についての質問項目が設けられていたので、戸惑った。余計なことだったかもしれないが、不自然だと指摘した。原爆の問題と一般論としての平和の問題が結びつくのは当たり前でどうしてそこに疑問を持つのか?と言いたげな彼の不思議そうな表情が印象に残っている。
本書ではまず、広島の平和記念資料館とワシントンのホロコースト博物館とが比較される。このような惨禍を絶対に繰り返してはいけないという趣旨では両方とも共通するが、その位置づけ方は対照的だ。広島は戦後日本社会において、どんな理由があっても戦争はいけないという絶対平和主義のシンボルとなった。他方、ホロコースト博物館のメッセージは、民族絶滅という絶対悪を目の当たりにしたとき、我々は傍観してはならず、立ち上がって戦わねばならない、ということになる。また周知のように、日本との戦争を終わらせるためには原爆投下も正当化できるというスミソニアン博物館問題で露わとなった歴史観もアメリカには根強くある。
戦争観はそれぞれの国の置かれた歴史的コンテクストに応じて違ってくる。戦後日本社会においてはしばらくの間、戦争一般を否定する絶対平和主義が行き渡り、安全保障政策や国際貢献をめぐる論争の対立軸となった。他方、ホロコーストを目の当たりにした欧米の場合、そうした絶対悪の抑止・制裁のためにこそ武力行使も必要だという議論が左翼・右翼を問わず成り立つ。たとえば、ハーバーマスがコソボ問題をめぐってユーゴ空爆を支持したことは知られているし、アメリカのリベラル左派・人権派の中には国益目的ではなくあくまでも人道目的からイラク戦争を支持した人々=“リベラル・ホーク”がいた(→マイケル・イグナティエフ『軽い帝国』の記事を参照のこと)。
国益追求のための戦争は国家主権に含まれる、従って政治手段として肯定されるという立場を国際政治学ではリアリズムと呼ぶ。これに対して、戦争を絶対悪とみなす立場は二つあると本書は整理している。一つが反戦思想。戦後日本の進歩派のように、戦争自体が絶対悪なのだから手段としても認められないという立場。もう一つが正戦思想。侵略戦争やジェノサイドのような絶対悪を防ぐためには武力行使もやむなしという立場(例えば、邦訳が刊行されたばかりのマイケル・ウォルツァー『戦争を論ずる──正戦のモラル・リアリティ』風行社、2008年、を参照のこと)。
戦争をめぐる記憶が「国民の歴史」として語られ、「われわれ」意識=国民意識の形成につながっていくことについての本書の分析も興味深い。
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