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2008年7月 5日 (土)

坂本勉『トルコ民族の世界史』

坂本勉『トルコ民族の世界史』(慶應義塾大学出版会、2006年)

 読み始めたら、なぜかデジャヴュ感にとらわれた。何のことはない、十年前に出た『トルコ民族主義』(講談社現代新書、1996年)の改訂版。改訂された割には文献情報のアップデイトが不十分なのが気にかかるところだが…。学生のとき、東洋史概説という科目で坂本先生のトルコ民族史の講義は聴いていたので、二重の意味でデジャヴュ。まあ、復習、復習。遊牧民族としてモンゴル高原から西へと進み、イスラームやペルシア文化を受容したり行く先々をトルコ化したりという大きなダイナミズムを現代まで概観、バランスのとれた入門書として読みやすい。

 読み返しながら改めて関心を持ったのは、言語と民族的帰属意識の関わり方について。トルコ系言語の広がりとそれぞれの地域の政治事情との絡み合いには“ナショナリズム”の問題を考える上で示唆される多くの問題が伏在している。

 言語的共通性に基づく民族意識というのは近代の産物である(フランス革命後、一国家・一民族・一言語という同質的な国民国家を創ろうという動きとしてのナショナリズムが始まったことについては田中克彦『ことばと国家』(岩波新書、1981年)に詳しい)。近代以前においては、ムスリムとしての宗教的帰属意識や地縁的・文化的親近性の方が強く、言語的相違にはそれほど重きは置かれていなかった。アゼルバイジャンのトルコ系の人々は、他のトルコ系民族よりも、同じシーア派を奉ずるペルシア文化の方に親近感があった。中央アジアのペルシア系タジク人は周囲のトルコ系の人々と言語は異なっても文化的な一体感を持っていた。

 自分たちの母語を自由に話せないという抑圧感を抱いたとき、言語改革と政治改革の要求が結びつく。トルコ系の人々が自分たちの言語を見直し、それを基に民族意識を形成しようとし始めたのは19世紀後半になってからである。ロシアのクリミア・タタール出身でジャディードと呼ばれる教育改革運動をおこしたガスプラル(ガスプリンスキー)は共通トルコ語の普及を目指した。それは、帝政ロシア支配下にあってトルコ系の人々の一体感を醸成し、抵抗の原理としていくことが含意されていた。

 中央アジアのトルキスタン・ナショナリズムの動向はソビエト体制になってからも危険視され、結局、1924年、五共和国(トルコ系のカザフ、キルギス、ウズベク、トルクメン、ペルシア系のタジク)に分割されることになった。同じトルコ系の言語であっても共和国ごとに別々の正書法が定められ、本来は方言的な差異に過ぎなかったものが公定言語としての違いを際立たせられることになり、それが別々の国家的な帰属意識につながった経緯については田中克彦『言語からみた民族と国家』(岩波現代文庫、2001年)が論じていたように記憶している。国家ごとに帰属意識が細分化されてしまうと、同じトルコ系であっても国境紛争が頻発する。

 他方、トルコ人自身が支配者であったオスマン帝国の場合はどうか。近代的なナショナリズムの動向はバルカン半島にも波及して独立運動が活発化、瓦解の危機に直面した帝国は宗教的な平等を保障すると言ってキリスト教徒をつなぎとめようとした(オスマン主義)が、失敗。次にアラブ人の独立運動が活発化すると同じムスリムとしての一体感を強調した(イスラーム主義)が、第一次世界大戦の敗北により、これも失敗。パン=トルコ主義がくすぶるものの、アナトリア半島に狭められた領土における一国民族主義(アナトリア=ナショナリズム)に落ち着く。

 アナトリア=ナショナリズムは別の問題を引き起こしている。クルド人問題である。トルコ政府はEU加盟をにらんで欧米からの人権問題に関する眼差しを気にかけているものの、クルド人は“山岳トルコ人”と呼ばれてその言語的・文化的独自性すら公的に認知されてこなかった。ここにも、一国家・一民族・一言語という近代的ナショナリズムのゆがんだ側面が見て取れる。

 言語と政治的帰属意識の結びつき方は多様である。その時々の政治的関係性の中で、母語→国家を求める、というベクトルがあると同時に、国家意識→母語を規定する、という方向へ進むベクトルも機能し得る。また、ナショナリズムは常に両義的である。抑圧されている人々にとって言語的一体感→同胞意識を鼓舞することは抵抗の原理として大きな意味を持つ。他方、いったん国家という枠組みが成立してその内部で言語的な均質性が追求され始めると、今度はマイノリティーが抑圧される。一般論のあり得ない難しさに頭を抱えてしまう。

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コメント

チュルク系の発祥は歴史的に中央アジアであり、民族の南下に伴い現トルコも形成されてきた。
中央アジア5カ国は、人為的に国境を区切られたものの、都市に定住住む定住民族と遊牧民があり、結構はっきり分かれていた。食文化などは人の行き来で交わり似たような食べ物をどこでも食べられるものの、民族衣装、楽器など文化的なものは各民族で異なっている。
1924年に5に分かれるのはソ連による中央アジアの分断統治という見方もあるが文化的にはすでに分かれた5カ国であったといえる。

投稿: チュルク | 2008年7月 6日 (日) 21時26分

コメントありがとうございます。文化的相違というのは、ある程度の傾向性はあるにしても、この点は違うがあの点は同じ、という具合になだらかな曖昧さを残します。しかし、国境線は画然と分けてしまいます。それが人々の意識に与える影響をどのように捉えるか、難しいところですよね。

投稿: トゥルバドゥール | 2008年7月 7日 (月) 20時41分

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