リチャード・セネット『不安な経済/漂流する個人──新しい資本主義の労働・消費文化』
リチャード・セネット(森田典正訳)『不安な経済/漂流する個人──新しい資本主義の労働・消費文化』(大月書店、2008年)
人は、何らかの形で意味的一貫性の中に自分自身を位置づけることで、たとえば仕事上のストレスにも耐え、納得して物事に処していくことができる。そこには、他者にとって重要な貢献をしているという自己確認的な側面があるだろうし、あるいは、その仕事そのものに自分を超えた価値を認めること、本書で言う職人技=クラフトマンシップも重要である。「“正しい”や“正確な”という語が、うまくなされたという意味になるためには、みずからの欲望を超えた、また、他者からの報酬に影響されない客観的標準が共有されていなければならない。何も手に入らずとも、何ごとかを正しくおこなうことが真の職人精神なのである。私欲を超えたこうしたコミットメントほど──私はそう信じるのだが──人々を感情的に高揚させるものはない。それがなければ、人間は生存するための闘争だけに終始することになるだろう」(本書、198ページ)。
マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で分析されている欲望充足の先送りによる禁欲的な労働倫理と官僚制モデルで示されたヒエラルキー構造、この二つの要素で特徴づけられた“鉄の檻”──これをソリッド=堅固な近代とするなら、現在進行形の社会状況をジグムント・バウマンはリキッド・モダニティ(液状的な近代)と呼んだ(バウマン『リキッド・モダニティ』大月書店、2001年)。檻から解放されたのは必ずしも悪いことではないかもしれない。しかし、刻々と変化する状況に対応した“柔軟な”組織構造の中で、人は職業的なアイデンティティーを見失い、ある種の不安や強迫観念に駆られていく、そこに本書の問題意識がある。
最先端の“柔軟な”組織では“職人技”は必要とされない。ある課題を目的として時間をかけた人材育成は無用と考えられ(いわゆる“即戦力”志向の問題点については、玄田有史『働く過剰』(NTT出版、2005年)を参照のこと)、課題ごとに入れ代わるパートナーの誰とでも器用に協調しながらその場その場で問題解決をしていくヒューマン・スキルが重視される(協調性というヒューマン・スキル、感情労働の問題については、たとえば渋谷望『魂の労働──ネオリベラリズムの権力論』(青土社、2003年)を参照のこと)。変化しつつある状況にとにかく合わせることが最優先、その場しのぎの自転車操業的なワークスタイルが主流となり、一つ一つの仕事を丁寧に完成させていく“職人技”はかえって邪魔者扱いされてしまう。こうした状況の中、実現の難しさにためらいつつもそれでも本書は“職人技”の復権に期待をかける。方向性としては、“専門性”教育という具体的提言をしている本田由紀『多元化する「能力」と日本社会──ハイパーメリトクラシー化のなかで』(NTT出版、2005年)の問題意識とつながってくるだろう。ただし、こうした問題は、状況認識はできても、具体的な処方箋となると難しいのが悩みどころだ。
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