李建志『日韓ナショナリズムの解体──「複数のアイデンティティ」を生きる思想』
李建志『日韓ナショナリズムの解体──「複数のアイデンティティ」を生きる思想』(筑摩書房、2008年)
一人一人の、いままさにここに生きて抱えている問題のリアリティを言葉に置き換えていくのは本当に難しいことなのだと思う。本書の著者は他称“在日朝鮮人”であるが、前著『朝鮮近代文学とナショナリズム──「抵抗のナショナリズム」批判』(作品社、2007年)にあった次のシーンが印象に残っている。いわゆる“シイエス→CS→カルチュラル・スタディズ”を専攻する人から「在日朝鮮人に生まれてうらやましいですね。ぼくも朝鮮人に生まれていたら、もっと研究が注目されるのに」と言われたそうだ。
マジョリティとマイノリティ、その関係性の問題は前者が後者を抑圧するという分かりやすい図式で終わるものではない。“シイエス”はマイノリティに対する抑圧の社会的・文化的側面を批判的に検討する立場であり、その点では“反権力”であるにもかかわらず、マイノリティの受ける抑圧を告発→“正義”という特権的立場→“反権力という名の権力”という図式を彼は暗黙のうちに吐露してしまっている。ここにおいては、マジョリティとマイノリティの関係性を単純な二項対立に押し込めて、実は当事者自身のまさに生きている経験がすっかり無視されているのではないか。そうした根本的な疑問を著者は投げかけていた。
植民地支配や朝鮮人差別の問題についてマジョリティたる日本人の側で極端なまでに“自己否定”する人がいるが、実は批判できる自分を問題から超越した立場に置いてしまっている。相手と“向き合うようなポーズ”は取りつつも、現実にはしんどい部分から逃げ出す“向き合わないための技術”に過ぎないと本書『日韓ナショナリズムの解体』は指摘する。“自己批判”は“正しい”から異論を唱えにくい。同様の構図はマイノリティたる在日朝鮮人の側にもあり、自分たちの“抵抗のナショナリズム”を無条件に絶対化してしまうという問題をはらんでいた。二項対立的な“正義らしきもの”が並立する。これでは建設的な議論はできない。
韓国社会におけるナショナリズムは二つに大別されるらしい。一つが、大韓民国という国家レベルにおける高度成長のナショナリズム。もう一つが、独裁政権批判・民主化運動の流れにあり、民族同胞意識を強めた“開かれたナショナリズム”。前者が保守派、後者が進歩派というくくりになるが、竹島(独島)など領土問題では共闘関係に入ってしまうらしい。本書では対馬から高句麗時代の中国東北地方まで本来は自分たちの領土だと主張する“故地意識”が取り上げられている。特に後者の進歩派の場合、基本的に善意というか純粋で、その分、自分たちを絶対化しやすい。その暴走が日本人からは異様に見えてしまうわけだ。
各個人のレベルにおいてアイデンティティは決して一つに収斂されるものではない。それにもかかわらず、日韓双方とも、自分たちと他者とを二項対立的に切り分け、その単純化によって“無意識で善意のナショナリズム”に転化してしまう問題点を本書は指摘する。
私は、日本の“自己批判する私たち”=特権的立場を暗黙のうちに主張してきた進歩派には違和感があったが、他方で、近年巷によく見られる安直な“嫌韓”ものにもほとほとうんざりしていた。そうした中、双方の思考の内在構造を腑分けしようと努める本書の立場は説得的に感じた。感情過多なところが少々気にかかるが、視点そのものはしっかりしていると思う。これからどんな議論を展開するのか期待している。
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コメント
はじめまして。『日韓ナショナリズムの解体』の著者である、李建志です。今回は私の本を読んでいただき、ありがとうございました。『朝鮮近代文学とナショナリズム』とあわせて二冊も読んでいただいているようで、感激しております。
今回の本は、韓国に対する感情が、好きか嫌いか、謝罪か攻撃かという単純すぎる二項対立の図式がいまだに生きていることに疑問を感じ、そしてまるで嫌韓が「新しい」と思っている論者さえもいることに情けなさを感じ、やむにやまれない想いで書いたものです。それをわかっていただけたのがうれしくてなりません。
たしかに感情には流されてますね(笑) 今回も前回も、感情がこもりすぎているというか、目の前に批判対象をありありと浮かべすぎているというか、そういう嫌いがあると思います。日本と朝鮮が、マジョリティとマイノリテイが、より健康な関係になれるように祈りを込め、これからも研究を続けていきます。ご指摘ありがたく頂戴します。
では、失礼します。
投稿: 李建志 | 2008年7月28日 (月) 11時54分
李建志様、こちらこそ、はじめまして。丁寧なコメントをいただきまして恐縮いたしております。
まさか著者の方がご覧になるとは思いもよらなかったので、うかつに感情過多なんて書いてしまい、大変失礼いたしました。聞き流していただいて、むしろそれだけ切実な動機で研究を進めていらっしゃるわけですから、もっとぶつけていってください。
妙な二項対立が議論を不健全にしてしまう傾向が見られる中、問題意識には共感しております。あとがきを拝見しますと、まだ色々と面白そうなテーマを追っていらっしゃるようですね。楽しみにしています。これからも頑張ってください。
投稿: トゥルバドゥール | 2008年7月28日 (月) 13時29分
さっそくお返事いただきうれしいです。へんに気を遣って書いた書評なんかより何倍も有意義で、そしてためになるご評価ですよ。本当にありがとうございます。これからもよろしく(きびしく)ご指導ください。では、さようなら。
投稿: 李建志 | 2008年7月29日 (火) 01時35分