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2008年7月

2008年7月29日 (火)

ダウド・ハリ『ダルフールの通訳──ジェノサイドの目撃者』

ダウド・ハリ(山内あゆ子訳)『ダルフールの通訳──ジェノサイドの目撃者』(ランダムハウス講談社、2008年)

 スーダン政府のバックアップを受けたアラブ系民兵組織ジャンジャウィード、彼らによってダルフールの非アラブ系民族に対して行なわれている焼き討ち、殺戮、レイプ、その凄惨なあり様についてはここに引き写すのもおぞましい。

 ダウド・ハリはダルフールのザガワ族出身。彼自身の村も焼き討ちされ、兄をはじめ多数の親族が殺された。英語が得意なので、隣国チャドに脱出後も、海外のジャーナリストの通訳として6回も命の危険をおかした再潜入をしている。

 すべてを失い、絶望しかない中、戦うか、さもなくば無気力に陥るか。彼は自分の村が焼き討ちされて以来、生きているという実感がない。それでも、なおかつ彼が生きる理由は何か。ダルフールに降りかかった惨状を海外の多くの人々に知らせること。外国のジャーナリストたちをダルフールへ案内し、自分の命はどうなろうとも、彼らを生きて脱出させ、彼らの見たままを語ってもらうこと。ダウドは戦う。銃を取るのではなく、得意な英語を武器として。タイトルにある通訳とは、もちろん外国人ジャーナリストの通訳というだけでなく、ダルフールで進行中のジェノサイドを全世界に向けて伝達していくという意味が込められている。

 最近、ルワンダ問題に関わる本を何冊か続けて読む機会があった。ジェノサイドを目の当たりにしたとき国際社会はどのような対応を取るべきなのか、解きがたいアポリアにつくづく考え込まされた。映画「ホテル・ルワンダ」(→こちらの記事を参照)のモデルとなったポール・ルセサバギナは時間稼ぎをしながら国際社会の積極的介入を切迫した思いで待っていた(→ポール・ルセサバギナ『An Ordinary Man』の記事を参照のこと)。他方、現地にいた国連平和維持軍司令官ロメオ・ダレールは、彼自身は介入すべきと確信しているのに、国連本部からのゴー・サインが出ない。目の前で殺戮が繰り広げられているのに何も出来なかった後悔から彼はPTSDになってしまったほどだ(→ロメオ・ダレール『悪魔との握手──ルワンダにおける人道の失敗』の記事を参照のこと。この本は必読だと私は思っている)。

 当事者も、国際社会の良心も、介入すべきという思いは切実に持っているにもかかわらず、国家主権、国益をめぐる各国のエゴという壁が立ちはだかり何も出来ない虚しさ。国連安全保障理事会も機能しない。拒否権を持つ中国が反対するから、スーダンに対しても、あるいは最近ではジンバブエに対しても制裁決議が通らないのだ。中国はダルフールの天然資源をあてこんでスーダン政府をバックアップし、かの地で続く殺戮を黙認している。北京オリンピックの聖火リレーに対して世界中で抗議デモが繰り広げられ、チベット問題が特に注目されていたが、欧米ではダルフール問題への抗議という意味合いも強かった。

 ダルフール問題について日本語で読める本がなかなか見つからなかったので、本書の出版はとても貴重なことだと思う。なお、映画「ホテル・ルワンダ」で主演を務めた俳優ドン・チードルたちがダルフール難民のキャンプを歩いた記録を中心にジェノサイドの問題をテーマとした本を以前にこのブログで取り上げたことがある(Don Cheadle and John Prendergast, Not on Our Watch: The Mission to End Genocide in Darfur and Beyond)。

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2008年7月28日 (月)

ウイグル問題についてメモ②

 ウイグルの問題、あるいはチベットの問題についてもそうだが、いわゆる“ぷちナショナリズム”的なネット世論の中で、中国バッシングの道具として使われる傾向がある、そんな印象が私には強い。もちろん、真面目に考えている人もちゃんといる。しかし、理性的な人は静かに語るけど、思考回路が単純→声のでかい人ばかりが目立ってしまうのがこの世の常。このあたりの違和感は、水谷尚子『中国を追われたウイグル人』のあとがきでも吐露されていた。

 ウイグル問題を日本人のナショナリスティックな動機から中国バッシングの道具として利用するのは、彼らの苦境を他人事して鬱憤晴らしに消費しているだけのことで、私はあまり感心できない。さらに問題なのは、事情をよく知らない日本の一般の人々に対して、ウイグルやチベットの問題→中国バッシング→ああ、右翼の人たちね、みたいな妙な誤解がイメージとして定着しかねないこと。正直に言うと、私自身もかつてそうした色眼鏡で見ていた。

 先日、水谷尚子さんから直接お話をうかがう機会があった。ウイグル問題が日本で妙に誤解されたり政治運動化されたりということについて語るとき、表情にさびしそうな疲れたような翳りがよぎった。水谷さんははちきれんばかりに元気一杯な明るさがとても魅力的で、表情の喜怒哀楽がはっきりした方なので、その時の表情の翳りがなおさら強く印象に残っている。

 水谷さんご自身は研究者として政治的党派性から中立でありたいと考えておられるが、実際には色々なしがらみがあって難しいらしい。それでも、「誤解されるのを恐れて何も言わないよりも、誤解されても言うべきことはきちんと言った方がいい」とおっしゃるのをうかがって、私は襟を正さねばならない気持ちになった。具体的なアクションを取ろうとすれば戦術として政治にも接近せねばならない。しかし、政治は不本意な副作用をもたらすことがある。バランスが本当に難しい。

 それに、水谷さんはウイグル人亡命者からの丹念な聞き書きの仕事を続けつつ、同時に中国への愛着も持っている。『「反日」解剖──歪んだ中国の「愛国」』(文藝春秋、2005年)にしたって、日中双方の風通しの悪さを何とか崩してやろう、その上で良い関係を築いていこうというのが本来の動機だと思う。中国にも愛着があるからこそ、中国政府がウイグル人に対して苛酷な政治弾圧を行なっていることを悲しんでいる。それでも、ウイグル人の置かれた状況を考えれば、やはり異議を唱えざるを得ない。不本意な形で二者択一を迫られてしまう。おそらく、失ったものの大きさに耐え難いつらさも抱えておられるのではないかと心ひそかに推察している。

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ウイグル問題についてメモ①

 ここ最近、ウイグルのことについて少しずつ勉強中。取りあえず、途中経過メモ。

 大雑把な歴史を知るには、取りあえず今谷明『中国の火薬庫──新疆ウイグル自治区の近代史』(集英社、2000年)が入手しやすい。今谷明と言えば日本中世史の大家として知られているけど、『ビザンツ歴史紀行』(書籍工房早山、2006年)なんて本も出している。守備範囲の広い人だ。井上靖の小説やシルクロードへのロマンが昂じて書いちゃったとのこと。私自身、動機は同じです。近世から東トルキスタン共和国まで既存研究のダイジェストで、内容的には整理されていると思う。しかし、結論的にムスリム反乱の主役はあくまでも東干(回族)であってウイグル人は中央政府にとって脅威ではなかった、東干が決起しない限り新疆独立はないだろう、と言うのはいかがなものでしょうか。武装蜂起ばかりが独立運動でもあるまいし。あるいは、『新版世界各国史4・中央ユーラシア史』(小松久男編、山川出版社、2000年)の東トルキスタンの節(濱田正美稿)を拾い読みしても歴史的な流れは簡潔に過不足なく把握できる。

 新疆・ウイグルについて多面的に知りたい場合は、『アジア遊学』No.1「特集 越境する新疆・ウイグル(新免康・編)」(勉誠出版、1992年2月)と『アジ研ワールド・トレンド』第112号「特集 ウイグル人の現在─中国と中央アジアの間で」(2005年1月、日本貿易振興機構アジア経済研究所研究支援部)の2冊が取っ掛かりとして便利そうだ。いずれも新疆での滞在体験を踏まえた論考やエッセイが集められている。

 まず、『アジア遊学』No.1「特集 越境する新疆・ウイグル」。堀直「新疆がどうして中国になったのか─近現代の経済史から」。18世紀、乾隆帝時代に清朝の版図に組み込まれ“新疆”と呼ばれるようになったことから、清朝の弱体化、漢人流入禁令の形骸化、ムスリム反乱、ヤークーブ・ベグ政権を左宗棠が制圧→新疆省設置(1884年)、イリ条約(1881年)→ロシアとの国境画定といったプロセスを紹介、中国“固有の領土”として内地化が進められて行く経緯を解説。

 大石真一郎「ウイグルの近代─ジャディード運動の高揚と挫折」。従来のイスラム的教育の他、1884年以降は“中国化”教育政策が進められ、さらにキリスト教の宣教師も入り込んでくる中、ウイグルの人々の間に危機感が芽生えていた。当時の新疆はロシアとの交易が盛んになっていたため、ロシア籍のタタール人やウズベク人を通して“ジャディード”という近代化を目指した教育改革運動が新疆でも始まる(ジャディードについては、坂本勉『トルコ民族の世界史』の記事、小松久男『革命の中央アジア』の記事を参照のこと)。オスマン帝国の「統一と進歩委員会」(青年トルコ)もアフメト・ケマルという人物を新疆に派遣していた。1930年代の新疆ムスリム反乱の背景の一つとしてこうした動きから培われた民族主義や近代化志向の意識もあったことは新免康「新疆ムスリム反乱(1931~34年)と秘密組織」(『史学雑誌』99-12、1990年12月)で指摘されている。

 藤山正二郎「ウイグル語の危機─アイデンティティの政治学」は近代ウイグル語の成立過程について、リズワン・アブリミティ「模索するウイグル人─新疆における民族教育の状況」、それから同「新疆におけるウイグル人の民族学校」(『アジ研究ワールド・トレンド』)は民族教育の問題を取り上げ、やはりウイグル語教育と漢語教育の両立の危うい難しさが焦点となる。民族学校でのウイグル語教育はウイグル人としてのアイデンティティや文化的伝統を維持していく上で欠かせない。しかし、政策的な漢語同化政策ばかりでなく、中国社会にも市場競争原理が浸透しつつある中、就職を考えるとやはり漢語ができないと不利、そうした動機からウイグル人でも漢語学校に入るケースが増えているという。言語的不利→社会的ステータス上昇困難の不満についてはBlaine Kaltman, Under the Heel of the Dragon: Islam, Racism, Crime, and the Uighur in China(Ohio University Press, 2007)(→記事参照)で取り上げられていた。

 真田安「バザール・混沌の奥にある社会システムを求めて」はバザールの光景とその魅力を語りつつ、バザールにおける商品経済の仕組みを解説。経済関係では章瑩「新疆における国境貿易」という論文もある。

 菅原純「創出される「ウイグル民族文化」─「ウイグル古典文学」の復興と墓廟の「発見」」や鈴木健太郎「ウイグル音楽の歴史書『楽師伝』と民族的英雄アマンニサハンの誕生」は、少々強引とも思えるような論拠に基づいて民族的英雄を創り上げていくプロセスを検討、そこからウイグル人の民族文化振興の意志や焦燥感を読み取る。新免康「聖なる空間を訪ねて─新疆ウイグル社会における墓廟(マザール)」はウイグル民族文化の一翼を担うものとしての宗教的空間について解説。マリア・サキム「新疆における伝統的生薬文化」は民間医療について。

 王建新「ウイグル人のイスラム信仰」は日常生活に根付く宗教習慣について。イスラムには徳と義務との相殺という考え方があり、たとえば若い頃、共産党員として宗教的義務を果せなかったので、引退してから敬虔な宗教生活を送るという人が紹介されていて興味深い。宗教的規範と共産党政権下における公的・世俗的規範との矛盾を何とかやりくりしようという工夫がうかがえる。ウイグル人はイスラム教スンニ派だが、その中にも垣間見えるシャーマニズムについては王建新「新疆ウイグルのシャーマニズム─イスラムの現代に生きる民俗信仰」(『アジア遊学』No.58、2003年12月)が紹介している。

 次に、『アジ研ワールド・トレンド』第112号「特集 ウイグル人の現在─中国と中央アジアの間で」。新免康「ウイグル人の歴史と現在」は概況を解説。なお、かつて東トルキスタン在住トルコ系の人々の帰属意識は各オアシスに対するもの、もしくはムスリムとしての自覚が強かったが、“ウイグル”という名称による民族区分が明確になったのは20世紀に入ってからのこと。

 岡奈津子「カザフスタンのウイグル人」。上海協力機構は加盟各国それぞれ内部に抱える“過激派”押さえ込みの同盟という側面があるが、ウイグル人からすれば国境を越えた自分たちのネットワークを押さえ込もうとしていると受け止められている。カザフスタンではウイグル人に対して“テロリスト”という偏見も持たれているらしい。カザフスタン在住ウイグル人組織として、武装解放路線を唱える強硬派からウイグル人の権利向上を目指す穏健な文化活動まであることを紹介、前者はごく少数、後者が圧倒的多数である。

 菅原純「ウイグル人と大日本帝国」は1944年刊行の『中央アジア・トルコ語』を皮切りに日本とウイグルとの意外な関係を発掘している。盛世才政権に反対して亡命したマフムード・ムヒーティたち一行は日本に亡命(この中にいたムハンマド・イミン・イスラーミーはアブデュルレシト・イブラヒムの死後、代々木のモスクのイマームとなったそうだ。なお、イブラヒムについては『ジャポンヤ』の記事を参照のこと)。ただし、彼らに対して日本政府は素っ気なかったという。結局、北京、さらにフフホトに追いやられ、ここで彼らは満鉄調査部の竹内義典の支援を受けた。また、アフガニスタンに亡命していたムハンマド・イミン・ブグラ(『東トルキスタン史』の著者)は在カブール日本領事館に頻繁に出入りしていたそうだ。

 他に、前掲のリズワン・アブリミティ「新疆におけるウイグル人の民族学校」、堀直「ウイグルの古都ヤルカンド」、菅原純「翻弄された文字文化─現代ウイグル語の黄昏」、藤山正二郎「儀礼的世界のウイグル女性」などの論考がある。

 取りあえず、今回はここまで。

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2008年7月26日 (土)

李建志『日韓ナショナリズムの解体──「複数のアイデンティティ」を生きる思想』

李建志『日韓ナショナリズムの解体──「複数のアイデンティティ」を生きる思想』(筑摩書房、2008年)

 一人一人の、いままさにここに生きて抱えている問題のリアリティを言葉に置き換えていくのは本当に難しいことなのだと思う。本書の著者は他称“在日朝鮮人”であるが、前著『朝鮮近代文学とナショナリズム──「抵抗のナショナリズム」批判』(作品社、2007年)にあった次のシーンが印象に残っている。いわゆる“シイエス→CS→カルチュラル・スタディズ”を専攻する人から「在日朝鮮人に生まれてうらやましいですね。ぼくも朝鮮人に生まれていたら、もっと研究が注目されるのに」と言われたそうだ。

 マジョリティとマイノリティ、その関係性の問題は前者が後者を抑圧するという分かりやすい図式で終わるものではない。“シイエス”はマイノリティに対する抑圧の社会的・文化的側面を批判的に検討する立場であり、その点では“反権力”であるにもかかわらず、マイノリティの受ける抑圧を告発→“正義”という特権的立場→“反権力という名の権力”という図式を彼は暗黙のうちに吐露してしまっている。ここにおいては、マジョリティとマイノリティの関係性を単純な二項対立に押し込めて、実は当事者自身のまさに生きている経験がすっかり無視されているのではないか。そうした根本的な疑問を著者は投げかけていた。

 植民地支配や朝鮮人差別の問題についてマジョリティたる日本人の側で極端なまでに“自己否定”する人がいるが、実は批判できる自分を問題から超越した立場に置いてしまっている。相手と“向き合うようなポーズ”は取りつつも、現実にはしんどい部分から逃げ出す“向き合わないための技術”に過ぎないと本書『日韓ナショナリズムの解体』は指摘する。“自己批判”は“正しい”から異論を唱えにくい。同様の構図はマイノリティたる在日朝鮮人の側にもあり、自分たちの“抵抗のナショナリズム”を無条件に絶対化してしまうという問題をはらんでいた。二項対立的な“正義らしきもの”が並立する。これでは建設的な議論はできない。

 韓国社会におけるナショナリズムは二つに大別されるらしい。一つが、大韓民国という国家レベルにおける高度成長のナショナリズム。もう一つが、独裁政権批判・民主化運動の流れにあり、民族同胞意識を強めた“開かれたナショナリズム”。前者が保守派、後者が進歩派というくくりになるが、竹島(独島)など領土問題では共闘関係に入ってしまうらしい。本書では対馬から高句麗時代の中国東北地方まで本来は自分たちの領土だと主張する“故地意識”が取り上げられている。特に後者の進歩派の場合、基本的に善意というか純粋で、その分、自分たちを絶対化しやすい。その暴走が日本人からは異様に見えてしまうわけだ。

 各個人のレベルにおいてアイデンティティは決して一つに収斂されるものではない。それにもかかわらず、日韓双方とも、自分たちと他者とを二項対立的に切り分け、その単純化によって“無意識で善意のナショナリズム”に転化してしまう問題点を本書は指摘する。

 私は、日本の“自己批判する私たち”=特権的立場を暗黙のうちに主張してきた進歩派には違和感があったが、他方で、近年巷によく見られる安直な“嫌韓”ものにもほとほとうんざりしていた。そうした中、双方の思考の内在構造を腑分けしようと努める本書の立場は説得的に感じた。感情過多なところが少々気にかかるが、視点そのものはしっかりしていると思う。これからどんな議論を展開するのか期待している。

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2008年7月25日 (金)

『酒井駒子 小さな世界』

 例によって書店をふらついていたら、絵本情報誌『Pooka』の特別版『Pooka+ 酒井駒子 小さな世界』(学習研究社、2008年)が目に入った(書影が見られるようアマゾンにリンクをはっておきます)。私は絵本にそれほど特別な興味はないけど、酒井さんの絵は大好きですぐに買った。彼女の活動は絵本やブックデザインが中心、画集などは見かけないので、色々な作品をまとめて見られるのはうれしい。

 酒井さんの絵を初めて見かけたのは実は書店ではなくタワーレコードの視聴コーナー。world'send girlfriend「The Lie Lay LandというCDのジャケットが酒井さんの絵だった。なぜか目を引き、ヘッドホンを耳に当てた。同時に両方のアーティストのファンになってしまった。

 酒井さんの絵本では、小川未明『赤い蝋燭と人魚須賀敦子『こうちゃんの2冊を持っている。銀座、教文館の児童書専門店「ナルニア国」で買った(絵本にはそんなに興味はないと言いつつも、ここに時々立ち寄って書棚を眺めていると楽しい)。売場のおねえさんから「プレゼント用に包装なさいますか?」と当然のような口ぶりできかれて、ちょっと口ごもりながら「…ええと、結構です」。絵本に趣味がありそうな風体はしておりませんので、何となく胡散臭く見られたかなあ、と気にかけるのも自意識過剰ですかね。

 この酒井駒子特集本は、酒井さんの選んだいくつかのキーワードで章分けされている。一番初めが、「夜──昼間でも、夜のことを思っている。」私が酒井さんの絵で一番ひきつけられているのは黒の際立つ色調だ。子供を描いたものが多い。ぼんやりとした輪郭で、それが繊細さ、あたたかさを感じさせるのだけど、黒いトーンが引きしめてくれると言ったらいいのか。やわらかい哀感という言い方が適切か分からないが、表情の独特な余韻がとても好きだ。

 書店で酒井さんの装幀になる本を見かけると必ず手に取って眺める。つい先日も、湯本香樹実『春のオルガン(新潮文庫、2008年)をついつい買ってしまったばかり。他にも、恩田陸『不安な童話(新潮文庫、2002年)、蛇行する川のほとり(中公文庫、2007年)、角田光代『だれかのいとしいひと』(単行本は、白泉社、2002年。文庫版は文春文庫、2004年)が手もとにある。ミシェル・ペイヴァーのファンタジー・シリーズオオカミ族の少年』『生霊わたり』『魂食らい(評論社、2005~2007年、以下続刊)も装幀に引かれて読んだ。張芸謀監督の映画「至福のとき」のチラシにある少女像もいいなあ。

 酒井さんは村山槐多が好きだというのがちょっと意外だった。

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2008年7月24日 (木)

アブデュルレシト・イブラヒム『ジャポンヤ──イスラム系ロシア人の見た明治日本』

アブデュルレシト・イブラヒム(小松香織・小松久男訳)『ジャポンヤ──イスラム系ロシア人の見た明治日本』(第三書館、1991年)

 井筒俊彦は司馬遼太郎との対談で、あるタタール人亡命者の老ウラマーからアラビア語を学んだことを語っている(「二十世紀末の闇と光」)。コーランをはじめあらゆる典籍を完全に暗証していることに驚き、彼から学問の何たるかを教えられたと尊崇の気持ちが篤い。やはり井筒と一緒にこの人物に会った前嶋信次も、彼の重厚な存在感に圧倒されたことを回想している(『アラビア学への途──わが人生のシルクロード』)。

 井筒や前嶋の会った老ウラマー、その名をアブデュルレシト・イブラヒムという。ロシア支配下、ムスリム社会を変革すべく新方式の教育改革を目指したいわゆるジャディード(革新派)だが、伝統墨守の頑迷な聖職者たちとロシア政府の両方からにらまれてイスタンブールへ亡命。その後、イスラム圏を中心に世界中を回り、旅行記『イスラム世界』のうち日本の章を訳出されたのが本書である。

 イブラヒムはロシア領トルキスタン、シベリアを経由して、1909年、敦賀に上陸。米原、横浜とやって来るが、途中で出会った日本人について正直、清潔と印象はすこぶる良好。

 日本語は外国語をそのまま借用せず、たとえばポストは郵便、フォトグラフは写真といった具合に自分たちの言葉にできるだけ言い換えようとしていることに彼は注目。また、どんな貧しい家でも新聞を買っていることに感心する。教育改革、言語改革を通した近代化を目指したジャディードらしい関心の持ち方である。他方、大学の図書館へ行くとみんな和服姿で勉強しているのを見て、教育に服装の改革までは必要なし、と記す。知識的・技術的な部分は西欧から学びつつも文化的伝統は失わせないという“和魂洋才”的な志向が窺える。

 イブラヒムは欧米列強に対抗するため、汎イスラム主義を軸とした諸民族の団結を目指しており、世界旅行もそうした熱意を動機としている。この構想の中で日本のイスラム化に期待を寄せているのが面白い。彼の言うところでは、日本人の清潔さ、礼儀正しさ、正直、道徳心、これらはヨーロッパ人(おそらく、ロシア人を念頭に置いているのだろう)にはないもので、その点で日本人は「我々イスラム教徒にふさわしいほど高貴である」とのこと。同時に、日本人は自分たちの民族精神を捨ててはならず、それはイスラムによってこそ支えられると言う。また、イスラムに改宗すれば、中国やインドネシアへの政治的・経済的進出が容易になるはず、と日本の利益にもかなうことを説く(彼はそれこそ無邪気なほどに日本と中国との合邦を主張している)。

 彼は伊藤博文、大隈重信、河野広中、犬養毅、頭山満などの要人をはじめ様々な人物と会見している。中野常太郎という人物に日本でのイスラム布教について期待を寄せるほか、日本人として最初にイスラムに改宗したという大原武慶なる人物も登場する。彼は後に東亜同文会に参画、辛亥革命にも関わったらしい。日本のアジア主義者の方も積極的にイブラヒムへの接触を図っていたようだ。

 イブラヒムが出会った人々を見ていると、当時すでにイスラム圏出身者が日本にも結構いたらしいことが興味深い。アフマド・ファズリーはカイロ出身、スーダンの戦いにも参加したというからマフディー運動と関わりがあったのだろうか。インド出身のマウラヴィー・バラカトッラーとは日本にモスクを建てる計画について相談。アデン出身のアラブ人水夫たちとの邂逅では、国境を越えたイスラムの一体感に少々感傷的だ。また、佐々木蒙古王(安五郎)の紹介で、中国領トルキスタン出身、トルグート(モンゴル系、チベット仏教徒)の王子バルタ・トッラにも会った。彼は振武学校(中国留学生のための士官学校の予備校)に留学中で、イブラヒムは、故郷に戻っても東洋統一の思想を広めるようにと諭す。

 イブラヒムは五~六ヶ月ほどの滞在で日本を後にする。本書もここで終わる。その後、彼はどうしたか? 第一次世界大戦ではドイツに渡ってロシア軍捕虜中のムスリム兵士を集めてオスマン軍に編入させる。ロシア革命後は中央アジアに潜入し、ムスリムの独立運動を進めたが、失敗(旧ソ連時代の中央アジアではイブラヒムの名はほとんど抹殺されたも同然だったという)。そして、1933年、再来日。1938年には東京のモスク(代々木の東京ジャーミィ)のイマームとなり、戦争中の1944年に客死(以上、杉田英明『日本人の中東発見──逆遠近法のなかの比較文化史』東京大学出版会、1995年、225~232ページを参照)。井筒や前嶋が会ったのはこの晩年の頃である。イブラヒムの、敵の敵は味方というロジックで世界中を飛び回る行動力を見ると、何となくインドのラシュ・ビハリ・ボースやスバス・チャンドラ・ボースなんかも想起させる。

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2008年7月23日 (水)

小松久男『革命の中央アジア──あるジャディードの肖像』

小松久男『革命の中央アジア──あるジャディードの肖像』(東京大学出版会、1996年)

 十九世紀末頃から、ロシアの支配下、旧来的なイスラム解釈による教育では発展の見込みがないと危機意識を抱いたトルコ系の人々の間で教育改革運動が始まった。具体的には、近代文明を受容できる“共通トルコ語”の創出を目指す形を取った。彼らを改革派=“ジャディード”という。とりわけ有名なのはクリミア・タタール人のガスプリンスキーである。

 こうしたジャディードの改革運動は中央アジアにも波及、ブハラでも新方式の学校が開かれた。ブハラの知識人たちは、オスマン帝国での青年トルコ革命を意識して、自分たちを“青年ブハラ人”と呼んだ。彼らの前には二つの勢力が立ちはだかった。一つは、保守的なウラマー。もう一つが、彼らの動きに汎イスラム主義や汎トルコ主義の危険を察知したロシア当局であった。こうした情勢の中、イスタンブール留学を契機に青年ブハラ人左派の指導者として頭角を現していくのが本書の主人公、フィトラトである。

 彼の思想をみていくと、イギリスをはじめとする欧米帝国主義と対抗するため、東方勢力が一つにならねばならない、そこで日本に着目する点で、イスタンブール留学時に出会ったアブデュルレシト・イブラヒム(彼はその後、日本で客死する)の大構想が想起される。また、帝国主義と戦うにしても自分たちだけでは力不足である、反帝国主義という点で汎イスラム主義はソビエト・ロシアと手を組めるという。反英主義と同時にソ連への信頼感を持つあたり、同時代、日本の大川周明が『復興亜細亜の諸問題』で示したのと同じ主張だという本書の指摘が興味深い。

 彼らは言語改革を目指してチャガタイ協会を設立。かつてティムールの時代、チャガタイ=トルコ語がこの地域で文語として用いられていたことに由来する。科学や教育に適した正書法や文字改革を行なったほか、トルコ語文語にあったアラビア語やペルシア語の語彙を締め出してトルコ語の純化を図った点で言語ナショナリズムの側面もうかがえる。文語として用いられていたペルシア語とかつてのブハラの旧体制とを同一視する発想もあったらしい。いずれにせよ、“チャガタイ”というシンボルの活用によってブハラのトルコ人=“ウズベク”国民創出を目指した活動と見ることができる。

 青年ブハラ人は赤軍と手を組み、反ソビエトの抵抗運動(バスマチ)を押さえ込もうとする。ブハラも“革命”によりソビエト連邦に組み込まれていくが、「これは革命なのか、それとも征服されたのか」という戸惑いがあった。また、民族的境界画定により五共和国が成立したが、この際、タジク共和国の領土が不当に狭められた。もともとトルコ系のウズベクもペルシア系のタジクも、それぞれ話し言葉は違うにせよ、歴史的に文化や生活習慣を共有しており、互いに排他的な意識はなかった。しかし、領土紛争をきっかけとした反ウズベク意識をもとにタジク人意識が高められたという。

 汎イスラム主義、汎トルコ主義、そしてウズベク国民意識──フィトラトはどこに軸足を置いていたのか、本書を通読しただけではなかなか把握しづらいのだが、それだけ近代化へ向けて人々を動員するシンボル・イデオロギーの綱渡りのような難しさがあったと言えるのだろうか。

 1938年、スターリンによる大粛清の嵐が吹き荒れる中、フィトラトもまた“反革命罪”に問われて処刑された。

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2008年7月22日 (火)

大庭柯公『露国及び露人研究』

 通りすがりの古本屋に立ち寄り、棚を見たら大庭柯公『露国及び露人研究』(中公文庫、1984年)と古島一雄『一老政治家の回想』(中公文庫、1975年)の二冊が何となく目に入り、何となく買ってしまった。両方とも、品切れもしくは絶版。

 大庭柯公──本名は景秋、柯公は号。続けて読むと、おおばかこう→大馬鹿公。いや、ウソじゃないって。ちなみにロシア通つながりで言うと、柯公も付き合いのあった二葉亭四迷、本名・長谷川辰之助も、文学をやりたいと言って父親から怒鳴られ、「お前みたいなヤクザな奴は、くたばってしまえ!」→ふたばってしめえ→二葉亭四迷。これは結構有名な話です。明治生まれの知識人はなかなか洒落の分かる人(?)が多くて好きですね。

 二葉亭もそうだけど、柯公にしても、国権主義的な気分からスパイになりたいという政治性と同時に、未知の世界へ飛び出したいという冒険心との両方からロシアへの関心が芽生えたようだ。ただし、二人とも軍人にはなれず、文筆へ。柯公の場合には徐々にリベラルな方へ傾いていき、吉野作造や福田徳三らの黎明会に加入したり、1920年、日本社会主義同盟設立の発起人名簿にも名前が見える。柯公は国権主義的な前半生と社会主義的な後半生とで知友のタイプが全く違うから、中途半端な自分が柯公全集の序文を引き受けた、と言うのは長谷川如是閑翁。

 さて、『露国及び露人研究』。ジャーナリストとしてあちこちの媒体に書いた文章を集めている。一つ一つはエッセー風に軽妙な筆致だが、政治・経済・国際情勢から歴史・地誌・文化・生活習慣まであらゆる角度からロシアを眺めつくしており、いわば地域研究のハシリという趣がある。反ユダヤ主義がちょっと気になるものの、ロシアへの愛着はよく感じられるし、同時に、ポーランドの独立運動にも同情を示すなど割合とバランスはとれている。シベリア・中央アジア・コーカサスの旅行記としても興味深い。

 1921年、柯公は読売新聞社を退職してロシアへ渡る。ちょうど日本のシベリア出兵でキナ臭い空気が漂っていた頃だ。本書の最後に収録されている極東共和国についてのチタ発レポートを最後に彼は消息を絶った。柯公自身の思惑はともかく、ソ連側は日本人に対して猜疑心を働かせており、彼は逮捕されてしまったのだ。その後の行方は不明だが、シベリアで処刑されたともいわれている。本書に収録されている「杜翁と露国革命」ではトルストイの理想はレーニンによって実行されていると書いていただけに、柯公がロシアに求めていた夢と身を以て直面した現実とのギャップが痛々しい。その後も、岡田嘉子と一緒にソ連へ行った杉本良吉とか、あるいは医学者の国崎定洞(加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994年)とか、社会主義に何らかの理想を求めてソ連へ行った日本人が消息を絶ってしまう事件が続くことになる。

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2008年7月21日 (月)

Blaine Kaltman, Under the Heel of the Dragon: Islam, Racism, Crime, and the Uighur in China

Blaine Kaltman, Under the Heel of the Dragon: Islam, Racism, Crime, and the Uighur in China, Ohio University Press, 2007

 中国においてマイノリティーたるウイグル人は漢人社会への同化圧力についてどのように感じているのだろうか? 本書のタイトルには、龍=漢人によってウイグル人が踏みつけにされているという意味合いがある。ウイグル人・漢人、それぞれ100名前後ずつ、計200名強への面接調査をもとに両者の相互イメージの懸隔を明らかにしようとした社会学的なモノグラフである。調査地点はウルムチ(ウイグル人34名、漢人41名)・北京(ウイグル人25名、漢人33名)・上海(ウイグル人26名、漢人26名)・深圳(ウイグル人7名、漢人25名)。都市部へ流入したウイグル人の就職環境や犯罪等の摩擦についての考察が中心となっている。

 巻末にある各質問項目に対する回答の集計表を眺めると、北京在住のウイグル人は他地域のウイグル人とは違って、漢人の回答に近い傾向が明瞭に表われているのが目を引く。北京に住むエリート、さらに二代目・三代目となったウイグル人は言語面でも生活習慣面でも漢人とうまく付き合っているので中国社会に対する不満が少ない。

 逆に言えば、言語面での不利が他地域のウイグル人に様々な障壁をもたらしていることが浮き彫りになってくる。標準中国語が流暢でなければ敢えてウイグル人を雇用しようという漢人は少ない。新疆ウイグル自治区以外に住むウイグル人の職業は食料品関係にほとんど集中している。もの珍しさのせいかウイグル料理を好んで食べる漢人は多いので、ウイグル料理関係の食材店や食堂は何とか職業として成り立つらしい。ちなみに、ウイグル人は中華料理を食べたがらない。戒律上の禁忌に触れるものがあるからだろう。北京在住である程度まで漢人社会に同化したウイグル人でも「中華料理は好きですか?」という質問にYesと答えた人の割合は低い。

 漢人はウイグル人に対して、獰猛・非理性的・不潔・粗野・開発に無関心といったイメージを持つ傾向がある。ウイグル人は標準中国語を学ぶ努力をしない、怠惰である、それはイスラームのせいだと決め付ける回答も漢人には多い。そうした漢人からの人種偏見的な眼差しにウイグル人も敏感で、自分たちの民族性やイスラームが見下されているとひそかに不満をもらしている。敢えて漢人との接触を求めようとはせず、分離して暮らす傾向が強まってしまう。

 ウイグル人の犯す窃盗、麻薬など非合法品販売といった犯罪について、「漢人にだって貧しい人はいる、ウイグル人の犯罪が目立つのは、貧しいからではなく、彼らの社会がおかしいからだ」という漢人社会学者のコメントが紹介されていた。これは極端だとしても犯罪と結びつけるイメージでウイグル人を見ている漢人は多いようだ。ウイグル人による犯罪は主に漢人相手のケースが多いという。それは、漢人の方が金持ちだからという理由の他に、漢人から抑圧されていることへの怒りの表現だと語るウイグル人のコメントもあった。

 本書は、社会的流動性=機会均等による地位上昇のサイクルにうまくのることができず希望の持てない状況は犯罪に走りやすいという社会学理論(文化的目標と制度的手段との乖離→アノミー→犯罪・非行等の逸脱行動、というロバート・マートン「社会構造とアノミー」の理論を援用している)に理由の一つを求めつつ、さらに加えて、中国社会全体に行き渡ったウイグル人への人種偏見に対する反発という側面があることを指摘する。

 現実問題として考えるとウイグル人の社会的地位上昇を図るには、標準中国語学習の機会均等を保障することが必要条件となる。しかしながら、中国政府としては少数民族にもきちんと配慮しているという姿勢を対外的にアピールするため(ウイグル人のためではなく)、ウイグル語教育を維持せねばならない。そして何よりも、中国語に重きを置いた教育システムはウイグル人としての民族的アイデンティティーを消し去ってしまうリスクと隣りあわせである。言語面での不利をそのままにして漢人社会への同化圧力が強まっている状況により、ウイグル人は社会的底辺に追いやられている、すなわちunder the heel of the dragon=“龍によって踏みにじられる”結果をもたらしていることが本書から窺える。

 著者は標準中国語に堪能ではあるがウイグル語は苦手らしいこと、インタビュイーの選定にどの程度の信頼性があるのか私には検証する術がないことなど気にかかるところはあるにしても、中国社会内部からの声を汲み上げている点では貴重であろう。

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2008年7月20日 (日)

内藤正典『ヨーロッパとイスラーム──共生は可能か』

内藤正典『ヨーロッパとイスラーム──共生は可能か』(岩波新書、2004年)

 ドイツ・オランダ・フランスそれぞれの社会におけるムスリム移民の状況の考察を通して本書はイスラーム的規範と西洋文明的規範との考え方のズレを浮き彫りにする。

 ドイツの社会習慣を理解してビジネスを成功させてもドイツ人にはなれないと述懐するトルコ人実業家が紹介されている。移民はいつまでたってもガストアルバイター扱いで、同じ社会の一員とみなす発想は希薄だという。疎外感からムスリムとしての覚醒をする動きが現れる。衛星放送のパラボラアンテナが林立しているのを見て、母国トルコとの距離は近づいたものの、トルコ系移民とドイツ社会との心理的・文化的距離は逆に遠くなってしまったという指摘が印象に残った。去年、ベネディクト・アンダーソンの講演を聴きに行った折、彼が示した“ポータブル・ナショナリズム”というキーワードを思い出した(→こちらの記事を参照のこと)。

 ドイツでは政治への参加資格として国家への帰属を求めるのに対し、もともと商業国家として成立してきたオランダの場合、納税を重視する。スペイン・ハプスブルク家によるカトリック押し付け政策に対して独立戦争を戦ったという歴史的経緯があるためなのか、文化的多元主義をとり、宗教面でも列柱的共存が図られている。それは他者の権利を認めるが、同時に相手への無関心をも意味する。男女関係の乱れ、伝統的家族像の崩壊、麻薬に寛容な社会風潮などへの違和感から、保守的なムスリムとキリスト教政党が道徳感情のレベルで近いというのが興味深い。

 フランスでの政治参加の要件はフランス語である。また、周知の通り、フランスは国家と宗教とを厳格に分離する世俗主義(ライシテ、laïcité)を徹底させている(その背景については、工藤庸子『宗教vs.国家──フランス〈政教分離〉と市民の誕生』講談社現代新書、2007年、を参照のこと)。それは公的領域と私的領域とを分け、宗教はあくまでも個人の心の問題として認められ、パブリックな場面では一切表に出してはいけないとされる。しかし、イスラームには聖俗分離という発想そのものがない。つまり、内面において信仰心を持つだけでなく、教えに定められた行為を日々の生活の中で実践し、その積み重ねがあってはじめてムスリムといえる。この点で摩擦が起こってしまう。社会的同化を求める右派がイスラームに不寛容なのは理解しやすいにしても、リベラリズムに立脚する左派もまた、イスラームは人権抑圧的・反民主的・女性蔑視的として批判的なのは難しい問題だ。フランスの世俗主義・啓蒙主義の“普遍性”に疑問を向けることすらしない点を本書は批判する。また、これはキリスト教とイスラームとの対立というよりも、キリスト教と決別した世俗主義とイスラームとの衝突として把握する視点に関心を持った。

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桜井啓子『日本のムスリム社会』

桜井啓子『日本のムスリム社会』(ちくま新書、2003年)

 日本在留のムスリム人口については特に統計があるわけではなく正確な数字は分からないが、イスラーム諸国会議機構加盟国出身者数を参考に考えると4万人強くらいになるという。インドネシア出身者のパーセンテージがダントツで高い(日本のODA最大供与国として様々な関係があるから)。

 パキスタンやバングラデシュ政府は失業対策・外貨獲得の出稼ぎを積極的に奨励している。渡航費用がかなりかかることを考えると、彼らは貧困層ではなく、都市出身者・中卒以上の学歴を有している者が多い。イラン人は、イラン・イラク戦争終結後に増加しており、戦争で荒廃した祖国に職が乏しいという理由の他に、厳格な宗教支配を抜け出し自由を求めてやって来た人々が多く、その点でムスリムとしてよりもイラン人意識が強いという。いずれにしても、相対的に学歴の高い人々が多いにもかかわらず、日本では3K的な仕事しかできないため、複雑な思いを抱えているようだ。

 ムスリムにはいわゆる五行(信仰告白、礼拝、断食、巡礼、喜捨)をはじめ食習慣や女性ならヴェールの着用といった様々な戒律があるが、非イスラーム的環境の中でそうした戒律を守り続けるのはなかなか難しい。例えば、勤務時間中に仕事を中断して礼拝するのは気がひけるし、断食による集中力低下について職場の理解が得られない。食生活面では、お店で買ったり外食するものがハラール(戒律上食べてもいいもの)なのかハラーム(禁忌)なのかの判断が難しい。豚肉がダメというだけでなく他の肉でも調理方法が決まっているし、例えば焼き菓子を買ったとして獣脂やアルコール成分が含まれている可能性がある。厳格に守るのは難しく、個人ごとの判断である程度妥協しながら食生活を送っているとのこと。やはり自炊が多くなるらしい。礼拝のため、資金を出し合って手づくりしたモスクの写真が色々と紹介されているが、その努力にはやはり感心する。

 定住者が死んだとして、お墓が確保できない。火葬は地獄の業火を連想させるため絶対にダメで(身元不明のイラン人を自治体が火葬してしまって、イラン政府から厳重抗議を受けたことがあるらしい)、土葬でなければならないからだ。

 日本人とムスリムとの結婚にも色々な問題がある。イスラームでは男性が重婚することが認められており、日本人女性の方でその点を理解していないとトラブルになる可能性がある。また女性の方でイスラームに改宗する必要がある。イスラームへの改宗は、二人のムスリム男性を証人として信仰告白、つまり「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはその使徒なり」という定型句を唱えればその時点で成立する。ただし、それはあくまでも出発点に過ぎず、日々の戒律を守り続けてはじめてムスリムとなるわけで、結婚後にようやく改宗の重大さに気付くケースもあるようだ。

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2008年7月19日 (土)

リチャード・セネット『不安な経済/漂流する個人──新しい資本主義の労働・消費文化』

リチャード・セネット(森田典正訳)『不安な経済/漂流する個人──新しい資本主義の労働・消費文化』(大月書店、2008年)

 人は、何らかの形で意味的一貫性の中に自分自身を位置づけることで、たとえば仕事上のストレスにも耐え、納得して物事に処していくことができる。そこには、他者にとって重要な貢献をしているという自己確認的な側面があるだろうし、あるいは、その仕事そのものに自分を超えた価値を認めること、本書で言う職人技=クラフトマンシップも重要である。「“正しい”や“正確な”という語が、うまくなされたという意味になるためには、みずからの欲望を超えた、また、他者からの報酬に影響されない客観的標準が共有されていなければならない。何も手に入らずとも、何ごとかを正しくおこなうことが真の職人精神なのである。私欲を超えたこうしたコミットメントほど──私はそう信じるのだが──人々を感情的に高揚させるものはない。それがなければ、人間は生存するための闘争だけに終始することになるだろう」(本書、198ページ)。

 マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で分析されている欲望充足の先送りによる禁欲的な労働倫理と官僚制モデルで示されたヒエラルキー構造、この二つの要素で特徴づけられた“鉄の檻”──これをソリッド=堅固な近代とするなら、現在進行形の社会状況をジグムント・バウマンはリキッド・モダニティ(液状的な近代)と呼んだ(バウマン『リキッド・モダニティ』大月書店、2001年)。檻から解放されたのは必ずしも悪いことではないかもしれない。しかし、刻々と変化する状況に対応した“柔軟な”組織構造の中で、人は職業的なアイデンティティーを見失い、ある種の不安や強迫観念に駆られていく、そこに本書の問題意識がある。

 最先端の“柔軟な”組織では“職人技”は必要とされない。ある課題を目的として時間をかけた人材育成は無用と考えられ(いわゆる“即戦力”志向の問題点については、玄田有史『働く過剰』(NTT出版、2005年)を参照のこと)、課題ごとに入れ代わるパートナーの誰とでも器用に協調しながらその場その場で問題解決をしていくヒューマン・スキルが重視される(協調性というヒューマン・スキル、感情労働の問題については、たとえば渋谷望『魂の労働──ネオリベラリズムの権力論』(青土社、2003年)を参照のこと)。変化しつつある状況にとにかく合わせることが最優先、その場しのぎの自転車操業的なワークスタイルが主流となり、一つ一つの仕事を丁寧に完成させていく“職人技”はかえって邪魔者扱いされてしまう。こうした状況の中、実現の難しさにためらいつつもそれでも本書は“職人技”の復権に期待をかける。方向性としては、“専門性”教育という具体的提言をしている本田由紀『多元化する「能力」と日本社会──ハイパーメリトクラシー化のなかで』(NTT出版、2005年)の問題意識とつながってくるだろう。ただし、こうした問題は、状況認識はできても、具体的な処方箋となると難しいのが悩みどころだ。

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2008年7月17日 (木)

吉川卓郎『イスラーム政治と国民国家──エジプト・ヨルダンにおけるムスリム同胞団の戦略』

吉川卓郎『イスラーム政治と国民国家──エジプト・ヨルダンにおけるムスリム同胞団の戦略』(ナカニシヤ出版、2007年)

 第一次世界大戦後、民族自決を求める世界的動向の中で、エジプトは1922年に独立、民族主義的なワフド党が政権の座についたものの、イギリスの圧力に翻弄されていた。近代主義的なワフド党に対し、イスラームの理念に基づいて反植民地主義的思想を主張したハサン・アル=バンナーがムスリム同胞団を設立、その後、各地に支部が設けられて中東各国に広がった。以上、マイナーな話と思うかもしれませんが、一応、受験世界史レベルの知識です。

 本書はエジプト・ヨルダンそれぞれにおけるムスリム同胞団が、①選挙等においてどのような政治過程をたどったか、②湾岸戦争に際してどのような反応を示したか、以上の比較分析を通してイスラーム主義運動の一側面を明らかにしようとする。その際、イスラーム主義運動を、文化的・伝統拘束的な前近代性として考えるのではなく、むしろ近代化の産物として把握するアプローチをとる。

 エジプトのムスリム同胞団は政府から公認されず弾圧されてきたものの、無所属という形で多くの国会議員を当選させている。それは第一に社会奉仕活動の実績が人々から評価されているということもあるが、第二に、政権側がさらに過激な勢力へ人々の支持が集まらないよう代替的な受け皿とみなしているという背景もある。他方、ヨルダンのムスリム同胞団は当初より王家と親しい関係を築いてきたが、政治上の野心はない。エジプト・ヨルダン双方のムスリム同胞団とも、倫理・教育・福祉分野には熱心であっても、外交や経済など国家的方針については漠然とした理念しか示せないことも指摘されている。

 湾岸戦争に際してのエジプト・ムスリム同胞団の論説が分析されているが、イスラーム的な理念をはいでしまえば、基本的に世俗的左派とあまり変わらない主張であったという。ヨルダン・ムスリム同胞団の場合、イスラーム主義は本来、イラク・バース党のアラブ社会主義とは相容れないにもかかわらず、ヨルダン国内の親イラク世論に合わせる形でフセイン大統領支持の方向で主張を変えている。

 イスラーム主義といえば、宗教至上的な主張によって近代化による不満を抱いた人々の支持を集め、国境を越えて広がる性質があり、その先駆的存在がムスリム同胞団だという印象を私などは持っていた。ところが本書におけるムスリム同胞団の分析によると、①国境で区切られた政治領域内での合法性を求める傾向があり、その意味で国際性よりも地域性が強いこと、②そうした政治環境に適応していく現実性・柔軟性も持っている、その意味で宗教至上性だけで彼らの運動を理解するわけにはいかないこと、以上の点が示されているのが興味深い。

 もちろん、本書はあくまでも事例分析で、これだけでイスラーム主義運動の一般的性格をつかめるとは言えない。しかし、この思想運動の多様性を大雑把に断定してしまう傾向も見受けられる中、一面的なイメージ理解をしてしまうのではなく、個別に見ていくなら視点の切り替えが必要なことを痛感させられた。

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2008年7月14日 (月)

奥野信太郎『中国文学十二話』

奥野信太郎『中国文学十二話』(NHKブックス、1968年)

 学生の頃に読んで以来、久方ぶりに手に取った。何だかなつかしい。もともとラジオ講座での語りをまとめたという経緯もあるが、随筆の名手として知られた奥野だけに、軽妙洒脱な語り口にたちまち引き込まれる。学説史的にゴテゴテ修飾した類いの概説書ではなく、中国文学の面白さ、文章の美しさ、そのあくまでも奥野自身の味わい方を流れるように語りつくすところが魅力的だ。刊行から四十年も経つが、今読んでも色褪せないと思う。

 詩経・楚辞から四大奇書・紅楼夢のあたりまでを語る。司馬遷の史記を評して、たとえば項羽を取り上げ、栄華の極みから転落に至る様を描き出す筆致はサディズムの文学だと言うのがちょっと面白い。六朝時代、遊仙思想がはやったが、不老長寿で現世を味わいつくしたいという願望を秘めている点で、有限の中に無限を求める老荘思想とは違うこと。唐代小説は“短編小説”なんて言われるが、確かに分量としては短いけれども、内容的には長編小説に発展できるだけのいわば筋書きと考えるべきこと。『聊斎志異』は怪異の世界と人間の現実世界とが二重写しになっており、その交錯するところに魅力があること。勘所のおさえ方に興味が尽きない。

 『南柯太守伝』とか『聊斎志異』とか出てくるたびに、小学生の頃、こういった中国伝奇小説を読みやすく日本語訳された本が好きで繰り返し図書館で借りて読んでいたのを思い出した。本の体裁は漠然と思い出せるのだが、どこから出ていた本だったか。もう一度読んでみたいな。

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毛里和子『周縁からの中国──民族問題と国家』

毛里和子『周縁からの中国──民族問題と国家』(東京大学出版会、1998年)

 もともと中華民国は領土不可分のナショナリズムをスローガンとしていた。中国共産党は一時期、ソ連の民族政策の影響を受けたこと、抗日戦争で少数民族の協力を取り付ける必要があったことなどから連邦制の構想も持っていたようだが、中華人民共和国の成立後は“区域自治”を基本方針とし、各民族の分離権を容認しかねない連邦制は否定した。自治権を認めつつも、領域的政治統合が目指された。

 現代中国には漢民族以外に五十五の少数民族がいるとされるが、国家主導の“民族識別工作”を通してこれらの少数民族が認知されてきた経緯を紹介、民族は上から作られたとする論点に興味を持った。民族平等が基本原則だが、モンゴル・ウイグル・チベットなど独自の文化・歴史を持つ民族も数千人レベルのエスニック・グループも、漢民族ではないという点で同列に扱われることになり、その意味では個別の事情は無視されている。“民族識別工作”で大きな役割を果した文化人類学者の費孝通は、非漢民族を民族として認知した上で、その上位概念として多元一体の有機体である“中華民族”を想定していたという。

 中国政府はモンゴル・新疆・チベットの民族運動の分離傾向が国際政治における圧力カードとして使われることを警戒している。ただし、一言で民族問題といっても事情は様々だ。反右派闘争、大躍進政策、そして文化大革命など中央での政治路線の変化に各民族は常に翻弄されてきたし、中央主導の政治・経済統合によって引き起こされた文化上・生活習慣上の摩擦は現在でも大きな社会問題となっている。宗教上の問題、新疆での反核の訴え、政治的権利・人権の問題など、様々な不満がくすぶっている。こうした不満から生じる異議申し立てを、それがたとえ独立運動ではなくても、“民族分離主義”という一律のレッテル貼りをして政治弾圧を加えている側面がある。

 香港が一国二制度となり、さらに台湾、チベット、新疆の事情を踏まえ、天安門事件で亡命した政治学者・厳家其が示した、外交と軍事だけは中央が握り後は広範な自治を認めるというゆるやかな国家連合的連邦制のアイデアが紹介されている。現段階では極めて難しいにしても興味深い。

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2008年7月13日 (日)

森まり子『シオニズムとアラブ──ジャボティンスキーとイスラエル右派 一八八○~二○○五年』

森まり子『シオニズムとアラブ──ジャボティンスキーとイスラエル右派 一八八○~二○○五年』(講談社選書メチエ、2008年)

 十九世紀の末、ユダヤ人の民族的郷土の確保を目指してテオドール・ヘルツルの立ち上げたシオニズム運動には労働運動との結びつきも強かった。これを本書の主人公ジャボティンスキーは、シオニズムの究極目標であるユダヤ人国家の至上性を曖昧にしてしまうと批判。主流派であった社会主義シオニズムとは違うという意味で彼の立場は修正主義と呼ばれた。どのような社会にするかというイデオロギー的“混合物”が入ってしまうのを警戒し、何よりもまず“国家”という枠組みの形成を最優先させようという意図が彼にはあった。

 パレスチナという土地をめぐりシオニズム運動とパレスチナ・アラブ人との衝突が不可避である以上、軍事的手段を使わざるを得ない。アラブ人との共存を拒否するわけではない。ただし、彼らとの対決を通して、ユダヤ人の存在を認めさせた上で、あくまでもユダヤ人国家内部におけるマイノリティーとして彼らアラブ人の市民的権利を保障するというのがジャボティンスキーの考え方であった。こうした彼の思想が、その後のベギン、シャミル、シャロン、ネタニヤフなどリクードの右派政治家たちにどのように継承され、どこに違いがあるのかを本書は検討していく。

 ジャボティンスキーには少なくとも理念的には理性や交渉に基づく“開かれたナショナリズム”を求めようとしていた形跡もあったらしく、それが民族の至上性や対アラブ問題の武力的解決という強硬論と彼自身の中にあっては危ういバランスをとっていたという。しかし、彼の修正主義シオニズムがベギンたちへ継承されるにあたり、強硬論への単純化が避けられなかった。社会主義シオニズム運動には入植活動の道義性への葛藤があったが、それとは対照的にベギンの単純思考には、アラブ人との人間的な接触の欠如という問題があったとも指摘される。

 イスラエルのともすると過剰とも言える強硬な鎮圧活動を見るにつけ、私などは常々首肯しがたいものを感じている。そうしたイスラエル国家自身の内在的ロジックを把握できるという点で本書は有益である。

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藤原帰一『戦争を記憶する──広島・ホロコーストと現在』

藤原帰一『戦争を記憶する──広島・ホロコーストと現在』(講談社現代新書、2001年)

 去年の夏、広島で原爆にまつわる場所を歩いて回った(→「広島に行ってきた」①の記事を参照のこと)。たまたま出会った大学生から原爆についての意識調査のアンケートに協力して欲しいと頼まれた。最後に憲法改正の問題、憲法第九条の問題についての質問項目が設けられていたので、戸惑った。余計なことだったかもしれないが、不自然だと指摘した。原爆の問題と一般論としての平和の問題が結びつくのは当たり前でどうしてそこに疑問を持つのか?と言いたげな彼の不思議そうな表情が印象に残っている。

 本書ではまず、広島の平和記念資料館とワシントンのホロコースト博物館とが比較される。このような惨禍を絶対に繰り返してはいけないという趣旨では両方とも共通するが、その位置づけ方は対照的だ。広島は戦後日本社会において、どんな理由があっても戦争はいけないという絶対平和主義のシンボルとなった。他方、ホロコースト博物館のメッセージは、民族絶滅という絶対悪を目の当たりにしたとき、我々は傍観してはならず、立ち上がって戦わねばならない、ということになる。また周知のように、日本との戦争を終わらせるためには原爆投下も正当化できるというスミソニアン博物館問題で露わとなった歴史観もアメリカには根強くある。

 戦争観はそれぞれの国の置かれた歴史的コンテクストに応じて違ってくる。戦後日本社会においてはしばらくの間、戦争一般を否定する絶対平和主義が行き渡り、安全保障政策や国際貢献をめぐる論争の対立軸となった。他方、ホロコーストを目の当たりにした欧米の場合、そうした絶対悪の抑止・制裁のためにこそ武力行使も必要だという議論が左翼・右翼を問わず成り立つ。たとえば、ハーバーマスがコソボ問題をめぐってユーゴ空爆を支持したことは知られているし、アメリカのリベラル左派・人権派の中には国益目的ではなくあくまでも人道目的からイラク戦争を支持した人々=“リベラル・ホーク”がいた(→マイケル・イグナティエフ『軽い帝国』の記事を参照のこと)。

 国益追求のための戦争は国家主権に含まれる、従って政治手段として肯定されるという立場を国際政治学ではリアリズムと呼ぶ。これに対して、戦争を絶対悪とみなす立場は二つあると本書は整理している。一つが反戦思想。戦後日本の進歩派のように、戦争自体が絶対悪なのだから手段としても認められないという立場。もう一つが正戦思想。侵略戦争やジェノサイドのような絶対悪を防ぐためには武力行使もやむなしという立場(例えば、邦訳が刊行されたばかりのマイケル・ウォルツァー『戦争を論ずる──正戦のモラル・リアリティ』風行社、2008年、を参照のこと)。

 戦争をめぐる記憶が「国民の歴史」として語られ、「われわれ」意識=国民意識の形成につながっていくことについての本書の分析も興味深い。

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2008年7月11日 (金)

ポール・A・コーエン『知の帝国主義──オリエンタリズムと中国像』

ポール・A・コーエン(佐藤慎一訳)『知の帝国主義──オリエンタリズムと中国像』(平凡社、1988年)

 我々は自身の生まれ育った社会的・文化的環境の中でものの考え方をつくり上げてきたわけで、その是非はともかく、何らかの形での思考上のバイアスは避けられない。学問的探求という客観性の装いの下、学者自身が自明のものとして疑わない枠組みを通して対象を把握しようとしたとき、彼と相手との間に一定の政治的関係性がある場合、その認識という営み自体が、バイアスによって両者の関係性を固定化させてしまい、その意味で権力的な作用を帯びてしまう。西洋対東洋という枠組みにおいて、西洋の優越性を基準に東洋イメージが作り上げられてしまった状況を批判的に検討したエドワード・サイード『オリエンタリズム』は有名だが、本書はその中国バージョンと言える。

 本書はアメリカにおける中国近現代史研究の大きな流れをレビュー、その中に西洋中心的な視座が根深くあることをあぶりだす。具体的には次の通り。中国社会は停滞しており、外圧がなければ変化はあり得なかったとする「西洋の衝撃‐中国の反応」アプローチ。西洋的近代を基準として中国社会の進歩の度合いを測ろうとする「伝統‐近代」アプローチ。ヴェトナム戦争によるアメリカの自信喪失によって以上二つの史観は揺らいだ。しかし、かわって登場した「帝国主義」アプローチにしても、西洋自身の抱える問題点を批判する姿勢を示した点で前二者とは異なるが、価値的な判断を逆転させただけで、見取り図そのものは変わらない。

 本書は結論として中国自身に即したアプローチを説く。本書が刊行されてから20年以上の年月が経っており、ここで論じられているテーマは何らかの形で学問研究に携わっている人ならばすでに常識になっているはずだ。

 ただし、自身のものの見方にどのようなバイアスがかかっているのか、それを見極めるのはなかなかもって難しい。バイアス、とは言っても、何らかの問題意識がないと対象を把握しようという切実な動機がわかないわけだし、その問題意識に駆り立てられているという状態自体が一定のバイアスを醸し出している。視点の枠組みがなければ、意味連関のない“事実”がゴロゴロ転がっているだけで、逆に歴史を把握することができなくなる。自分の頭にあるバイアスを常に自覚し、それを崩すような刺激を投げかけながら“史実”に向き合っていく、その不断のインタラクションを繰り返すしかないのだろうな。まあ、当たり前のことなんだけど。

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2008年7月10日 (木)

王柯『多民族国家 中国』

王柯『多民族国家 中国』(岩波新書、2005年)

 本書から読み取れる論点は次の通りだろうか。

①“中華文化”においては先天的な身体特徴ではなく、後天的な文化様式をもとに人間共同体を考える。“礼”の獲得もしくは喪失によって文明と野蛮の転換もあり得る、つまり夷狄であっても“華”になれるというダイナミズムにこそ、“中華文化”が周囲の異民族を次々と引き込んできた魅力がある。従って、現在もウイグルやチベットなど一部の例外を除けば、ほとんどの少数民族は敢えて独立しようという気持ちはない。

②西洋列強が清を脅かす19世紀後半から、主に漢人の革命派の間に“一民族一国家”という国民国家(nation state)の観念が入ってきた。満洲人という異民族によって漢人が支配されていることの不当性を攻撃、中国=漢民族の国という漢民族ナショナリズムが盛り上がった。ただし、辛亥革命によって中華民国が成立すると、多民族状況という現実を目の前にして中華国家=漢民族単一民族国家という考え方は通用しない。そこで、五族協和(漢・満・蒙・回・蔵)というスローガンが打ち出される。それでも、これは五族の合意があった上での話である。モンゴル・ウイグル・チベットの独立を求める動きを受けて、中華民国という枠組みが崩れるのを恐れた孫文は“中華民族”への融合を主張。事実上、“中華民族”=漢民族であり、他民族の同化を意味してしまう。こうしたかつての中華民国の漢民族単一民族国家志向に対し、中華人民共和国は少数民族の存在にも配慮している。

③新疆に対する帝政ロシア・ソ連の干渉、チベットに対するイギリス・アメリカの支援など、歴史的に少数民族の独立運動が大国政治の中で利用され中国分断の危機にさらされてきた経緯があり、国際的な圧力のカードとして使われかねないという懸念を現在でも中国は抱いている。

 中国の民族問題においては、少数民族と漢民族との格差をなくすことが課題であり、ウイグルにしてもチベットにしても経済水準がめざましく向上したので一般的には独立運動は支持されていないと本書は言う。しかし、言論の自由が保障されていない中国社会にあって果たして額面通りに受け止められるだろうか。また、経済開発を進めるにしても、ビジネスツールとして漢語が圧倒的であること、少数民族居住地域への漢族の移住者が増加していることなどを考え合わせると、実質的には同化政策で民族問題の解決を図っているのではないか、少数民族保護といっても所詮建前に過ぎないのではないか、そうした疑いは消えない。東トルキスタン独立運動やチベット問題についても政治弾圧を肯定するスタンスになっているのが気にかかる。

 第一に中国の民族問題について一つの視点からであっても概観できること、第二に漢民族側の内在的なロジックが整理されていること、以上の点では本書は有益である。

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2008年7月 7日 (月)

「ぐるりのこと。」

「ぐるりのこと。」

 何となく一緒になって子供ができ、結婚したカナオ(リリー・フランキー)と翔子(木村多江)の二人。頼りなさそうで収入の不安定なカナオに対し、翔子の家族が向ける視線は厳しい。美大の先輩の口利きでカナオは法廷画家の仕事を始める。何とか生活も軌道に乗りそうな矢先、生まれた子供がすぐに死んでしまった。生真面目な性格の翔子は自分を責め、精神を病んでしまう。

 木村多江のやつれた表情がどこかなまめかしくも美しい。リリー・フランキーは役作りというよりも、下ネタがさり気なく出てくるところも含めて本人そのままの自然な感じ。カナオには、何とかしなきゃ!というようなこわばった力みかえりはない。あきらめというのではなく、ただそっと見守り、受け入れていくしかないし、それが自分の役目だと達観しているかのようだ。そうしたやさしい脱力感がリリー・フランキーの飄々とした雰囲気にうまくかみ合っている。なかなか良いと思う。

 法廷画家という仕事の場面で、1990年代を騒がせた様々な事件が出てくる。裁判シーンそのものにはあまり意味はない。いわば時代を刻む時計とでも言おうか、それだけ二人の過ごしてきた時間の厚みを感じさせてくれる。

 橋口監督自身の鬱病体験が反映されているらしい。なお、梨木香歩のエッセー集『ぐるりのこと』とは関係ない。

【データ】
監督・脚本:橋口亮輔
出演:木村多江、リリー・フランキー、寺島進、倍賞美津子、柄本明、寺田農、他
2008年/140分
(2008年7月6日、渋谷、シネマライズにて)

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2008年7月 6日 (日)

平野聡『大清帝国と中華の混迷』

平野聡『興亡の世界史17 大清帝国と中華の混迷』(講談社、2007年)

 私などにしてもそうだが、中国史を通観しようとするとき、殷周から現代に至るまでを一本の直線として把握してしまうような教科書的な理解が癖となってしまっている。だが、現在、大雑把に“中国”と言われている範囲にはチベット、モンゴル、ウイグルなど漢民族文明とは異質な民族も含み込まれている。それは清代の版図を中華民国が継承したと主張しているからだが、両者の性格の違いを無視してこの主張を額面通りに受け入れてしまうことには問題がある。

 “華夷の別”にナーバスにこだわる儒学的統治原理において、いわゆる“中華”と“夷狄”とを同じ範囲に括ってしまうことなど本来あり得ないことだった。ただし、満洲人という“夷狄”による支配が既成事実化した清朝において状況は変わってくる。清は一方では科挙官僚を採用し、その意味で儒学的な統治原理を自らの支配を正当化するのに利用している。他方で清の皇帝は、チベット人やモンゴル人に対してはチベット仏教の保護者として、トルコ系ムスリムに対してはイスラム教の保護者としての顔を見せた。

 例えば、朝鮮の朝貢使節として北京に来訪した朴趾源が乾隆帝からチベット仏教のパンチェン・ラマに拝礼せよと言われて憤慨したエピソードが本書で紹介されている。朱子学的原理主義の立場から内心では清への軽侮の気持ちを秘め、チベットなど夷狄に過ぎないと軽蔑する朴たちの思惑と、「礼の方法は〈教〉の違いによって複数ある」という多元性を許容する乾隆帝の発想との食い違いがうかがえる。

 見方を変えれば、清の版図において漢人、チベット人、モンゴル人、ウイグル人等々が並立し、その上に皇帝が立つという多元的な帝国モデルとして整理できるのかもしれない。この点では、同時代のハプスブルク帝国(→「ハプスブルク帝国について」の記事を参照のこと)やオスマン帝国との比較の可能性すら感じさせる。

 19世紀、高まる外圧の中でこうした清の多元性は大きく変容していく。“中華”文明の恩恵に浴した国々が儒学的な礼に則って朝貢関係を求め、“中華”を頂点として一定のヒエラルキーを形成するのが従来の東アジアにおける国際関係だった。しかし、西洋列強の出現、もともと朝貢関係の希薄だった日本の近代化により、主権国家の対等を基本原理とする近代国際法のロジックが東アジアに持ち込まれた。それは当然ながら儒学的な国際秩序のロジックと真っ向からぶつかる。具体的には、日本による台湾出兵→琉球処分、清仏戦争の敗北によるヴェトナムへの宗主権の喪失といった事態が相次ぎ、清自身が近代国際法による秩序へ適応することが迫られた。

 こうした中、曾国藩の息子で外交官として活躍した曾紀沢の議論が本書で紹介されている。清は当初、朝鮮・琉球など儒学的ロジックによって朝貢する国に対しては礼部が対応し、儒学的ロジックにはよらないモンゴル・チベット・新疆など藩部については理藩院が管轄して大臣を派遣していた。いずれも基本的には自主的な政治運営を認めていた点では変わらない。しかし、清を真ん中に置いて同心円状に広がる東アジア独特な国際システムにおいて、どこまでが独立国でどこまでが属国なのかという判断基準は曖昧だったし、そもそもそうした画然とした線引きをしようという発想自体がなかった。自主的な政治運営=近代的主権国家という西洋列強や日本からのロジックを無制限に受け入れてしまうと、清は瓦解してしまう。そこで、朝貢国に関しては各自の主権を認めるのはやむを得ないにしても、北京から大臣を派遣している藩部に関しては清の主権を主張して版図として維持していこう。こうした考え方によって、清は近代的領域主権国家へと転換する。

 イギリスはすでに清をChinaと呼んで外交交渉を行なっていた。間もなく大清帝国は崩壊するが、このようにして用意されたロジックを中華民国は踏襲する。そして、チベット・モンゴル・ウイグルも含めて“中国”の不可分な一部だというナショナリズムの旗印の下、近代的主権国家=国民国家として対内的な同質化が図られることになる。

 これは中華人民共和国になって大義名分は“社会主義”と変わっても基本的な路線は変わらず、同質化政策に残忍な暴力をも伴っていることは周知の通りである。

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「西の魔女が死んだ」

「西の魔女が死んだ」

 学校でいじめられ、不登校になってしまったマイ(高橋真悠)はおばあちゃんの家に預けられることになった。おばあちゃん(サチ・パーカー)はイギリス人。山の中の洋風の家はなかなか味わいのあるたたずまい。

 おばあちゃんは魔女だと聞いたマイは、自分も魔女になりたいと言う。「それには基礎訓練が必要ですよ、マイ。自分で決めたことを最後までやり遂げること。取りあえず、毎日のスケジュールを決めなさい。紙に書いて壁にはっておきましょう。」魔女の“見習い”修行が始まる。一つ一つが手づくりの生活がマイには新鮮で、表情に明るさが戻ってきた。

 おしゃべりな郵便屋さんの愚痴に耳を傾ける。隣に住むがさつなケンジさんがマイは大嫌いだったけど、ただ不器用なだけで悪意はなかったことを知る。そして何よりも、おばあちゃんの暖かく包み込んでくれる表情は本当に見ていてホッとする。ストーリーに取り立てて起伏があるわけではないが、一つ一つの触れ合いからマイが心を開いていく様子を見ていると、心地よい暖かさが胸にジンワリと広がってくる。

 私が梨木香歩さんの作品を読むようになったのはそう古いことではない。『家守綺譚』(新潮文庫、2006年)や『村田エフェンディ滞土録』(角川文庫、2007年)がきっかけで、それから『西の魔女が死んだ』(新潮文庫、2001年)も手に取った。ジャンルとしては児童文学とされるようだけど、大人になっても十分に気持ちを入れ込んでいける。と言うか、“児童文学”という括り方自体、意味ないし。

【データ】
監督:長崎俊一
原作:梨木香歩
出演:サチ・パーカー、高橋真悠、りょう、大森南朋、木村祐一、高橋克実
2008年/115分
(2008年7月5日、シネスイッチ銀座にて)

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2008年7月 5日 (土)

坂本勉『トルコ民族の世界史』

坂本勉『トルコ民族の世界史』(慶應義塾大学出版会、2006年)

 読み始めたら、なぜかデジャヴュ感にとらわれた。何のことはない、十年前に出た『トルコ民族主義』(講談社現代新書、1996年)の改訂版。改訂された割には文献情報のアップデイトが不十分なのが気にかかるところだが…。学生のとき、東洋史概説という科目で坂本先生のトルコ民族史の講義は聴いていたので、二重の意味でデジャヴュ。まあ、復習、復習。遊牧民族としてモンゴル高原から西へと進み、イスラームやペルシア文化を受容したり行く先々をトルコ化したりという大きなダイナミズムを現代まで概観、バランスのとれた入門書として読みやすい。

 読み返しながら改めて関心を持ったのは、言語と民族的帰属意識の関わり方について。トルコ系言語の広がりとそれぞれの地域の政治事情との絡み合いには“ナショナリズム”の問題を考える上で示唆される多くの問題が伏在している。

 言語的共通性に基づく民族意識というのは近代の産物である(フランス革命後、一国家・一民族・一言語という同質的な国民国家を創ろうという動きとしてのナショナリズムが始まったことについては田中克彦『ことばと国家』(岩波新書、1981年)に詳しい)。近代以前においては、ムスリムとしての宗教的帰属意識や地縁的・文化的親近性の方が強く、言語的相違にはそれほど重きは置かれていなかった。アゼルバイジャンのトルコ系の人々は、他のトルコ系民族よりも、同じシーア派を奉ずるペルシア文化の方に親近感があった。中央アジアのペルシア系タジク人は周囲のトルコ系の人々と言語は異なっても文化的な一体感を持っていた。

 自分たちの母語を自由に話せないという抑圧感を抱いたとき、言語改革と政治改革の要求が結びつく。トルコ系の人々が自分たちの言語を見直し、それを基に民族意識を形成しようとし始めたのは19世紀後半になってからである。ロシアのクリミア・タタール出身でジャディードと呼ばれる教育改革運動をおこしたガスプラル(ガスプリンスキー)は共通トルコ語の普及を目指した。それは、帝政ロシア支配下にあってトルコ系の人々の一体感を醸成し、抵抗の原理としていくことが含意されていた。

 中央アジアのトルキスタン・ナショナリズムの動向はソビエト体制になってからも危険視され、結局、1924年、五共和国(トルコ系のカザフ、キルギス、ウズベク、トルクメン、ペルシア系のタジク)に分割されることになった。同じトルコ系の言語であっても共和国ごとに別々の正書法が定められ、本来は方言的な差異に過ぎなかったものが公定言語としての違いを際立たせられることになり、それが別々の国家的な帰属意識につながった経緯については田中克彦『言語からみた民族と国家』(岩波現代文庫、2001年)が論じていたように記憶している。国家ごとに帰属意識が細分化されてしまうと、同じトルコ系であっても国境紛争が頻発する。

 他方、トルコ人自身が支配者であったオスマン帝国の場合はどうか。近代的なナショナリズムの動向はバルカン半島にも波及して独立運動が活発化、瓦解の危機に直面した帝国は宗教的な平等を保障すると言ってキリスト教徒をつなぎとめようとした(オスマン主義)が、失敗。次にアラブ人の独立運動が活発化すると同じムスリムとしての一体感を強調した(イスラーム主義)が、第一次世界大戦の敗北により、これも失敗。パン=トルコ主義がくすぶるものの、アナトリア半島に狭められた領土における一国民族主義(アナトリア=ナショナリズム)に落ち着く。

 アナトリア=ナショナリズムは別の問題を引き起こしている。クルド人問題である。トルコ政府はEU加盟をにらんで欧米からの人権問題に関する眼差しを気にかけているものの、クルド人は“山岳トルコ人”と呼ばれてその言語的・文化的独自性すら公的に認知されてこなかった。ここにも、一国家・一民族・一言語という近代的ナショナリズムのゆがんだ側面が見て取れる。

 言語と政治的帰属意識の結びつき方は多様である。その時々の政治的関係性の中で、母語→国家を求める、というベクトルがあると同時に、国家意識→母語を規定する、という方向へ進むベクトルも機能し得る。また、ナショナリズムは常に両義的である。抑圧されている人々にとって言語的一体感→同胞意識を鼓舞することは抵抗の原理として大きな意味を持つ。他方、いったん国家という枠組みが成立してその内部で言語的な均質性が追求され始めると、今度はマイノリティーが抑圧される。一般論のあり得ない難しさに頭を抱えてしまう。

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あっ、スティーヴ・ライヒだ…。

 金曜日の夜遅く、少々きこしめして帰宅。着替えながらテレビをつけたら、聞き覚えのあるメロディーが流れてきた。慌ててテレビに近寄ったら、ちょうど演奏が終わり、大きな拍手。帽子をかぶったおっさんがクローズアップ。あっ、スティーヴ・ライヒだ…。今年の5月に来日し、彼自身も参加して「十八人の音楽家のための音楽」を演奏したらしい。私の大好きな曲だ。知っていたら万難を排してでも聴きに行ったのになあ。

 番組が切り替わり、今度はストリング・クヮルテット・アルコの演奏でライヒ作曲「ディファレント・トレインズ」。これも好きな曲だ。以前、タワーレコードで視聴、出だしを聴いた途端、その格好良さにはまってしまった。確か、“教授”(由来は知りませんが、坂本龍一のことです)ご推薦!というポップがあったように記憶している。小刻みに激しい弦楽の反復リズムの上にブオーッとを耳をつんざくような汽笛の音。ところどころでナレーションが入る。後の方になると、弦楽のリズムが遅くなったり速くなったりする中、空襲警報を思わせる不穏なサイレンの音が重なる。

 CDで聴いている分には単に格好良いと思うだけだった。テレビ放映では演奏者の周囲に映像ディスプレイを置くなど演出に工夫を凝らしており、曲の持つ意味合いが視覚的に目に入ってくる。曲に合わせてディスプレイに字幕が流れる。「ドイツ人がやってきました。」「家畜列車につめこまれました。」「ポーランド語の地名でした。」汽車の行き着いた先には「Arbeit macht frei(労働は自由にする)」のゲート…。

 ある時期からライヒはユダヤ人という自らのルーツを探り始め、例えばヘブライ語をテクストとした「テヒリーム」という曲も作っている。作風はミニマリズムだけど、耳慣れぬ言葉と独特の歌い方に不思議な感じがした。

 ユダヤ人問題と言えば、シェーンベルク「ワルシャワの生き残り」という曲も印象に強い。ワルシャワのゲットー蜂起を題材としている。シュプレッヒシュティンメという歌とも語りともつかぬ独特のナレーション。その語りの緊張感が徐々に高まり、最後、悶えるようなうめき声を受け、「聞け、イスラエル人よ」と男声合唱がしめくくる。基本的に英語で、ドイツ人士官の発言部分だけ粗野なドイツ語が使われている。シェーンベルクは当時アメリカに亡命していたものの、ユダヤ系ドイツ人として馴染んだ母語はドイツ語である。しかし、ホロコーストを受けて、ドイツ語は一切使わなくなった。この曲の構成にも、自分の母語なのに、それを憎まねばならないという複雑な思いが反映されている。

 グレツキ「交響曲第三番 悲歌のシンフォニー」はクラシックとしては異例のベストセラーとなったという。第2楽章のテクストはドイツの強制収容所に入れられた少女が壁に書き残した言葉。全3楽章、オーケストラのゆったりと、しかし切ないメロディーに合わせてソプラノ独唱。胸にジンワリとしみこんでくるように美しい。気分が高ぶっている時には本当に涙腺がゆるみそうになる。

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2008年7月 2日 (水)

ジョシュア・A・フォーゲル『内藤湖南 ポリティックスとシノロジー』

ジョシュア・A・フォーゲル(井上裕正訳)『内藤湖南 ポリティックスとシノロジー』(平凡社、1989年)

 明治以来、日本の近代化における葛藤は欧化と土着という対立軸に大きな焦点を見ることができる。国粋主義、なんていうと現代の我々は強面の危なっかしい右翼を思い浮かべてしまうが、三宅雪嶺、陸羯南、志賀重昂たちの拠った政教社ナショナリズムはその容貌をだいぶ異にする。近代化の必要を認めつつも欧化によって日本の独自性が失われてしまうことへの危機感で彼らは共通するが、だからと言ってそれは排外主義を意味しない。

 人間にしても国柄にしても、それぞれに個性がある。個性の違う者同士が互いに交わり、切磋琢磨することではじめて世の中は進歩する。欧化という形で日本の個性を平板化してしまうのではなく、むしろ日本独自の持ち味を活かして広く世界に貢献していこう。そうした意味で日本の独自性を普遍性の中で位置づけようとする視野の広さが彼らにはあった。同時代人、内村鑑三の墓碑銘となった「私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、かくしてすべては神のために」という言葉は有名だが、ここにも政教社と同様、明治期の健全なナショナリズムの息吹がうかがえる。

 若き日、ジャーナリストとして出発した内藤湖南は三宅雪嶺『真善美日本人』執筆に関わっている。ここで言う“真”とは、「東洋の新事理を探求」、具体的にはアジア大陸へ日本が学術探検隊を派遣すること(当時はヘディン、スタイン、ルコック、ぺリオ、コズロフなどヨーロッパ各国の探検隊が活躍していた)。“善”とは西欧列強の東洋に対する圧迫に毅然として立ち向かうこと。“美”とは日本固有の美意識を世界に向けて発信すること。現代の視点からすれば、その程度のことか、と肩透かしをくらう感じがしないでもないが、世界の中での日本の役割という問題意識が常に彼らにはあったことに留意しておく必要がある。

 本書は内藤湖南をパブリシストと捉える。彼はジャーナリストとしても学者としても、政争から身を引いた立場から政治批判・提言をしていくという姿勢で一貫していた。そして、漢学者の家に生まれた湖南にとって、終生のテーマとなったのが中国であった。

 湖南は京都帝国大学東洋史講座の創始者の一人として後世の中国史研究に大きな影響を与えたが、その一つが時代区分としての「近世」を宋代に求めたことである。中国の「近世」において、中央レベルでは皇帝独裁政治が目につく。他方、地方レベルにおいては「郷団」という形で自治的な共同体が形成されていたとして、これを湖南は「平民主義」の台頭として把握した。皇帝独裁と平民主義という二面性が「近世」中国の特徴だが、辛亥革命によって皇帝独裁は消えた。残る「平民主義」に中国のこれからの共和政治のカギがあると湖南は考えた。

 中国独自の歴史的展開の中で中国自身にとっての改革構想を生み出さねばならないと考えていた点で、前述の意味での国粋主義的な考え方が見て取れるし、また、「郷団」の「平民主義」に着目して将来の共和政治に期待を寄せた点では、藩閥政治批判を展開した政教社と同じ気分もうかがえるかもしれない。同時に、辛亥革命以来の中国の混乱状況に彼は苛立ちを隠せなかった。共和主義的な改革の模範を示せるのは日本であり、そこにこそ日本の果たすべき役割があると湖南は主張するようになる。

 日本と中国は文化を共有した切っても切れぬ密接な関係にあると確信していた湖南にとって、五・四運動以降の排日運動は全く理解しがたいものだった。日本による積極的な内政干渉を主張して中国のナショナリズムの動向に無理解であった点で、彼の態度は中国側からすれば“帝国主義”的と批判されても仕方のない側面があったようにも思われる。ただ同時に、満州事変以降日本国内で高まる軍部への無批判な礼賛からは一線を画す立場を取っていた。本書は湖南の論説を膨大かつ詳細に読み解いているが、彼の議論の振幅からは様々な戸惑いがあったであろうこともうかがえる。

 湖南の学問も政治的論説も、中国自身の改革への期待が大きな動機として作用していた。それは日本の国益追求とは次元が全く違うという意味で、善意ではある。しかし、彼の意図がそのまま通用するとは限らない複雑な政治状況の中にあって、ナイーブな善意は違う意味を持つことになってしまう。良い悪いと単純に割り切ってしまわず、彼の問題意識の内在的な流れを汲み取ろうと努めている点で、本書を興味深く読んだ。

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