ここ最近、ウイグルのことについて少しずつ勉強中。取りあえず、途中経過メモ。
大雑把な歴史を知るには、取りあえず今谷明『中国の火薬庫──新疆ウイグル自治区の近代史』(集英社、2000年)が入手しやすい。今谷明と言えば日本中世史の大家として知られているけど、『ビザンツ歴史紀行』(書籍工房早山、2006年)なんて本も出している。守備範囲の広い人だ。井上靖の小説やシルクロードへのロマンが昂じて書いちゃったとのこと。私自身、動機は同じです。近世から東トルキスタン共和国まで既存研究のダイジェストで、内容的には整理されていると思う。しかし、結論的にムスリム反乱の主役はあくまでも東干(回族)であってウイグル人は中央政府にとって脅威ではなかった、東干が決起しない限り新疆独立はないだろう、と言うのはいかがなものでしょうか。武装蜂起ばかりが独立運動でもあるまいし。あるいは、『新版世界各国史4・中央ユーラシア史』(小松久男編、山川出版社、2000年)の東トルキスタンの節(濱田正美稿)を拾い読みしても歴史的な流れは簡潔に過不足なく把握できる。
新疆・ウイグルについて多面的に知りたい場合は、『アジア遊学』No.1「特集 越境する新疆・ウイグル(新免康・編)」(勉誠出版、1992年2月)と『アジ研ワールド・トレンド』第112号「特集 ウイグル人の現在─中国と中央アジアの間で」(2005年1月、日本貿易振興機構アジア経済研究所研究支援部)の2冊が取っ掛かりとして便利そうだ。いずれも新疆での滞在体験を踏まえた論考やエッセイが集められている。
まず、『アジア遊学』No.1「特集 越境する新疆・ウイグル」。堀直「新疆がどうして中国になったのか─近現代の経済史から」。18世紀、乾隆帝時代に清朝の版図に組み込まれ“新疆”と呼ばれるようになったことから、清朝の弱体化、漢人流入禁令の形骸化、ムスリム反乱、ヤークーブ・ベグ政権を左宗棠が制圧→新疆省設置(1884年)、イリ条約(1881年)→ロシアとの国境画定といったプロセスを紹介、中国“固有の領土”として内地化が進められて行く経緯を解説。
大石真一郎「ウイグルの近代─ジャディード運動の高揚と挫折」。従来のイスラム的教育の他、1884年以降は“中国化”教育政策が進められ、さらにキリスト教の宣教師も入り込んでくる中、ウイグルの人々の間に危機感が芽生えていた。当時の新疆はロシアとの交易が盛んになっていたため、ロシア籍のタタール人やウズベク人を通して“ジャディード”という近代化を目指した教育改革運動が新疆でも始まる(ジャディードについては、坂本勉『トルコ民族の世界史』の記事、小松久男『革命の中央アジア』の記事を参照のこと)。オスマン帝国の「統一と進歩委員会」(青年トルコ)もアフメト・ケマルという人物を新疆に派遣していた。1930年代の新疆ムスリム反乱の背景の一つとしてこうした動きから培われた民族主義や近代化志向の意識もあったことは新免康「新疆ムスリム反乱(1931~34年)と秘密組織」(『史学雑誌』99-12、1990年12月)で指摘されている。
藤山正二郎「ウイグル語の危機─アイデンティティの政治学」は近代ウイグル語の成立過程について、リズワン・アブリミティ「模索するウイグル人─新疆における民族教育の状況」、それから同「新疆におけるウイグル人の民族学校」(『アジ研究ワールド・トレンド』)は民族教育の問題を取り上げ、やはりウイグル語教育と漢語教育の両立の危うい難しさが焦点となる。民族学校でのウイグル語教育はウイグル人としてのアイデンティティや文化的伝統を維持していく上で欠かせない。しかし、政策的な漢語同化政策ばかりでなく、中国社会にも市場競争原理が浸透しつつある中、就職を考えるとやはり漢語ができないと不利、そうした動機からウイグル人でも漢語学校に入るケースが増えているという。言語的不利→社会的ステータス上昇困難の不満についてはBlaine Kaltman, Under the Heel of the Dragon: Islam, Racism, Crime, and the Uighur in China(Ohio University Press, 2007)(→記事参照)で取り上げられていた。
真田安「バザール・混沌の奥にある社会システムを求めて」はバザールの光景とその魅力を語りつつ、バザールにおける商品経済の仕組みを解説。経済関係では章瑩「新疆における国境貿易」という論文もある。
菅原純「創出される「ウイグル民族文化」─「ウイグル古典文学」の復興と墓廟の「発見」」や鈴木健太郎「ウイグル音楽の歴史書『楽師伝』と民族的英雄アマンニサハンの誕生」は、少々強引とも思えるような論拠に基づいて民族的英雄を創り上げていくプロセスを検討、そこからウイグル人の民族文化振興の意志や焦燥感を読み取る。新免康「聖なる空間を訪ねて─新疆ウイグル社会における墓廟(マザール)」はウイグル民族文化の一翼を担うものとしての宗教的空間について解説。マリア・サキム「新疆における伝統的生薬文化」は民間医療について。
王建新「ウイグル人のイスラム信仰」は日常生活に根付く宗教習慣について。イスラムには徳と義務との相殺という考え方があり、たとえば若い頃、共産党員として宗教的義務を果せなかったので、引退してから敬虔な宗教生活を送るという人が紹介されていて興味深い。宗教的規範と共産党政権下における公的・世俗的規範との矛盾を何とかやりくりしようという工夫がうかがえる。ウイグル人はイスラム教スンニ派だが、その中にも垣間見えるシャーマニズムについては王建新「新疆ウイグルのシャーマニズム─イスラムの現代に生きる民俗信仰」(『アジア遊学』No.58、2003年12月)が紹介している。
次に、『アジ研ワールド・トレンド』第112号「特集 ウイグル人の現在─中国と中央アジアの間で」。新免康「ウイグル人の歴史と現在」は概況を解説。なお、かつて東トルキスタン在住トルコ系の人々の帰属意識は各オアシスに対するもの、もしくはムスリムとしての自覚が強かったが、“ウイグル”という名称による民族区分が明確になったのは20世紀に入ってからのこと。
岡奈津子「カザフスタンのウイグル人」。上海協力機構は加盟各国それぞれ内部に抱える“過激派”押さえ込みの同盟という側面があるが、ウイグル人からすれば国境を越えた自分たちのネットワークを押さえ込もうとしていると受け止められている。カザフスタンではウイグル人に対して“テロリスト”という偏見も持たれているらしい。カザフスタン在住ウイグル人組織として、武装解放路線を唱える強硬派からウイグル人の権利向上を目指す穏健な文化活動まであることを紹介、前者はごく少数、後者が圧倒的多数である。
菅原純「ウイグル人と大日本帝国」は1944年刊行の『中央アジア・トルコ語』を皮切りに日本とウイグルとの意外な関係を発掘している。盛世才政権に反対して亡命したマフムード・ムヒーティたち一行は日本に亡命(この中にいたムハンマド・イミン・イスラーミーはアブデュルレシト・イブラヒムの死後、代々木のモスクのイマームとなったそうだ。なお、イブラヒムについては『ジャポンヤ』の記事を参照のこと)。ただし、彼らに対して日本政府は素っ気なかったという。結局、北京、さらにフフホトに追いやられ、ここで彼らは満鉄調査部の竹内義典の支援を受けた。また、アフガニスタンに亡命していたムハンマド・イミン・ブグラ(『東トルキスタン史』の著者)は在カブール日本領事館に頻繁に出入りしていたそうだ。
他に、前掲のリズワン・アブリミティ「新疆におけるウイグル人の民族学校」、堀直「ウイグルの古都ヤルカンド」、菅原純「翻弄された文字文化─現代ウイグル語の黄昏」、藤山正二郎「儀礼的世界のウイグル女性」などの論考がある。
取りあえず、今回はここまで。
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