ジョシュア・A・フォーゲル『内藤湖南 ポリティックスとシノロジー』
ジョシュア・A・フォーゲル(井上裕正訳)『内藤湖南 ポリティックスとシノロジー』(平凡社、1989年)
明治以来、日本の近代化における葛藤は欧化と土着という対立軸に大きな焦点を見ることができる。国粋主義、なんていうと現代の我々は強面の危なっかしい右翼を思い浮かべてしまうが、三宅雪嶺、陸羯南、志賀重昂たちの拠った政教社ナショナリズムはその容貌をだいぶ異にする。近代化の必要を認めつつも欧化によって日本の独自性が失われてしまうことへの危機感で彼らは共通するが、だからと言ってそれは排外主義を意味しない。
人間にしても国柄にしても、それぞれに個性がある。個性の違う者同士が互いに交わり、切磋琢磨することではじめて世の中は進歩する。欧化という形で日本の個性を平板化してしまうのではなく、むしろ日本独自の持ち味を活かして広く世界に貢献していこう。そうした意味で日本の独自性を普遍性の中で位置づけようとする視野の広さが彼らにはあった。同時代人、内村鑑三の墓碑銘となった「私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、かくしてすべては神のために」という言葉は有名だが、ここにも政教社と同様、明治期の健全なナショナリズムの息吹がうかがえる。
若き日、ジャーナリストとして出発した内藤湖南は三宅雪嶺『真善美日本人』執筆に関わっている。ここで言う“真”とは、「東洋の新事理を探求」、具体的にはアジア大陸へ日本が学術探検隊を派遣すること(当時はヘディン、スタイン、ルコック、ぺリオ、コズロフなどヨーロッパ各国の探検隊が活躍していた)。“善”とは西欧列強の東洋に対する圧迫に毅然として立ち向かうこと。“美”とは日本固有の美意識を世界に向けて発信すること。現代の視点からすれば、その程度のことか、と肩透かしをくらう感じがしないでもないが、世界の中での日本の役割という問題意識が常に彼らにはあったことに留意しておく必要がある。
本書は内藤湖南をパブリシストと捉える。彼はジャーナリストとしても学者としても、政争から身を引いた立場から政治批判・提言をしていくという姿勢で一貫していた。そして、漢学者の家に生まれた湖南にとって、終生のテーマとなったのが中国であった。
湖南は京都帝国大学東洋史講座の創始者の一人として後世の中国史研究に大きな影響を与えたが、その一つが時代区分としての「近世」を宋代に求めたことである。中国の「近世」において、中央レベルでは皇帝独裁政治が目につく。他方、地方レベルにおいては「郷団」という形で自治的な共同体が形成されていたとして、これを湖南は「平民主義」の台頭として把握した。皇帝独裁と平民主義という二面性が「近世」中国の特徴だが、辛亥革命によって皇帝独裁は消えた。残る「平民主義」に中国のこれからの共和政治のカギがあると湖南は考えた。
中国独自の歴史的展開の中で中国自身にとっての改革構想を生み出さねばならないと考えていた点で、前述の意味での国粋主義的な考え方が見て取れるし、また、「郷団」の「平民主義」に着目して将来の共和政治に期待を寄せた点では、藩閥政治批判を展開した政教社と同じ気分もうかがえるかもしれない。同時に、辛亥革命以来の中国の混乱状況に彼は苛立ちを隠せなかった。共和主義的な改革の模範を示せるのは日本であり、そこにこそ日本の果たすべき役割があると湖南は主張するようになる。
日本と中国は文化を共有した切っても切れぬ密接な関係にあると確信していた湖南にとって、五・四運動以降の排日運動は全く理解しがたいものだった。日本による積極的な内政干渉を主張して中国のナショナリズムの動向に無理解であった点で、彼の態度は中国側からすれば“帝国主義”的と批判されても仕方のない側面があったようにも思われる。ただ同時に、満州事変以降日本国内で高まる軍部への無批判な礼賛からは一線を画す立場を取っていた。本書は湖南の論説を膨大かつ詳細に読み解いているが、彼の議論の振幅からは様々な戸惑いがあったであろうこともうかがえる。
湖南の学問も政治的論説も、中国自身の改革への期待が大きな動機として作用していた。それは日本の国益追求とは次元が全く違うという意味で、善意ではある。しかし、彼の意図がそのまま通用するとは限らない複雑な政治状況の中にあって、ナイーブな善意は違う意味を持つことになってしまう。良い悪いと単純に割り切ってしまわず、彼の問題意識の内在的な流れを汲み取ろうと努めている点で、本書を興味深く読んだ。
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