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2008年5月

2008年5月27日 (火)

「マンデラの名もなき看守」

「マンデラの名もなき看守」

 陸地から隔絶した監獄・ロベン島に赴任した看守のジェームズ・グレゴリー(ジョゼフ・ファインズ)。家計は貧しく、妻からは早く昇進するようせがまれている。赴任早々、特務機関の少佐から呼び出された。コーサ語ができるのを見込まれ、ネルソン・マンデラ(デニス・ヘイスバート)担当の検閲官に抜擢されたのだ。最初は他の白人と同様に強硬な人種差別主義者だったグレゴリーだが、マンデラの人柄に触れるうち、徐々に考え方が変わっていく。

 休暇に家族でケープタウンの街に行っても、物々しい警察車輌が走り回り、白人警官が黒人を警棒で容赦なく殴りつける有り様には、ほとんど戒厳令下と言ってもいいくらいにキナ臭い緊張感が漂っていた。アパルトヘイトも末期症状。マンデラを殺すことで南アフリカ全体が暴動の渦に巻き込まれてしまうのを恐れた政府は、彼の隔離・懐柔に腐心していた。

 グレゴリーの、白人社会の中で“クロびいき”となじられる孤独感、そして自分が特務機関に伝えた情報によってマンデラの息子が殺されてしまったのではないかという後悔。他方、何があっても動じないマンデラの毅然とした態度。二人の姿を抑え気味のタッチで描き出しており、それがかえって静かに胸をうつ。

 原題“Goodbye Bafana”のBafanaとは、グレゴリーがまだ差別意識を植え込まれていなかった幼い頃に一緒に遊んでいた黒人少年の名前。白人の大人たちが「黒人はみんなテロリスト」と当たり前のように言い放つ一方で、黒人が殴られるのを見たグレゴリーの娘が悲しそうにおびえる姿には、人種差別意識は刷り込みで構築されたものに過ぎないという主張が込められているのだろう。

 アパルトヘイト後の南アフリカは、これまで対立しあってきた人種間の憎悪をいかに和解させるかというテーマに直面している。この映画で描かれた二人の交流はそのうまくいったケースを示していると言えるが、実際にはプラス面でもマイナス面でも複雑な要因が絡まりあっているようだ(阿部利洋『真実委員会という選択──紛争後社会の再生のために』岩波書店、2008年を参照)。

 なお、些細なことだが、劇場で買ったプログラムに社民党の福島瑞穂が寄稿して、マンデラ及びANC(アフリカ民族会議)の気高さの例として核兵器を廃絶したことを挙げているが、事実関係の認識が間違っている。確かに南アフリカは一度核兵器を保有したにもかかわらず廃棄をした唯一の例であるが、それは白人政権の時代に実行された。アパルトヘイト政策による国際的孤立感、周辺黒人国家との紛争可能性に極端なまでに敏感になっていた南アフリカ政府は秘かに核兵器を開発・保有していたが、アパルトヘイト廃止が決定され(1991年)、黒人政権の誕生がほぼ間違いない情勢となっていた1993年に核兵器を廃棄した(マンデラの大統領当選は1994年)。理由は、ANCと関係のあったリビアなどへの核拡散の懸念があったこと、そしておそらくは黒人なんかに核は渡せないという人種差別的な感情。

【データ】
原題:Goodbye Bafana
監督:ビレ・アウグスト
2007年/フランス・ドイツ・ベルギー・イタリア・南アフリカ/117分
(2008年5月25日、シネカノン有楽町1丁目にて)

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2008年5月26日 (月)

Don Cheadle and John Prendergast, Not on Our Watch: The Mission to End Genocide in Darfur and Beyond

Don Cheadle and John Prendergast, Not on Our Watch: The Mission to End Genocide in Darfur and Beyond, New York: Hyperion, 2007

 スーダンのダルフール問題について日本語の手頃な本が見当たらなかったので本書を手に取った。タイトルは、我々の見えないところで起こっている出来事、という意味合いになるだろうか。映画「ホテル・ルワンダ」で主演を務めたのをきっかけにアフリカの問題に開眼した俳優ドン・チードルと人道問題で活動を続けるジョン・プレンダーガストの共著。スーダンをはじめアフリカの紛争についての解説、実際に難民キャンプを歩き、見て、話を聞いた写真つきのルポルタージュ、そして我々は何をすべきなのかという具体的な提言がまとめられている。ホロコーストを生き残ったノーベル賞作家エリ・ヴィーゼルや、現在、民主党の大統領候補になりそうな情勢のバラク・オバマなどが序文を寄せている。

 現在イスラム国家と宣言している国は世界に二つある。イランとスーダンである(ただし、前者はシーア派、後者はスンナ派)。スーダンはもともとイギリス・エジプトの共同統治という形をとっていたが、1956年に独立。それ以来、イスラム教徒が多い北部とキリスト教や精霊信仰の黒人が多い南部との対立が続く。1969年にヌメイリ将軍がクーデターをおこしたが、人気がなかった。国内的な支持を得るためにムスリム同砲団などイスラム過激派を政権内部に取り込み、とりわけイスラム法学者ハッサン・アル・トゥラービーが法務大臣となり、アラビア語公用語化、イスラム法の施行などイスラム化政策を進める。南部との武力紛争が泥沼化したため、いったん停戦合意がかわされたが、1989年に全国イスラム戦線(NIF)のバックアップを受けたバシール将軍が政権を奪取、イスラム化政策は継続中。一時期、オサマ・ビン=ラディンもスーダンにかくまわれていたが、アメリカの圧力を受けて追放、彼はアフガニスタンに逃れた。

 スーダン情勢をさらに複雑にしているのが、西部のダルフール紛争である。ダルフールとは、アラビア語でフール族の土地という意味。この地に住むフール族、ザガワ族、マサレイト族もムスリムだが、アラブ人ではない。北部と南部の対立はムスリム・非ムスリムの対立と言えるが、ダルフールでは同じムスリムでも、アラブ系が非アラブ系を虐殺するという構図を取っている。おそらく遊牧民なのだろうが、ジャンジャウィードというアラブ系民兵組織に政府は武器を供給、彼らは非アラブ系部族の村を焼き討ちし、レイプや殺戮を恣にしている。飢餓も戦略的な手段として使われ、数万人単位で殺され、また隣国チャドに難民として逃れている。

 具体的な提言としては、まず三つのPを挙げる。つまり、Protect→虐殺を止めさせるために軍事介入も含めたあらゆる手段を取ること。Punishment→虐殺の実行者を国際裁判にかけること。Promote Peace-keeping→平和な状態が維持されるよう促すこと。これらを実行できるのは国際社会、とりわけアメリカは主たる役割を果すパワーを持っているので、アメリカ政府を動かすために市民的な活動を展開するよう本書は呼びかける。具体的には、Raise Awareness→どんな問題が起こっているのかみんなに知ってもらう。Raise Funds→出来る範囲でお金を出し合う。Write a Letter→社会的に影響力のある人に手紙を書く。Call for Divestment→問題のある国と利害関係を持つ企業から投資を引き上げる。Join an Organization→NGOに加わる。Lobby the Government→政府に働きかける。

 北京オリンピックの聖火リレーでは中国政府に対する抗議のデモが世界各地で行われた。もちろんチベット問題が一番の理由だが、ヨーロッパではダルフール問題で中国に抗議する声も大きかった。スーダン政府が南部・西部に対して圧迫を強めている背景には石油利権を独占しようという意図がある。中国はその急速な経済発展につれて、資源確保のためアフリカ外交を積極的に展開しているが、それが結果としてアフリカ各国の独裁政権の延命に手を貸すことになっている(→ポール・コリアー『最底辺の10億人』の記事を参照のこと)。国連安全保障理事会でスーダンに対する制裁決議を通そうにも、中国が拒否権をちらつかせるので何も出来ないままだ。

 本書にはバラク・オバマが序文を寄せているほか、オバマ陣営の外交政策アドバイザーになったハーバード大学のサマンサ・パワー(ただし、ヒラリーを悪魔呼ばわりしたことが批判を受けて選挙スタッフからはずれた)についても本書ではたびたび言及される。もしオバマが大統領に当選したら、アメリカ政府がアフリカ問題に積極的に介入する可能性も出てきそうだ。

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2008年5月25日 (日)

「隠し砦の三悪人 The Last Princess」

「隠し砦の三悪人 The Last Princess」

 時は戦国の世、貪欲で無慈悲な山名家によって秋月家は滅ぼされた。侍たちは城内に隠されているはずの軍資金を探し回るが、瘴気を掘り当ててしまい、秋月城は大爆発。命からがら逃げ出した金鉱掘りの武蔵(松本潤)と石つぶての得意な新八(宮川大輔)は偶然に金を見つけるが、大柄な侍・六平太(阿部寛)に取り上げられてしまった。二人は分け前はやるから国境まで案内しろと命じられる。同行するのは七平太と名乗る若侍。実は、秋月家再興のため脱出を図る姫君・雪姫(長澤まさみ)の身をやつした姿であった。

 オリジナルは、黒澤明映画の中でも知名度はあまり高くないかもしれない。千秋実と藤原釜足のデコボコ・コンビが、「スター・ウォーズ」シリーズのR2D2とC3POのモデルになったことはよく知られている。この二人の飄々としたおかしみはなかなか良い味わいを出していたが、新版ではデコボコ・コンビの片方・武蔵と雪姫の間に淡い感情が芽生えるという展開になる。オリジナル版の雪姫を演じた上原美佐(この人、他の映画では見かけない)の毅然とした凛々しさが私には非常に印象深かったのだが、長澤まさみも悪くない。セットは大がかりで凝っているし、時代もの活劇としてなかなか面白かった。

 黒澤没後10年にあたるからか、黒澤映画のリメイクが続いている。織田裕二の主演で「椿三十郎」もリメイクされたが見そびれてしまった。去年はテレビで「天国と地獄」「生きる」もリメイクされた。その翌日だったか、会社でおばさん二人が「松本幸四郎はちょっと違うわよね。「生きる」で主演やってた人、あれ、誰だったかしら…?」と思い出せずに悶々としていたので、私がすかさず「志村喬じゃありませんか」と言うと、「どうしてあなたが知ってるのよ!? まだ生まれてなかったでしょ?」。まあ、確かにまだ生まれてませんでしたが、志村喬は好きな俳優だし、何よりも私があらゆる映画の中で一番好きなのは黒澤の「生きる」なのです。

【データ】
監督:樋口真嗣
オリジナル脚本:黒澤明・小國英雄・橋本忍・菊島隆三
脚色:中島かずき
出演:松本潤、長澤まさみ、阿部寛、宮川大輔、椎名桔平、國村隼、他
2008年/118分
(2008年5月24日、有楽町、日劇PLEXにて)

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2008年5月24日 (土)

ロバート・ゲスト『アフリカ 苦悩する大陸』

ロバート・ゲスト(伊藤真訳)『アフリカ 苦悩する大陸』(東洋経済新報社、2008年)

 アフリカの問題は日本にとって縁遠いせいか、学術的な文献はそれなりにあるにせよ、気軽に手に取れる本が意外と少ない。本書の著者はジャーナリスト。アフリカ各国を歩き回り、具体的なエピソードをふんだんに盛り込んだノンフィクションという形なので、現在のアフリカが抱える問題を知る上でとても読みやすい。

 色々な問題がある。たとえば、石油やダイヤモンド(いわゆる、ブラッド・ダイヤモンド)など天然資源の問題。政府軍も反乱軍もこの利権を狙う。いったん天然資源の利権を確保してしまえば、その金で兵士を養い、武器を買う。紛争が終わらない。

 また、エイズの問題。エイズに関する知識やコンドームの利用を普及させることが必要なのはもちろんだが、それは本質的な問題ではない。貧困にあえぐ中、生きてたってロクなことがないという捨て鉢な気持ちになってしまうと、刹那的な快楽に身を委ねようとするのを押しとどめる動機は働かない。

 あるいは、政治指導者の問題。現在、南アフリカではアフリカ民族会議(ANC)が政権を担当している。かつては反アパルトヘイト運動で全世界から称賛されてきたANCだが、アパルトヘイト廃止という目的が達せられ、いざ政権の座についてみると、今度は汚職や経済失政など統治体制のまずさに対してマスコミからバッシングを受ける。彼らは称賛されるのが当たり前と思っていたので、なぜ西側のマスコミは手のひらを返したような扱いをするのかと逆ギレしてしまう。白人の植民地主義を批判するアジテーション演説の得意な政治家がアフリカには多いが、それだけでは建設的な解決策は出てこない。

 事業を起こすにしても、投資するにしても、どんな手順を取ればこういう結果になるという一定の予測可能性が担保されていないと何の計画も立てられない。妙な独裁者が気まぐれで法律をちょいちょい捻じ曲げてしまうと、経済活動も停滞してしまう。登記制度によって所有権を確立させたり、取引を法的に保護したりという意外と基礎的な部分で法整備がなされていないことがアフリカ経済の大きな障碍となっている。あるいは、でこぼこ道や警察官への賄賂のせいで流通コストが膨大となり、結果として提供される商品の価格が上昇してしまうという問題も紹介されていた。

 逆に言えば、こうした問題を一つ一つクリアしていけば、将来の可能性も十分にあるということだ。たとえば、ウガンダでは、若年層への性教育をきっちりと行った結果、エイズ被害は減少傾向にあるという。制度的・人為的な問題が大きいのであれば、問題は山積しているにしても、悲観する必要はない。

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2008年5月19日 (月)

「ハンティング・パーティ」

「ハンティング・パーティ」

 2000年、内戦が一応終結(デイトン合意)してから5年が経つサラエボ。ニュース番組の収録で再訪したテレビ・カメラマンのダック(テレンス・ハワード)は、昔チームを組んでいた親友サイモン(リチャード・ギア)との再会に驚く。サイモンはかつて花形リポーターだったが、ボスニア紛争でのあまりに凄惨な光景を目の当たりにして頭がぶちギレてしまい、生放送のリポートで放送禁止用語を連発、解雇されていた過去がある。サイモンは言う、「とびっきりの特ダネがあるんだ、一緒にやらないか?」戦犯指名されているセルビア人指導者“フォックス”の居所が分かったのだという。コネ入社で頼りない新米プロデューサー(ジェシー・アイゼンバーグ)も加え、三人でセルビア人勢力支配地域へと車を走らせる。

 彼らが狙う最大の獲物、“フォックス”のモデルはラドヴァン・カラジッチである。彼は逮捕もされずいまだに逃亡中だ。国連も国際司法裁判所も、国家主権の枠組みに制約されて有効な強制力を持たない以上、残念ながらやむを得ない側面がある。スロボダン・ミロシェヴィッチはハーグの国際法廷で起訴されて公判中に病死したが、カラジッチと明暗を分けたのは政治力学的要因にかかっている。ミロシェヴィッチはその強権的な政治手法で墓穴を掘って失脚したが、それはセルビア民族主義の気運とはまた別問題であった。カラジッチを国連やCIAが取り逃がしたのは意図的だったとこの映画ではほのめかされる。サイモンたちの義憤は当然のことだ。しかしながら、他方で、もしカラジッチ逮捕を強行すれば、セルビア人勢力が態度を硬化させ、ガラス細工のようにもろい停戦合意があっという間に崩れたであろうことにも留意せねばならない。

 もう一つ気にかかったのは、セルビア人を悪玉とする善悪二元論的なトーンが色濃いことだ。この映画に登場するセルビア人は“フォックス”を熱烈に信奉する狂信者ばかりのように描かれている。ホロコーストを思わせるように、有刺鉄線の向こうにやせ細ったモスレム人収容者が立っている映像も映し出される。ところが、高木徹『戦争広告代理店』(→参照)が明らかにしているように、こうしたイメージはボスニア政府の依頼によって広告代理店が作り出したものであった。実際にはセルビア人だけではなく、モスレム人、クロアチア人も含め三つ巴になって殺戮をやり合っていた。当然ながら、セルビア人の中にだってこのような悲劇を繰り返したくないと願っている人は大勢いる。

 セルビア人=悪玉という単純な図式では、互いの憎悪が負のスパイラルに陥ってしまった複雑さが無視されてしまう。このような政治的話題をテーマとして映画をつくるとき、立場によって見方が異なり、善悪では単純に割り切れない様々な要因が複雑に絡まりあっている多面性をいかに織り込むか、そこに脚本の工夫が問われてくる。実話に基づいているのは興味深いが、料理の仕方がまずい。

【データ】
原題:The Hunting Party
監督・脚本:リチャード・シェパード
2007年/アメリカ/103分
(2008年5月18日、新宿武蔵野館にて)

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2008年5月13日 (火)

ポール・ルセサバギナ『An Ordinary Man』

Paul Rusesabagina, An Ordinary Man, Penguin Books, 2007

 先日、ロメオ・ダレールShake Hands with the Devil(→参照)を取り上げたが、引き続きルワンダもの。映画「ホテル・ルワンダ」(→参照)は本書の著者ポール・ルセサバギナの実際の体験に基づいて製作された(ただし、本書が執筆されたのは映画公開後しばらくしてからのこと)。顔つきは穏やかだがスレンダーな体型がいかにも機敏そうな名バイプレイヤー、ドン・チードルがルセサバギナ役として主演していた。

 ルセサバギナはもともと神父になるつもりだったらしいが、ひょんなきっかけからホテルマンとして働くようになった。大虐殺が起こったときには、ルワンダで一番の高級ホテルでマネージャーを務めていた。

 本書のタイトル、An Ordinary Man──ただの人、普通のごくありふれた人といった意味合いになるだろうか。「ホテル・ルワンダ」公開後、彼はいわば英雄扱いされるようになったが、かえって居心地が悪かったようだ。それは単に謙遜ということではない。ホテルのマネージャーの仕事は、好きな客だろうが嫌いな客だろうが関係なく、彼らに話しかけ、ホテルに滞在する限りは精一杯のおもてなしをすること。フツ族過激派の血にまみれた手から逃れたツチ族難民がホテルに押し寄せてきた。彼らもホテルの中に入った以上は大切なゲストであり、最大限の安全を図ることがマネージャーとしての責務となる。彼自身の妻がツチ族だという事情があるにせよ、それ以前の問題として、一人一人が自分の仕事の筋を通して自分の置かれた立場の中で最大限の努力をすること、英雄的かどうかではなく自分自身のごく当たり前な責任を果すこと、そうした積み重ねがなければ狂気を押しとどめることはできない。そこにこそ、An Ordinary Manというタイトルに込められたメッセージがある。

 彼は名門ホテルのマネージャーとしてルワンダ国内のVIPに顔が広い。過激派指導者の中にも知己はいる。過激派民兵がホテルをすっかり取り囲み、いつ突入されてもおかしくない状況の中、過激派指導者や警察にワイロを惜しまず、国連や全世界に電話を掛けまくって一日一日と時間稼ぎを続ける。使える手段はすべて使う。金、酒、何よりも言葉が彼の武器だ。

 隣人が殺戮者に変貌し、同じ学校に通っていたクラスメートが襲い掛かり、果ては夫が妻を手斧で切り刻んでしまう。そうした描写の凄惨な有り様は言うに及ばず、紛争が終わった後も社会全体に影を落とす記憶の闇は深刻だ。ルセサバギナは亡命先のベルギーで、かつてルワンダの自宅の近所に住んでいた男を見かけた。大虐殺の始まった夜、彼もまた戦闘服に身を包んでうろついていたのを目撃していた。その彼は、いまや異国の地でスーツを着こなしたビジネスマンとして談笑している。ルセサバギナはふさぎ込んで言葉も出なかった。ジェノサイドで手を下した者たちがルワンダの内外で平穏な生活を続けていること自体が、生き残った人々の心に言い知れぬ闇を深めている。

 ルセサバギナは現在、ベルギーでタクシーの運転手をしているという。反政府軍・ルワンダ愛国戦線(RPF)がフツ族過激派を敗走させ、首都キガリを制圧して大虐殺が終わってから2年後、彼は利権絡みの政治的陰謀で亡命せざるを得なくなってしまったのだ。RPFの指導者でツチ族出身のポール・カガメが大統領となったが、彼もまた強権的な独裁体制を敷いている。踊り手は代わっても、同じ音楽が流れ続けている──ルセサバギナの使うレトリックは優雅だが、ここに込められた基本的な問題は何も変わっていないという憤懣には一体どのように向き合えばいいのだろうか。

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2008年5月12日 (月)

ロメオ・ダレール、伊勢﨑賢治『戦禍なき時代を築く』

ロメオ・ダレール、伊勢﨑賢治『戦禍なき時代を築く』NHK出版、2007年

 ロメオ・ダレールはルワンダにおける平和維持軍司令官として大虐殺を目の当たりにし、その時の無力感と自責の念から平和構築の必要を訴える活動を続けている(→ロメオ・ダレール『悪魔との握手』の記事を参照のこと)。伊勢﨑賢治は東チモール、シエラレオネ、アフガニスタンでDDR(武装解除、動員解除、社会再統合)の指揮を取った経験を持つ(→伊勢﨑賢治『武装解除』の記事を参照のこと)。NHK・BSの番組での二人の対談(私は未見)をまとめた短い本だが、現場を踏んだ人たちならではの具体的な話は傾聴に値する。

 ルワンダのようにちっぽけな国には戦略的にも資源的にも見るべきものがないという判断基準で介入をためらうのは、そもそも人命の平等、“人権”という概念に反するというのがダレール将軍の考え方だ。国際社会には“保護する責任”がある。これは、内政不干渉の原則に基づき国家主権の不可侵性を尊重し合いながらパワーゲームを展開するという近代的な国際政治観を乗り越えようという方向に進む。20世紀初頭のオスマン帝国によるアルメニア人虐殺や、その後のナチスによるホロコーストをはじめ、国際社会がジェノサイドを目の当たりにしながらも国家主権という壁にぶつかって介入できないというもどかしさを抱いて以来、現在に至るも提起されつつある問題意識である(たとえば、Samantha Power, A Problem from Hell: America and the Age of Genocide, Harper Perennial, 2007を参照)。

 ダレール将軍は中堅国家(ミドル・パワー)の連携を提唱する。つまり、日本、カナダ、ドイツ、オランダ、北欧諸国、場合によってはインドといった国々が共同歩調を取って、超大国、とりわけアメリカに圧力をかけること。単なるアメリカ批判に意味はない。アメリカの力がなければできないことがたくさんある。しかし、そのアメリカのスーパーパワーが単独行動主義に突っ走らないように牽制し、軌道修正させること。

 “人間の安全保障”という概念がカギとなる。実は、日本でも小渕政権の時に外交課題の柱として大きく打ち出されていた(アマルティア・セン『人間の安全保障』集英社新書、2006年でも引用されている)。こうした方針は、リアリスティックな外交路線と決して矛盾するものではない(→添谷芳秀『日本の「ミドルパワー」外交』の記事を参照のこと)。

 ダレール将軍の著書Shake Hands with the Devilでは、国連憲章第6章に基づく停戦監視に任務を限定されたPKOでは対処できないほどに現在の紛争の性質が大きく変わりつつあるという問題意識が読み取れる。“保護する責任”においては、場合によっては軍事介入も必要となる。しかし、日本は現在でも、自衛隊は違憲か否かという不毛な神学論争に絡め取られて、現実に何が出来るのかという視点が抜け落ちていると伊勢﨑氏は批判する。

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2008年5月 7日 (水)

ロメオ・ダレール『悪魔との握手──ルワンダにおける人道の失敗』

Roméo Dallaire, Shake Hands with the Devil: The Failure of Humanity in Rwanda, New York: Carroll &Graf Publishers, 2005

 二年ほど前、「ホテル・ルワンダ」(→参照)という映画が日本でも公開されて話題となった。映画なのだから映像は作り物だと知りつつも、こんな大虐殺が現代でもあり得るということにやはり非常なショックを受けた。人道的介入というテーマに関心を持ったのもこの映画がきっかけだ。

 本書は、国連平和維持軍司令官として居合わせ、ルワンダにおけるジェノサイドをじかに目の当たりにしたロメオ・ダレールの手記である。映画でニック・ノルティ演ずるオリバー大佐のモデルとなった人物が彼だ。

 ベルギーはルワンダの植民地統治において、少数派のツチ族を使って多数派のフツ族を支配するという分割統治の手法を取った。両民族の憎悪はルワンダ独立後も尾を引き、とりわけフツ族出身のハビャリマナ大統領はツチ族を迫害したため、ツチ族やハビャリマナ体制に反対するフツ族穏健派はルワンダ愛国戦線(RPF)を結成、政府軍との内戦が続いていた。

 1993年、何とか停戦合意が成立し(アルシャ協定)、RPFも含めて暫定政権が発足した。停戦監視のため国連平和維持軍が派遣され、ダレールはこの時に赴任してきた。フツ族はフランス語を話す者が多く、他方、隣国ウガンダ(英語圏)での亡命生活が長いツチ族指導者には英語使用者が多いため、カナダ・ケベック州出身でバイリンガルの彼が選ばれたのである。

 停戦合意は極めて不安定なものであった。ハビャリマナの譲歩に不満を抱くフツ族強硬派は秘密裡に動き始め、その影響力は政府与党や国軍、民兵組織(インテラハムウェ)にまで広がり、“The Power”と呼ばれた。後にダレールは“The Power”の影の指導者と直接交渉することになる。会見時に彼らと握手したことがタイトルの由来である。

 1994年4月6日、大統領の乗ったジェット機が撃墜されたのを合図に彼らは一斉蜂起する。同年7月にRPFが首都キガリを制圧するまでの100日間で80万人のツチ族やフツ族穏健派が殺されたという。ラジオのDJの軽快な語り口に煽られて多数の一般人が殺戮に駆り立てられたことはよく知られている(このラジオ放送を電波妨害するプランも立てられたが、装備を持つアメリカは、①法的問題がクリアできない、②金がかかる、という理由で拒否したという)。

 本書は、1993年10月のダレールの着任から、一連の大虐殺を挟んで1994年8月に彼がルワンダを離任するまでをほぼ時系列にそって記述されていく。血の海に転がる死体の山、そのまえで手斧を置いて、一休みとばかりにタバコをふかしながら談笑する青年たちの姿。教会につめこまれた何百もの死体。道を通れば、そこかしこに死体、死体──。こうした凄惨なシーンばかりでなく、それをじかに目撃せざるを得なかったダレールたちの厳しい苦悩が行間から浮き上がってきて、読み手の胸倉をつかんで離さない。

 自分たちは平和維持軍としてやって来て、まさに目の前で大虐殺が繰り広げられているにもかかわらず、何もできなかった──。ルワンダでこの眼で見た光景、鼻についたにおい、そして何よりも自責の念が帰国後も脳裏から離れず、ダレールは自殺未遂までしている。PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断された。単なる証言という以上に、彼自身の後悔がたたきつけられているような、訴える力を強く持った本だ。

 実は、過激派が虐殺の準備をしているという密告が事前にあった。ダレールは彼らの武装解除に踏み込むため、その許可と装備の増強を国連本部に求めたが、すべて却下されてしまった。国連の対外活動には国連憲章第6章に基づく平和維持活動と、第7章に基づく国連軍とがある。平和維持活動はあくまでも中立的な停戦監視が目的で、戦闘行為は想定されていないため軽武装である。ルワンダ平和維持軍のメンバーであったベルギー軍は事態の悪化を受けて撤退してしまう。ルワンダには戦略的価値がないため、これ以上のリスクは冒せないというのが彼らの言い分だ。停戦監視は当事者の和平合意が大前提なので、引き留める法的根拠はない。ベルギー軍の保護を求めて集まっていた人々は、ベルギー軍の撤退直後に皆殺しにされた。アメリカ政府の役人は、コスト計算上、アメリカ兵一人を送るにはルワンダ人8万5千人の命が必要だと言い放つ。前年、ソマリアでの平和強制執行活動が失敗に終わったため(→参照)、アメリカも国連もルワンダへの介入に及び腰になっていた。

 そうした中、フランスが部隊を派遣してきたので問題はさらにややこしくなった。フランスはフツ族政府をバックアップしてきた経緯があり、派遣軍の中にはフツ族軍部に軍事教練を施した者まで含まれていた。RPFはフランス軍を警戒しているし、実際に、フツ族政府軍の側に立ってRPFと戦うと公言するフランス軍将校すらいた。彼らが首都キガリにくると戦争状態になってしまうのは目に見えている。必要な援助は誰もしてくれず、来て欲しくない奴らが勝手に押しかけてくる。ダレールはフランス軍司令官と交渉して、ルワンダ南西部に“人道的安全保障地帯”を設定するにとどめさせた。RPFに敗れたフツ族過激派はここに逃げ込んでしまった。

 国連本部との意思疎通の悪さ、さらには安全保障理事会常任理事国、とりわけフランスとアメリカの“リアル・ポリティクス”のせいで必要な対応が何も出来ない。ダレールたち現場の人々がジリジリと焦る姿には、紛争解決・平和構築の障碍となる問題が集約されている。ジェノサイドで孤児となった子供たちが、結局は暴力と憎悪の連鎖を断ち切れないのではないかという彼の不安には考えさせられてしまう。

 著者のダレールは現在、カナダの上院議員。他方、ハーヴァード大学ケネディ行政学院カー人権問題リサーチセンターなどで自らの体験をもとに講義を行なっている。

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2008年5月 3日 (土)

「モンテーニュ通りのカフェ」

 最近噂の映画「靖国」の公開初日、渋谷のシネ・アミューズに行った。警官やら報道陣やらと物々しい空気が漂う。昼頃に行ったのだが、席は埋まっていて夜の7時の回まで入れないという。混雑は予想していたものの、シネ・アミューズの2スクリーン両方で上映しているにもかかわらず、これほどとは驚いた。右翼の妨害というのも、なかなかの広告効果を生むものだ。このまま帰るのも癪なので、近くのユーロスペースまで足をのばして「モンテーニュ通りのカフェ」を観ることにした。

「モンテーニュ通りのカフェ」

 パリの繁華街、セレブたちの集まる街。有名人も、劇場やホテルの従業員も息抜きに来るバー・デ・テアトルでジェシカ(セシール・ド・フランス)はギャルソンとして働き始めた。

 世界的に有名にはなったが、自分がやりたいのはこんな音楽じゃないと悩むピアニストと、マネージャー役のその妻。テレビでは大人気だが本当は映画に出演したい女優。長年収集してきた美術品をすべてオークションにかけることにした資産家の老人と、彼に反発してきた学者肌の息子フレデリック(クリストファー・トンプソン)。ミュージシャンになりたかったが夢が叶わず、劇場管理人としての仕事の定年を間近に控えた女性──彼ら彼女らが人知れず抱える葛藤を、ジェシカを進行役に描き出していく。

 ジェシカがフレデリックと語るシーン。携帯電話が鳴って彼は「クソッ、どこのどいつだ!」と悪態をつく。対して、ジェシカのセリフ、「人間には二つのタイプがあるわ。一つは、携帯が鳴ると、どこのどいつだ!って罵る人。もう一つは、私みたいに、誰かしら?って胸をときめかすタイプ」。

 ジェシカ役、セシール・ド・フランスの気取らず軽やかに颯爽とした姿が本当に良い感じだ。一つ一つの出会いを心の底から楽しんでいる雰囲気が自然ににじみ出ている。天真爛漫な女の子(といっても、彼女はもう30歳前後のようだが、そう見えない)がトリックスターになって街の人々を描き出していくという群像劇はフランス映画によくある。例えば、タイプはちょっと違うけど、オドレイ・トゥトゥ主演の「アメリ」も好きだったな。

【データ】
原題:Fauteuils d`orchestre
監督:ダニエル・トンプソン
脚本:ダニエル・トンプソン、クリストファー・トンプソン
2005年/フランス/106分
(2008年5月3日、渋谷、ユーロスペースにて)

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2008年5月 2日 (金)

「つぐない」

「つぐない」

 子供心というのは無邪気なだけに、時に残酷な仕打ちを平気でしてしまう。

 1935年、のどかな田園風景の広がる邸宅、ある夏の日から物語は始まる。早熟な文才を示す少女ブライオニー(シアーシャ・ローナン)は、ロビー(ジェームズ・マカヴォイ)への憧れの気持ちを秘めていた。彼は使用人の息子だが、豊かな才能が認められ、奨学金を受けてケンブリッジに学んでいる。やがてブライオニーは、彼と姉のセシリア(キーラ・ナイトレイ)との、子供心に不潔な関係に気づいてしまった。そんな時に事件が起こる。「犯人はロビー、私はこの目で見ました」──ブライオニーの証言により、ロビーは無実の罪で刑務所に送り込まれてしまった。人生の歯車が狂ってしまったロビーとセシリア。ブライオニーが自分のしでかした罪深さに気づくにはもう少し時間が必要だった。そして1939年、第二次世界大戦が始まった。三人の運命も、この時代の厳しい波に翻弄されることになる。

 ロビーとセシリアが戦時の混乱の中で再会できたとするフィクションを組み立てたのは、作家となったブライオニーの単なる自己満足と言ってしまえばそうかもしれない。しかし、物語というのは、いわば納得の形式だ。自分の心に深く突き刺さったトゲを何とか彼ら二人の思い出と結びつけようとした内省には、そこにもまた一つの真実がある。だからこそ、観る者の心を打つ。

 戦時下の物々しいロンドンの街並。瀕死の人々がうめき声をあげる病院。とりわけ、フランスに出征したロビーの視点で捉えられた、ダンケルクの撤退における無残にも荒んだ光景を写し取った長回しの映像が圧巻だ。タイプライターなどの効果音とうまく組み合わされた音楽が重厚に、時に切なく響きわたり、映像の力を引き立てる。品のよい文芸大作を観た充実感を久しぶりに味わった。

【データ】
原題:Atonement
監督:ジョー・ライト
原作:イアン・マキューアン(『贖罪』新潮文庫)
2007年/イギリス/123分
(2008年5月2日レイトショー、新宿、テアトルタイムズスクエアにて)

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2008年5月 1日 (木)

「大いなる陰謀」

「大いなる陰謀」

 邦題をみるとポリティカル・サスペンスのような印象を受けるが、実際にはかなり生真面目なテーマを問いかける映画だ。三つのシーン、六人の登場人物。事態が同時進行する中で彼らそれぞれがかわす会話を通して、対テロ戦争の泥沼に引きずり込まれつつあるアメリカの現在を描き出そうとしている。

 ジャーナリストのジャニーン(メリル・ストリープ)は共和党のアーヴィング上院議員(トム・クルーズ)の独占インタビューに成功。将来の大統領の椅子を狙う野心家である。現状打開を図るためアフガニスタンで新たな作戦を発動させたと語るアーヴィングに対し、ジャニーンは厳しい質問をたたみかける。彼女の舌鋒をかわしながらアーヴィングは、マスコミはリベラルな正義を標榜しつつも所詮は風見鶏にすぎないじゃないかと冷笑する。

 その頃、アーヴィングのイニシアティブで始まった作戦により、アフガニスタンで一機のヘリコプターが出動した。ところが、敵の攻撃を受けて二人の兵士が転落。彼ら二人(デレク・ルーク、マイケル・ぺーニャ)のうち一人は重傷。刻々と迫る敵の気配に怯えながら二人は互いに励まし合う。一人は黒人、一人はヒスパニック、大学のクラスメイトだ。貧しかった彼らは除隊後の復学・奨学金を目当てに、そしてアメリカを変えるためにはまず現場を知りたいという情熱で軍隊に志願していた。

 同じ頃、彼らの恩師だったマレー教授(ロバート・レッドフォード)は、出席率の悪い生徒のトッド(アンドリュー・ガーフィールド)を呼び出していた。頭の回転は早いが、現実の問題に対してシニカル、今風な彼に向かい、教授は軍隊に志願した二人の学生のことを語る。教授自身はかつてヴェトナム反戦運動に関わったことがあり、二人を何とか思いとどまらせようとしたが、彼らのひたむきさに何も言えなかったという。大学のキャンパスを覆うシニカルな無関心を前にして、教授のリベラルな正義感は空回り、行き詰ってしまっている困惑が浮き彫りにされている。

 原題は“Lions for Lambs”、間抜けな子羊を支持するライオン、子羊に率いられたライオン、といった意味合いになるのだろうか。政治、軍事、マスコミ、教育、そしてこれらの背景をなす社会的空気を手際よく整理されているあたり、脚本がよく練りこまれていることに感心する。アメリカはだからどうのこうのという短絡的な結論に結びつけるつもりは私にはない。この映画の多面的な構成からうかがえる“民主主義”といわれる制度の持つ幻滅的な側面と、しかし同時に理想を持つべき側面、二者択一ではなく、その両方を同時に引き受けるべきなのだろう。

【データ】
監督:ロバート・レッドフォード
脚本:マシュー・マイケル・カーナハン
2007年/アメリカ/92分
(2008年4月29日、渋東シネタワーにて)

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「砂時計」

「砂時計」

 父が事業に失敗してしまったので、杏(夏帆)は母親(戸田菜穂)と共に島根の祖母(藤村志保)の家に身を寄せる。母は鬱病で自殺してしまった。悲しみにくれる杏を暖かく受けいれてくれる三人の友人たち、とりわけ恋人の大悟の支え。ところが、父に引き取られて杏は東京に戻り、四人の仲は徐々にほころび始めてしまう。

 一定の時間が過ぎると過去が未来になる砂時計が映画を通してのモチーフとなっている。この村でのつらい記憶も、暖かく甘酸っぱく楽しい想い出も、それぞれ切り離せるものではない。そうしたすべてをひっくるめて自分の足跡を刻みつけてきた時間なのだから目を背ける必要はないという意味が込められているのだろうか。だいぶたるい感じもあって必ずしもよく出来た映画とは言えないが、私はそんなに嫌いでもない。

 大人になった杏(松下奈緒)が過去を振り返るという形式をとっている。キャスティングのトップには松下の名前があるが、主役は明らかに夏帆だろう。美しくのどかな山野の映像を見ているだけでも気持ちはなごむ。その中で、制服姿の夏帆が、時にのびやかに、時にセンシティブな表情の揺れを見せる。うーん、かわいいなあ。そういえば、「天然コケッコー」でも舞台は島根だったな。

【データ】
監督・脚本:佐藤信介
原作:芦原妃名子
2008年/121分
(2008年4月29日、渋谷、アミューズCQN)

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