『ラ・ロシュフコー箴言集』
本棚の手に取りやすいところに、折に触れて目を通す古典を並べてある。『ラ・ロシュフコー箴言集』もそうした一冊だ。邦訳も色々とあるが、私の手もとにあるのは吉川浩訳『ラ・ロシュフコー箴言集 運と気まぐれに支配される人たち』(角川文庫、改訳・1999年)。
読んだ年齢に応じて注目する箇所が違ってくる。たとえば、「われわれに足りないのは、力よりも意志である。われわれが、物事を不可能と思い込むのも、とかく、自分自身に言い訳するためだ」(22ページ)とか、「われわれは、自分の真価によって、心ある人に認められ、星の回り合わせによって、世間に認められる」(54ページ)とかに赤線を引っ張ってあるのは、壁にぶつかってもがいていた頃だな。古典は、その読み方によって、その時々の自分を映し出す鏡のようにもなるのが面白い。読み方の間口が広いからこそ、時代や地域を超えて読みつがれてきた。それが、古典というもの。
先日、レオ・シュトラウス『ホッブズの政治学』を読み、人間の虚栄心に着目したホッブズの視点はラ・ロシュフコーとも共通するという趣旨のことが書かれていて、それで思い出して久しぶりにひもといてみた次第。モンテーニュの『エセー』にしてもそうだが、いわゆるモラリスト文学に時折見られるシニカルな寸言は心に結構深くグサッとくる。
私は、社会科学でも、思想や文学でも、毒気のあるニヒリズムをどこか感じさせる作品でないと、食い足りないという不満が残ってしまう(その反動なのか、あまっちょろい感傷に逃げたくなることもあるが)。
斜に構えたニヒリストがイヤな奴かと言えば、そんなことはない。彼らは心の奥底では理想主義者でもある。ただ、見たくないと思うものがあっても、目を背けることができない。楽観論を額面通りに信じ込める人は、単に思慮が足りないというだけのこと。その最たるものが虚栄心。耳に心地よい理想論と虚栄心は同類だと思っている。
「他人をだまして気づかれないのは困難だが、自分をだまして、それに気づかないのは簡単だ」(42ページ)
自分自身をだまくらかすというも、生きていく上での一つの知恵だとは思うが、虚栄心にしても理想論にしても、押し付けがましいので周囲の人間にとっては迷惑この上ない。
理想論は、言ってしまえば理屈でこねくり上げたもの。他人から与えられたもの。本来の生身の自分を否定して、空想の鋳型にはめこもうとする結果、永遠に埋まることのないギャップに怨嗟の声をあげるのが関の山。プロクルステスのベッド。何か、ニーチェだね。
「人は、自分の持って生まれた性質によって物笑いになるのではない。自分にありもせぬ性質を真似て物笑いになる」(47ページ)
「ありもせぬ自分を見てもらおうとするより、ありのままの自分を見てもらった方が、ずっと自分のためにもなるのだが」(124ページ)
「人間一般を知るのはた易いが、一人の人間を知るのは難しいのだ」(119ページ)
普段の人付き合いでも、それから社会科学の議論をフォローするときにも、この言葉は忘れないようにしておきたいな。
「人間とは惨めな存在である。なんとかして 情念を満足させようと努めながら、絶えず情念の横暴に苦しんでいる。人間は、情念の暴虐にも、情念の束縛から脱するためなすべきことにも耐えられないのだ。情念もいやだし、それを直す薬もいやなのだ。病気の苦痛も、それを直す努力も辛抱できないのだ。」(145ページ)
人間の意識領野の深みに自分自身ではコントロールできないエネルギーを措定して、その変容として善悪是非とは違うレベルにおいて人間行動を把握しようというところにフロイトの議論の勘所があるとすれば、精神分析学の知見は特に真新しいものでもなかったことが分かる。ま、よく知られていることですが。
「われわれは、人生のどの年齢にも、全くの新人として到達する。だから、いくら年を取っても、その年齢においては、とかく経験不足、ということになってしまう。」(112ページ)
年長者と雑談していたときに、この言葉をさり気なく口に出したら、えらく感心されたことがある。ちょっと気の利いた表現を探してストックしておけば、社交術にも役立つかもしれない。
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