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2008年4月10日 (木)

カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』

カール・シュミット(稲葉素之訳)『現代議会主義の精神史的地位』(みすず書房、1972年)

 議会が必要とされる論拠としてはおおまかに言って次の二点が挙げられる。第一に、あらゆる人間が同意できるような普遍的な“真理”=法の定立を目指して開かれた討論を行なう場。議員は自らの良識だけに従い、精神的にも実際活動的にも独立した立場にあらねばならない(不逮捕特権の根拠)。第二に、利害調整のための交渉と妥協の場。この場合、目指すべきは多数派を形成することで、“真理”なんてまどろっこしいものはどうでもいい。

 議会政治の現実態はおそらく後者であろうが、利害調整の技術的な問題だけが必要ならば、極論すれば議会制度でなければならないという格段の理由はない。「実用的ならびに技術的な理由から人民の代りに人民の信頼する人たちが決定を行うとすれば、唯一人の信頼される人でも人民の名において決定を行うことができるのである」(本書、46ページ)。

 議会政治において“真理”の探究などという言い分がすでにフィクショナルな建前にすぎないことを我々はよく知っている。政治の場面では具体的、現実的な決定の積み重ねがあるだけで、我々の頭上はるか高みにあって従うべき基準などもはや存在しない。

 代って個々の人々の要求が基準になる、と言えばいかにも民主主義らしくて聞こえはいいが、それは、その場しのぎに移ろう感情的な代物にすぎない。だが、束になれば抗い難い強烈な力となる。善悪是非の問題ではなく、声高に強力であるがゆえに政治的運営の基準となる──大衆民主主義の内包するこうしたニヒリズムの現実をカール・シュミットは冷厳に見据えた上で議論を組み立てる。理想論ではどうにもならないドロドロした局面を暴き立てるかのような舌鋒に彼の妖しい魅力がある。

 ルソーの『社会契約論』では、政治的運営を行う者=統治者と統治を受ける者とが完全に一体となった直接民主主義の政治モデルが語られる。ここに牧歌的な理想社会を見出す人は昔から多い。しかしながら、私自身、それを否定はしないまでも、どうしてもストンと腑に落ちない点がわだかまっていた。“一般意志”の問題である。少数意見者の扱いはどうなるのか? ルソーの答えはこうである。

「ある法が人民の集会に提出されるとき、人民に問われていることは、正確には、彼らが提案を可決するか、否決するかということではなくて、それが人民の意志、すなわち、一般意志に一致しているかいなか、ということである。各人は投票によって、それについてのみずからの意見をのべる。だから投票の数を計算すれば、一般意志が表明されるわけである。従って、わたしの意見に反対の意見がかつ時には、それは、わたしが間違っていたこと、わたしが一般意志だと思っていたものが、実はそうではなかった、ということを、証明しているにすぎない。」(ルソー『社会契約論』桑原武夫・前川貞次郎訳、岩波文庫、1954年、149~150ページ)

 つまり、少数意見はそのこと自体が間違っているのだから一般意志に従え、ということだ。統治者=被治者の完全な同質性を前提としたルソーの政治モデルにおいて、異質なものは存在が許されない。ルソーの“一般意志”論こそがファシズムを生み出したという議論にはそれなりの根拠がある。そもそも、ロベスピエールにしても、ポル・ポトにしても、彼らがルソーの心酔者であったがゆえに大粛清・大虐殺が引き起こされたことが想起されよう。

 民主主義は、直接的に表現された、誰にも抗い難い“人民の意志”のみを唯一の基準とすべきことを要求する。シュミットは、こうしたルソー思想の危うい逆説を踏まえた上で次のように記す。

「民主制においては、平等な者たちの平等性と平等な者たちに属する者の意志とがあるだけである。これ以外のすべての制度は、何らかの形において表現された人民の意志に、その固有の価値と原理とを対置させ得ないところの、本質のない社会的=技術的補助手段に転化してしまう。」「技術的な意味にとどまらず、また本質的な意味においても直接的な民主主義の前には、自由主義的思想の脈絡から発生した議会は、人工的な機械として現われるのに反して、独裁的およびシーザー主義的方法は、人民の喝采によって支持されるのみならず、民主主義的実質および力の直接的表現であり得るのである。」(本書、24~25ページ)。

 “人民の意志”は直接的・本能的なものであって、議会での討論などというまどろっこしい手続きは、彼らにとってうそ臭く感じられる。ファシズムもボルシェヴィズムも、言論の自由や価値観の多元的共存を否定する点において反自由主義であるが、自らを“人民の意志”の代弁者と自負する点においては必ずしも反民主主義ではない。

 シュミットはロシア革命に触れてこう言う。その原因は、「暴力行使の新たな、非合理主義的な動機が共に働いていたということ、すなわち極端なるものから反対のものに転換するところの、ユートピアを夢みる合理主義ではなく、合理的な思考一般に対する新たな評価、討論に対するあらゆる信念を排除するとともにまた教育独裁によって人間を討論に習熟せしめようとすることをも拒否するところの、本能と直感に対する新たな信念が共に働いていたということに存するのである」(89ページ)。

 さらにジョルジュ・ソレルやバクーニンを引き合いに出しながらシュミットは次のように述べる。

「偉大なる熱狂、偉大なる道徳的決断および偉大なる神話は、推理や合目的的考量から生まれるのではなく、純粋な生の本能の深みから生まれるのである。熱狂した大衆は直接的な直感によって神話的イメージを創造する。このイメージこそは彼らの活力を推進せしめ、殉教への力ならびに暴力行使への勇気を彼らに与えるのである。ただこうしてのみ、一民族ないし一階級は世界史の動力となる。こういうものを欠く場合には、いかなる社会的、政治的な権力といえども維持され得ず、またいかなる機械的な装置も、歴史的生の新たな潮流が解き放たれるときにはその防波堤となることができないのである。したがってすべては、今日どこに神話に対するこの能力とこの生命力とが実際に活きているかを、正しく見ることにかかっている。これらの能力は、近代のブルジョワジー、すなわち金銭と所有についての不安のために堕落し、懐疑主義、相対主義、議会主義によって精神的に損なわれている社会層においては、もちろん発見されないであろう。」(本書、91ページ)

 本書が刊行されたのは1923年。ワイマール共和政の行き詰まりを予見するかのようなシュミットの議論はしばしばナチズムを正当化したとして論難され、その評価の振幅は激しい。シュミットの研究者があとがきなどで「彼は反動思想家であり、反面教師として学ばねばならない」と言い訳めいたことを記しているのをよく見かける。

 議会制度にしても、民主主義にしても、建前としての表面的なロジックだけで自己完結しているわけではない。形式面では見えてこないリアルな局面においては、もっと別のファクターが働いているのではないか。そうした可能性に思考をめぐらせてくれる点で、シュミットのポレミカルな論点は私には非常に刺戟的で興味が尽きない。

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