« マイケル・ウォルツァー『寛容について』 | トップページ | 偶感、芸術について。 »

2008年4月13日 (日)

カール・シュミット『政治神学』

カール・シュミット(田中浩・原田武雄訳)『政治神学』(未来社、1971年)

 「主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者をいう」(11ページ)

 本書冒頭に置かれた、カール・シュミットの有名なテーゼである。

 主権とは国家の最高権力であるという教科書的な説明は抽象的なトートロジー(同義反復)にすぎず、意味をなさない。「自然法的な確実さで機能し、さからうことの不可能な、最高の、すなわち最大の権力などというものは、政治的現実のなかには存在しないのである」(26ページ)。たとえば、国民主権という。しかし、これはあくまでも“民主主義”というフィクショナルな体制に正統性を仮構するための用語法であって、政治的現象のリアルなあり様を説明したことにはならない。

 既存の法体系が全く想定していない緊急事態に直面したとき、当然ながら、法の枠外からのすみやかな決定が迫られる。この時点にあって、何らかの決断を下した具体的な誰か、その者こそが主権者だと言える。「法生活の現実にとって肝要なのは、だれが決定するか、である。内容の正しさを問うのとは別に決定権の所在を問う必要がある」(23ページ)。

 粛々と物事が進む日常の中では問題の核心は自覚されず、そもそも考えるべき必要すら誰も感じない。例外状況という日常の破綻にこそ根源的な問題意識を突きつけられると喝破したところにシュミットの慧眼がある。「例外は通常の事例よりも興味深い。常態はなにひとつ説明せず、例外がすべてを説明する。例外は通例を裏づけるばかりか、通例はそもそも例外によってのみ生きる。例外においてこそ、現実生活の力が、くり返しとして硬直した習慣的なものの殻を突き破るのである」(23ページ)。

 こうした例外状況に際しての主権者による決定は、あたかも神学における神の“奇蹟”に似ているとシュミットは言う。

「現代国家理論の重要概念は、すべて世俗化された神学概念である」(49ページ)。

 ところが、ハンス・ケルゼンをはじめとする規範主義的な法律学は、この“奇蹟”を排除しようとしていると彼は批判する。ケルゼンの議論は、人的な恣意性を徹底的に取り払うことによって自然科学のように純粋な統一性・整合性を持つものとして法的現象を把握しようとするところに特徴がある(純粋法学)。シュミットの見地からすると、それは、構築された体系と矛盾するものはすべて無視することでかろうじて成り立っているにすぎず、本来の難問と向き合おうとはしない安易な態度だということになる。

 「およそ政治理念はすべて、人間の「本性」についてなんらかの態度決定をするものであって、人間が「生まれつき善」なるものか、「生まれつき悪」なるものかのいずれかを前提とする」(73ページ)。

 ルソーにしても、あるいは無政府主義者たちも、性善説を前提として予定調和的な理想社会を思い描く。そうした人間の本来の性質を国家権力がゆがめているのだと批判する。他方、カトリシズムに立脚するドノソ・コルテスやドゥ・メーストルたちは、原罪を負った人間が為し得る悪に恐れおののき、それを防げるのは神の“奇蹟”だけだと考える。具体的には、無謬性を本質とされる教会的秩序における命令という形で人間の悪を抑え込むことを求める。

 しかしながら、このように人間観において対極的な両者は、秩序を生み出す契機としての決定者に何らかの権威者を想定している点で実は同じ構図をとっている。すなわち、「バブーフからはじまって、バクーニン、クロポトキン、オットー・グロースにいたる無政府主義教説はすべて「民衆は正しく、そして当局は腐敗するもの」という公理を中心に展開される。これに対し、ドゥ・メーストルは、まさに逆に、「当局は、それが存続しさえすれば、それ自体善である」と言明する」(72ページ)。つまり、前者にあっては“民衆”が、後者にあっては神の権威が絶対なのである。

 そしてまた、両者は共にブルジョワ的自由主義を否定する。なぜならば、「自由主義なるものは、政治的問題の一つ一つをすべて討論し、交渉材料にすると同様に、形而上学的真理をも討論に解消してしまおうとする。その本質は交渉であり、決定的対決、血の流れる決戦を、なんとか議会の討論へと変容させ、永遠の討論によって永遠に停滞」させてしまうからである。「討論の対極は、独裁である。いかなるばあいにも極端な事例を想定し、最後の審判を期待する、ということが、コルテスのような精神での決定主義には含まれている。それゆえ、コルテスは、一方で自由主義者を軽蔑すると同時に、他方、無政府主義的社会主義は、不倶戴天の敵としてではあるがこれを尊敬し、それに悪魔的偉大さを認めるのである」(82~83ページ)。

 例外状況という具体的にリアルな局面における決断は絶対である。果てしない議論によって問題を先送りしたり、利害対立者の条件を出し合って妥協したりする余地は一切ない。ドノソ・コルテスは神の奇蹟を願ったが、時代はすでに変わった。神の権威も、王権神授説的な君主制の持つ正統性もすでに崩れ去り、民衆の意志が王座にはい上がろうとしている。決断を正当化すべき根拠はどこにもない。どうすればいいのか? 無から作り出される絶対的決断、すなわち独裁しかない──そのようにシュミットは結論付ける。

 本書に併録されているカール・レヴィット「シュミットの機会原因論的決定主義」という論文では、シュミットは決定という形式に焦点を合わせてはいても、決定される政治的内容については無関心だと指摘されている(121ページ)。決定という作用の結果として現われる政治体制は、ファシズムでも、あるいは自由主義や民主主義でも、どちらでもあり得る。いずれであっても代替可能、すなわち価値的な優劣を剥ぎ取ったレベルでシュミットは政治現象を見つめているとも考えられる。はっきり言ってしまえば、ニヒリズムだ。私自身は別にファシストでも独裁礼賛者でも何でもないが(一応、自己規定としてはシニカルなリベラリストだと思っている)、こうしたニヒリズムには非常に興味がひかれる。

|

« マイケル・ウォルツァー『寛容について』 | トップページ | 偶感、芸術について。 »

政治」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/197828/40870149

この記事へのトラックバック一覧です: カール・シュミット『政治神学』:

« マイケル・ウォルツァー『寛容について』 | トップページ | 偶感、芸術について。 »