竹内洋『大学という病──東大紛擾と教授群像』
竹内洋『大学という病──東大紛擾と教授群像』(中公文庫、2007年)
大学や学会での人事抗争の不毛な激しさについては時折漏れ聞くことがある。本書は東京帝国大学経済学部を舞台に、“大学版忠臣蔵”とも言うべき人間模様を社会学的な分析タームを用いながら描き出す。マルクス主義の大内兵衛グループ、国家主義=革新派の土方成美グループ、自由主義の河合栄治郎グループ、それぞれの派閥が互いに足を引っ張り合う合従連衡、登場人物の思惑や葛藤も活写されて非常に面白い。立花隆『天皇と東大』(下巻)でも“経済学部三国志”としてこの騒動について3章ほど割かれており興味を持ったのだが、何のことはない、本書の引き写しであった。
河合栄治郎の基本的な考え方は理想的人格主義にあり、反マルクス主義の立場をとっていた。大正から昭和の初めにかけての論壇はマルクス主義の全盛期で、河合の理想主義的リベラリズムは学生には物足りなかった。ところが軍国主義の風潮が強まり、マルクス主義の知識人たちが次々と崩れていく中、果敢に軍部批判を行なった河合を見て、常識的で新鮮味には欠けてはいても芯のすわっている人はやはり強いものだと見直されたらしい。このエピソードを学生の頃に何かで読んで、河合の『学生に与う』(現代教養文庫)を古本屋で探し求めたことがある。河合が大学を追われたのも、このリベラリズムが睨まれたからだと思っていた。
もちろん、蓑田胸喜をはじめとする右翼からの攻撃が最大の原因であったのは確かだが、本書によると事情はそんなに単純ではない。国家主義の土方派と自由主義の河合派とが反マルクス主義の立場から大内派を追い落としたかと思うと、学部長となった河合が独断専行の人事を行なおうとして土方派と大内派が共闘したりと泥仕合が繰り広げられていたため、経済学部は事実上機能していなかった。感情的なしこりが尾を引いているのだから、河合を守れるわけがない。河合は休職処分となるが、大学自治という建前を取り繕うため、右翼を引っ張り込んだ土方もまた喧嘩両成敗として休職処分を受けた。昭和14年、いわゆる平賀粛学である。この時にそれぞれの子分筋が連袂辞職騒ぎを起こすが、裏切りもあって感情的なもつれをさらに深めてしまう。実は法学部の田中耕太郎、末弘厳太郎、横田喜三郎、宮沢俊義なども蓑田から猛攻撃を受けていたのだが、こちらは犠牲者を出していない。経済学部をスケープゴートにして法学部は生き残ったのではないかと著者はうがった見方を示す。この間、大学に昇格した東京高商(現在の一橋大学)から追い上げを受ける。経営学・商業学・会計学など実学経済系の学会では東大系が意外と弱いという印象を以前から持っていたのだが、遠因はこのあたりにありそうだ。
栄華をほこった革新派は日本の敗戦と共に公職追放。河合は戦争中に病死している。昭和13年の第二次人民戦線事件で壊滅していた大内派が復帰して、東大経済学部はマルクス経済学が主流となる。
竹内洋や立花隆と同様に、河合がもし戦後も生きていたら、というイフに私も思いをめぐらせてしまう。河合にも色々と問題はあったにせよ、軍国主義の犠牲になったという勲章をもとに、戦後の論壇で一世風靡したマルクス主義に対して着実な批判をすることができたはずだ。彼の活動力からすれば政治にも積極的に関与しただろうし、思想的には社会民主主義に近かったから社会党右派の理論的主柱として野党の現実路線化も可能だったかもしれない。浅沼稲次郎や河上丈太郎など社会党右派の指導者たちには戦争協力をしたという負い目があったため、彼らは左派の看板を使わざるを得なかった。
学問エリートに対する大衆運動的攻撃という点で、戦前の蓑田たち右翼と戦後の全共闘と同じ構図が見えてくるのも興味深い。
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