最上敏樹『人道的介入──正義の武力行使はあるか』
最上敏樹『人道的介入──正義の武力行使はあるか』(岩波新書、2001年)
私自身は別に理想主義の立場に立つわけではないが、大きな枠組みとしての戦争観は戦争を非とする趨勢にあると受け止めている。政治的・道徳的に正当であるならば戦争は認められるという考え方を、国際法や国際政治学の方では正戦論という。19世紀の帝国主義のパワーゲームが展開される中でこれは事実上崩れ、何でもありの無差別戦争観が現われて二つの世界大戦に至ったわけだが、こうした経験を踏まえて制定された国連憲章では、正・不正の判定が難しいならば戦争は正当化できないと考えられるようになった。
ただし、それでも戦争は起こる。国連中心の安全保障体制は、これが無い状態に比べればはるかにましではあるものの、決して十分とは言えない。冷戦構造の下で大きな戦争はなかったにせよ小規模戦争は頻発したし、いまや民族紛争の激しさを目の当たりにしている。何よりも次の問題が問われる。ある国家の内部でジェノサイドなど極度の人権侵害状況が起こり、当該政府に事態を収拾する能力がない、もしくは政府自身がそうした行為を行なっているとき、国際社会はどうすればいいのか。国際慣習法としての内政不干渉の原則と国連憲章で謳われる武力不行使の原則とを厳密に守って傍観するしかないのか。実際に、ソマリア、ルワンダ、旧ユーゴスラビアなどで起こった悲劇を我々は知っている。
こうしたアポリアの中から浮かび上がってくるテーマが人道的介入である。この場合、以下の要件が必要とされる。
①極度の人権侵害状況が見られること。
②他の平和的手段を尽くした上で、最後の手段としての武力行使であること。
③人権抑圧の停止が目的で、国益追求など他の政治目的を含めないこと。
④状況の深刻さに比例した手段を取り、期間も最小限にすること。
⑤相応の結果が期待できること。
⑥国連安全保障理事会の承認があること。
⑦個別の国よりも地域的国際機関が、地域的国際機関よりも国連が主導するものを優先させること。
国連憲章では武力不行使が原則とされるが、例外が二つある。第一に自衛権。第二に、国連自身が強制執行する際に武力行使も含まれる。ただし、現時点において国連軍は存在しないため、加盟国に委任する形で人道的介入は行なわれることになる。
とは言え、人道的介入の原則が確立しているわけではない。歴史的にみても他の政治目的が絡む場合が大半で、純粋な人道目的はまれである。それこそ、ヒトラーはズデーテン地方併合に際してドイツ人が迫害されているという口実をもとにしたように、人道目的・平和目的を建前としつつ国益追求の戦争をふっかける可能性は常にある。教条的な平和主義はもちろん論外であるが、他方で武力介入はじめにありきの議論も避けなければならない。
本書では、“市民的介入”にも一章を割いている。たとえば、ビアフラ戦争を目の当たりにして結成された“国境なき医師団”のように、国家とは違う次元で活動を行なうNGOも人道的介入の一つのパターンと言える。だからといって軍事力が不要なわけではない。“国境なき医師団”がルワンダ紛争において軍事介入を求めたように(現実には行なわれなかったが)、軍事力を選ばなければさらに悲惨な事態が生じるケースも実際にある。原則のない中、武力介入も含めてあらゆるアプローチを組み合わせてケースバイケースで対応するしかないわけで、人道的介入をめぐる議論に決着をつけるのは難しい。
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