橘孝三郎という人
岩波書店のシンボルマークにはミレー「種まく人」があしらわれている。岩波茂雄が農家の生まれだったのでこれを選んだらしい。そういえば、『種蒔く人』というプロレタリア文学雑誌もあった。ミレーを日本で積極的に紹介したのは白樺派である。農村、勤勉、教養といった美徳を結びつけようとしたところに大正期教養主義の一つのロマンティシズムがうかがえる。ミレーはそのシンボルだったと言える。
橘孝三郎が理想としたのもミレー「晩鐘」の世界観であった。黄昏色になずんだ夕刻、教会の鐘の音が聞こえてくる。畑作業を中断し、合掌する農民たちの敬虔な姿──。
五・一五事件(1932年)について調べる人は、逮捕者の中に橘孝三郎と愛郷塾の門下生たちの名前を見つけ、そのミスマッチに必ず戸惑う。青年将校による犬養毅首相暗殺、クーデター未遂というキナ臭さと、トルストイの人生観に共感し、ミレーの「晩鐘」に理想社会を見出す橘の人物像とが結びつかないのだ。
実際、橘は暴力には反対であった。青年将校たちからすすめられて北一輝『日本改造法案大綱』を読んだ時にも、軍事クーデター→憲法停止→天皇大権による国家改造という北のプランは軍部独裁につながると不快感を隠さなかった。しかし、彼らの決意は固い。クーデターが行なわれてしまうのならば、何らかの形で参加して農民側の発言権を確保しておかなければならないという計算が働いた。ただし、流血の事態は最小限に抑えたい。そこで、橘の愛郷塾は発電所襲撃という形で参加することにした。ここには、都会を真っ暗闇にすることで反都市文明、反工業文明のデモンストレーションとすることが象徴的な意味合いとして込められていた。
橘孝三郎は1893年、水戸に生まれた。旧制水戸中学を経て一高に進むも中退。学校ではいつも図書館にこもってばかりいたという。郷里に戻って農作業に従事。近親者が集まって晴耕雨読の生活をしているうちに“兄弟村”と呼ばれるようになる。時期的には白樺派の“新しき村”とほぼ同じ頃だ。噂を聞きつけた人々が橘との交流を求めるようになり、茨城県一円で“愛郷会”として組織化されるようになった。白樺派の柳宗悦と付き合う一方で、霞ヶ浦の海軍航空隊にいた古賀清志や大洗・護国堂の井上日召とも知り合った。
農村という自ら汗して働く現場において、自らの個性を確保しつつ、同時に他者の個性をも認め合う。そうした協働関係を通して自治的な共同体を形成、下から積み上げて国家、世界へとつなげていくというのが農本主義の基本的な社会観である。しかし、資本主義によってそうした共同体的関係が崩されつつあるというところに彼らの危機意識があった。“農本ファシスト”なんて言うとおどろおどろしいが、橘孝三郎にしても、あるいは権藤成卿(→参照)にしても、反権力主義という点でむしろアナキズムに近い。
親戚筋にあたる立花隆は晩年の橘孝三郎に会ったことがあるというが、もの静かな老人で五・一五事件に関わったという雰囲気は全く感じさせなかったらしい(『東大と天皇』)。保阪正康『五・一五事件──橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』(草思社、1974年)も五・一五事件と橘のパーソナリティーとの大きなギャップへの関心から書かれている。保阪書が五・一五事件の前後に関心対象を絞っているのに対し、松沢哲成『橘孝三郎──日本ファシズム原始回帰論派』(三一書房、1972年)は晩年の橘や関係者への聞き取りをもとにまとめられた伝記研究として橘の人物像を知る上で欠かせない。
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