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2008年3月12日 (水)

日本画家、松井冬子

 昼休みによく行く書店の美術書コーナーに寄ったら、平台に松井冬子という人の画集が積んであった。初めて見る名前だ。何気なく手に取ってみた。

 日本画である。第一印象、グロい。人物の皮膚の引き裂かれた様が痛々しい。

 幽霊画の暗くぼんやりとした感じが基本的なトーン。とは言っても色々とアレンジされていて、ルネサンス期の女性像を思わせる横顔も見えたりする。繊細で緻密な描写は日本画らしいが、そこには収まりきれない激しい情念の放つオーラが何とも言えない。気持ちをグイと荒々しくつかまれたように目が離せない。

 画集はさすがに値段がはるのでおいそれとは買えない。横に松井冬子特集が組まれた『美術手帖』2008年1月号も置いてあったので、こちらを購入。

 辻惟雄、松井みどりとの対談で語る松井冬子のコメントがまた一筋縄ではいかず、興味をかきたてられる。映画女優とかファッション・モデルとか言っても全然違和感がないくらいに相当な美人だ。しかし、孤高というか、どこか狂的なものがあって人を寄せつけない雰囲気も漂う。

 「この疾患を治癒させるために破壊する」(2004年)は、暗闇の中、千鳥が淵の水面に映った桜を詳密に描写。渦巻き的な構図に魅入られてそのままこちらも巻き込まれてしまいそうな不思議な感覚。

 「浄相の持続」(2004年)。花が咲き乱れる中、横たわった女性の切り裂かれた腹から子宮がむき出しになっている。最初にグロいと思ったのはこれだ。この女性は殺されたというのではなく、自ら腹を切り裂くという行為がまず頭に浮かんで描かれたそうだ。自傷行為には自己確認という意味もあり、それによって、自分は立派な子宮を持っているのを見せびらかす自己顕示にもつながるという。言われてみて改めて見直すと、確かに女性の表情は穏やかで、むしろ誇らしげですらある。

 痛みがあって、はじめて“私”なるものが捉えられる。創作的な動機もそこに芽生える。極めて私的な感情であっても、それが今という時代において切実なものであれば、他の人にも訴えかけるものがあるはずというスタンスを彼女は取っている。パッションをそのまま無責任に描き散らすのではなく、日本画の技術的制約があるからこそ、描きたい感情を表現できるという発言に説得力がある。

 松井が芸大に提出した博士論文「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」を寄稿者や対談者はみな絶賛しているのだが、私も読んでみたい。

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