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2008年2月 1日 (金)

中河與一について

 いつだったか、友人から薦められて中河與一『天の夕顔』(新潮文庫、1954年)を読んだことがある。年上の女性への秘めたる憧れを描いた、ストイックに美しい純愛小説だ。その友人のがさつな風貌を思い浮かべ、こういうロマンティシズムが分かる奴なのかとそのギャップが意外だったが、それはさておき。永井荷風はゲーテの『若きウェルテルの悩み』に比較して絶賛し、後に海外にも紹介されてアルベール・カミュから賛嘆の手紙が寄せられるなど大きな反響があったという。荷風はともかく、カミュが関心を持ったというのはどういうわけだろう。その女性とは結ばれないと分かってはいても、それを虚しいこととは思わず、敢えて自らの想いを貫こうというところに、実存主義的な何かを読み取ったのだろうか?

 中河與一は明治30(1897)年、香川県坂出で代々医者を営んできた家系の長男として生れた。旧制中学に通っていた頃から、船乗りに憧れたり、画家を志したりと夢見がちな性格であったという。北原白秋の主宰する『ザンボワ』に短歌を投稿しており、早くから文学的な関心が強く芽生えていたことが分かる。

 22歳の時、画家になろうと上京。岡田三郎助の絵画研究所に通ったが、やがて挫折。早稲田大学の英文科に入学した。在学中に同郷出身で女子英学塾(現・津田塾大学)に通う幹子夫人と結婚(彼女もまた歌人として活躍し、戦後は共立女子大学教授)。

 そうした中、中河は初の歌集『光る波』を出版して早熟な才能を示す。しかし、狂的な潔癖症や幻覚に悩まされ、「埃っぽい教室がいやでたまらない」と言って大学を中退。この潔癖症は生涯にわたって続いた。対人関係にも支障を来たし、人から色々と誤解されて文壇の中で孤立してしまう原因となる。

 大正10(1921)年、『新公論』に掲載された「悩ましき妄想」(後に「赤い薔薇」と改題)で文壇デビュー。大正13(1924)年に金星堂から『文芸時代』が創刊され、稲垣足穂、川端康成、片岡鉄平、横光利一、今東光、岸田国士、佐々木茂索らと共に同人として加わった。彼らは、私小説的なリアリズムを追求するあまり物語としての魅力を失った旧来型の自然主義文学とは訣別し、その一方で勃興しつつあるプロレタリア文学のような階級闘争という図式の中に人間を押し込めて描こうとするかたくなな態度とも一線を画し、「新感覚派」と呼ばれた。

 中河はその後も『早稲田文学』『文芸春秋』『新思潮』『新潮』『中央公論』『太陽』『キング』など様々な誌面に作品を発表、小説集も続々と刊行された。また、評論にも健筆をふるい、偶然文学論を提唱して議論を巻き起こした。昭和13(1938)年に代表作『天の夕顔』を発表。

 昭和10年代には保田與重郎たち日本浪漫派の後見人的な立場となっていた。中河の伝統文化論の中には国家主義と結び付きやすい側面があるとみなされ、また戦時下にあって戦意鼓吹の政治的言動を展開したこともあって、敗戦後は公職追放の対象となった。『天の夕顔』が映画化された際に原作者名が削られたり、戦争協力の過去を理由にいくつかの雑誌から執筆を断られるなど不遇をかこつ中でもコツコツと筆を執り、昭和41(1966)年には角川書店より『中河与一全集』全十二巻が刊行された。平成6(1994)年に永眠。

【参考文献】
中河与一『天の夕顔』新潮文庫、1954年(保田与重郎による解説)
笹淵友一編『中河與一研究』右文書院、1970年
森下節『ひとりぽっちの戦い──中河与一の光と影』金剛出版、1981年
『近代浪漫派文庫30 中河与一・横光利一』新学社、2006年

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