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2008年2月 8日 (金)

経済的合理性についてメモ

(2,3年くらい前に書いたメモです。あくまでも自分の考えを整理するためのものだったのでかなり大雑把ですが、看過しがたい誤解がありましたらご指摘ください。)

 経済についての議論が論壇で主流となっていること自体に、現代という時代の一つの精神史的特徴が表われているようにも思える。そこにおいては、①経済的合理性を持った人間が、②多様な選択肢が与えられる中で、③主体的な責任を持って選び取る、こうした条件を以て“自由”とみなす考え方が前提とされている。これを純粋に抽象化した思想的立場を政治哲学ではリバタリアニズム(libertarianism=自由至上主義)という。

 ①に対しては、そもそも人間に合理性などあり得るのか?という疑問が出てくる。ホモ=エコノミクス(homo economicus)という人間モデルは、現実の人間像を写し取ったものではなく、あくまでも経済動向を分析・予測するための方法的仮設に過ぎない。現実の人間の予測不可能で複雑な行動の襞を読み込むのはほとんど不可能に近いわけだが、それでも、(a)マスのレベルでは一定の傾向性が見られる、(b)それを大雑把にでも措定することで計算可能性→予測可能性を擬制する、というのが経済学の基本的な考え方である。
 しかし、経済学に重きを置いた議論が主流となるにつれ、プロクルステスのベッドとも言うべき次のような倒錯が生じた。複雑な人間像を描くと収拾がつかなくなるから次善の策としてホモ=エコノミクスが措定されたという学的成立の経緯をひっくり返してしまい、むしろ経済活動をスムーズにするためにこそ、人間は論理化できない感情的な襞を捨てて合理的であらねばならないという独特な社会風潮が表われてきた。それは、かつては封建的な因習を打破せねばならないという進歩主義の主張であったが、近年は経済的な新保守主義が取って代わり、進歩派・左派はその行き過ぎを批判するというスタンスに回っている。これは日本国内の問題というだけでなく、アメリカ発のグローバライゼーションと密接に連動しており、そこに内包されている経済的人間観の世界一律な押し付けに対する反発として世界各地で摩擦を引き起こしている。
 なお、藤原正彦『国家の品格』は、こうした極端なまでの論理合理性が人間の情緒における奥行きを損なってしまうことへの危機意識をテーマの一つとしている。本書には感情的な決め付けが目立って説得力に乏しいという欠点があるにしても、これがベストセラーとなった背景としては、合理的人間モデルを当然視する考え方への、一般の人々からの潜在的な反発が伏流しているものと考えられる。

 ②に対しては、次の疑問がある。ホモ=エコノミクスに込められたニュアンスとして、すべての人間に選択肢の可能性=情報が均一に与えられているはずだ、という前提がある。しかし、情報に接する機会それ自体が非対称的なのだから、均衡を軸とした経済モデルは実際には成立していないという指摘がある(たとえば、ジョゼフ・スティグリッツ)。
 情報があまりに多すぎても、人間の思考の処理能力を考えると、事実上選択はできないという問題がある。結局、経験則として積み重ねられた先入見に基づいて取捨選択しながら、つまり選択肢の広がりを自ら狭めることでようやく判断を可能とする条件が整えられると言える(西部邁、金子勝という対極的な二人が指摘していた)。そうした先入見を社会思想史的な文脈で言うと、世代を超えた試行錯誤により文化規範として各人に染み渡った行動習慣、すなわちイギリス経験論・保守主義における“伝統”概念である。この意味での“伝統”を破壊するものとしてグローバライゼーションへの反発は強い。

 ③に対しては、そもそも“主体性”なるものがどのようにして形成されるのか、という問題がある。たとえば、最近の社会格差論でもここが問題となっている。つまり、“主体性”は放っておけば自然と備わるものではなく、その人の置かれた生育環境に応じて、意欲の持ち方自体が大きく影響を受けてしまうことが指摘されている。その生育環境の基礎は家庭にある。ところで、近年、社会学者の研究により、社会的ステータスが親から子へと世代間再生産され、社会的階層の固定化傾向が見られることが指摘されている(佐藤俊樹、苅谷剛彦、本田由紀などの議論を参照)。
 つまり、生育環境の階層分化→“主体性”や“創造性”、“意欲”等の情緒面も含めた全人的形成環境における格差が固定化→たまたまどの家庭に生れたかにより、その後の人生経路における格差が出てくる、こうした悪循環に陥ってしまう。
 問題の立て方は二つあり得る。第一に、格差固定化を防ぐために機会の均等を保証するための対策を考えること。これはほとんど不可能であるが、各論は別として原則論としてはあらゆる人々から同意を得られるだろう。
 第二に、格差はやむを得ないとみなし、その納得のシステムを考えること。問題なのは、“実力主義”や“自己責任”というフィルターを通すことで、質的な格差が、あたかも本人の努力によって得られたかのような虚構が当然とみなされてしまうことである。それによって、失敗したのは自分の責任なのだから仕方ないとされて弱者切捨てが正当化されてしまうし、またノブレス・オブリージュ(高貴な者には責任がある)の感覚も失われてしまう。
 “実力主義”や“自己責任”論において、実力を発揮し、選択の責任を取る“主体”はどのようにして形成されるのか、という問いが発せられることはない。自明の前提とされているため、突き詰めると精神論で終るだけである。やる気になればすべての人間にあらゆる機会が保証されているというというのはあくまでもフィクションに過ぎない。現実の良くも悪くも多様な人間性と、“自由”や“平等”という本来ならばあり得ない近代的理念=フィクションとの整合性は、その矛盾を留保しているからこそ成り立っているのである。そこを暴き出してしまうと、“自由”概念は事実上無意味なものとなってしまう。
 フィクションが悪いわけではない。かつてハンス・ファイヒンガーが指摘したように、“かのように”という前提を疑わずに共有することで我々の社会は成り立っているとも言えるのだから。しかし、そうしたフィクションが破れたとき、社会的な様々な取り決めごとを正当化する根拠は何もなくなってしまう。その破綻の一端が、社会格差論を通して浮かび上がっているのかもしれない。

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