日暮吉延『東京裁判』
日暮吉延『東京裁判』(講談社現代新書、2008年)
私は中学・高校生くらいの頃から東京裁判マニアで、折に触れて関連書を読み漁ってきた。という言い方をすると妙に誤解されるかもしれないが、いわゆる歴史観をめぐる不毛な論争からはできるだけ距離を置こうと努力してきたつもりだ。なぜ興味を持ったのか。第一に、肯定するにせよ、否定するにせよ、日本の現代史を総括する一つのたたき台となったこと。第二に、歴史的・政治的論争そのものという点でも、そして何よりも人物群像という点でも、様々なドラマが凝縮されていて面白いと感じた。小林正樹監督「東京裁判」はバランスのよくとれたドキュメンタリー映画で、私は繰り返し観たものだ。
本書は、東京裁判の根拠となる枠組みの成立過程から裁判終了後における戦犯釈放問題まで、東京裁判の全体像を要領よくまとめてくれている。著者のスタンスは、いわゆる“勝者の裁き”論、“文明の裁き”論、いずれからも距離を置き、裁判のプロセスそのものをとにかくリアルに把握しようというところにある。国際関係における政策論としての位置づけを探り、連合国側にとっては、敗者に屈辱感・怨恨感情を残してしまった点で失敗だったと捉え、日本側にとっては対米協調の安全保障政策として有効だったと評価する。
裁判を構成する検事団・弁護団・判事団それぞれの内部における厳しい対立を描き出しているところが面白く、またこれだけ複雑な要因が絡み合っているのだから一元的な理解など不可能なことを改めて実感させる。検事団の中ではキーナンのスタンド・プレーへの不満が強く、弁護団は国家弁護か、個人弁護かをめぐって完全に二分されていた。
何よりも微妙だったのは判事団である。戦争そのものを裁く根拠が国際法になかったにもかかわらず(パリ不戦条約(1928年)には罰則規定なし)、事後法で日本を裁けるのかという疑問を複数の判事が持っていた。結局、裁判そのものが崩壊しかねない中、イギリスのパトリック判事による多数派形成工作によって辛うじてニュルンベルク・ドクトリン(侵略戦争を犯罪と規定)に基づく判決が出される。判決作成過程から排除されたウェッブ裁判長(オーストラリア)、レーリンク判事(オランダ)、ベルナール判事(フランス)、パル判事(インド)はそれぞれ個別意見を出すという異例の結果となった(このせめぎ合いについては、昨夏のNHKスペシャル「パール判事は何を問い掛けたか──東京裁判 知られざる攻防」で取り上げられた)。
パル判事については、第一に、“勝者の裁き”批判の論理には「国家主権の平等」に基づき「力の行使」を容認する国際関係のリアリズム論と重なるところがあるという指摘、第二に、法実証主義に立って事後法批判をする一方で、パル個人の“反西欧帝国主義批判”という強い政治性が色濃く滲んでいるという極端な二面性があるという指摘に興味を持った。
日本もそうだし、天皇の扱いをめぐってはアメリカもそうだったが、東京裁判に対しては各国各様に両面的な対応を迫られた。インド政府は連合国と共同歩調を取る方針だったのでパル判決には驚いたらしい。しかし、インド国内の世論はパルを支持した。インド政府もまた対外的な顔と対内的な顔とを使い分けざるを得なくなった。それだけ、東京裁判というイベントの複雑な様相が浮かび上がってくる。
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