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2008年2月26日 (火)

「ラスト、コーション」

「ラスト、コーション」

 1930~40年代の上海、香港。租界ではヨーロッパ風の街並がモダンな雰囲気を醸し出す一方で、日本軍の不穏な影で緊張感がみなぎっている。民族も背景も異なる雑多な人々が入り乱れる中、野望、陰謀、憎悪、その他諸々の思惑が交錯する都市。政治や歴史観の問題はとりあえず抜きにして、ドラマの舞台としてこの上なく魅力的だ。

 香港の大学生クァン(ワン・リーホン)たちは抗日愛国演劇を企画、素人ながらも熱演したチアチー(タン・ウェイ)の大好評もあって観客の反応は良かった。しかし、激しさを増す戦火をどうにもできない彼らの気持ちはジリジリと焦る。そうした時、クァンの同郷人のツテで、日本の傀儡・汪精衛(兆銘)政権の特務機関責任者として辣腕を振るうイー(トニー・レオン)に接近する機会が得られた。イー暗殺のため、大富豪夫人に成りすましたチアチーが送り込まれる。

 原作は張愛玲(アイリーン・チャン)の短編小説「色・戒」(南雲智訳『ラスト・コーション 色・戒』集英社文庫、2007年、所収)。原作では、映画でいうとラスト近く、宝石店のシーンが中心だが、映画ではそこに至るまでのプロセスを大きくふくらませている。濡れ場がかなり際どい。ゴクッと生唾を飲み込む音が隣に聞こえないかと心配しつつ、中国映画も今やここまでやるのかと驚いた。

 猜疑心が強く慎重なイーの懐に入り込むため、チアチーも単に演技というレベルを超えて、自らの心を殺して本気にならねばならない。しかし、イーが心のバリアを外していることに気付いた途端、彼女の感情に一瞬の変化が萌した。それは彼女の破滅であり、同志に対する裏切りをも意味するのだが…。このたった一瞬をリアルに映像に写し取るためと考えれば、延々と続くストーリーも激しいベッドシーンも説得力を持つ。

 これだけストーリーをふくらませるなら、イーの人物造型にもっと奥行きがあってもよかったのではないか。彼はいわゆる“漢奸”である。民族の裏切り者として憎まれている立場をよく自覚している。そうした人物ならではの屈折したニヒリズムが浮き彫りになればチアチーとの絡みにもさらに凄みが出たように思う。トニー・レオンのダンディなシニシストといった趣きはさすがに絵になるものの、彼の甘いマスクはある種のどす黒さをかき消してしまう。

 ワン・リーホンの理知的にすずやかな表情が目を引いた。何かで見たことがあると思っていたら、「真昼ノ星空」(中川陽介監督、2004年)で鈴木京香の相手役となった青年だ。

 以前、中国文学者・藤井省三さんの本を読んでいたら、学生の頃に張愛玲の名前を出したら中国人留学生から笑われて釈然としなかった、というエピソードがあった。彼女は通俗小説で知られるが、中国語圏では根強いファンがいる。先日、台北の書店を回った時にも、「ラスト・コーション」上映に連動させているという理由もあろうが、あちこちの特集コーナーで平積みされていた。張愛玲、汪精衛政権とくると胡蘭成の名前が思い浮かぶが、イーに彼の姿が重ね合わされているかどうかは分からない。

【データ】
英題:Lust, Caution 中文題:色・戒
監督:アン・リー
2007年/アメリカ・中国・台湾・香港/158分
(2008年2月24日、日比谷、シャンテシネにて)

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