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2008年2月21日 (木)

井上井月という人

 『つげ義春作品集』(日本文芸社、1998年)を読んでいたら、「蒸発」という作品に気持ちがひかれた。

 眼が虚ろで影のうすい古本屋の主人。空気のようにフワフワとした印象。彼は自らを“無用の者”というが、いわゆる“拗ね者”意識とはちょっと違う。この世の無常をどこか悟ってしまい、物事のなりゆくままを淡々と受け入れていくような感じ。「まあ、私はほんの一時的にこっちに、この世に来ているだけですから…」というセリフがある。たまたま生まれて、たまたまここにいるだけのこと。仮寓の自覚。

 彼は、郷里の先人だからといって『漂白俳人 井月全集』という本を語り手(おそらく、つげ本人)に渡す。ページをめくりながら井上井月という人物を思い描き、それがおのずと古本屋の主人の姿に重ね合わされていくという話。

 井月──“せいげつ”と読む。幕末から明治にかけて信州、伊那谷に実在した俳人らしい。伊那谷といえば、今は加島祥造がいる。英文学者だが、最近は老子についての本を書いている。そういうタイプを引きつける土地柄なのか。意図して“仙人”的な雰囲気を出しているところにいびつなコマーシャリズムを感じて私は好きじゃないけどね。

 井月はある日ひょっこりと伊那谷に現われ、そのまま居ついたらしい。素性はよく分からない。風貌は冴えないものの、その深い学識と達筆な書に村人は驚いた。俳句の宗匠として尊敬されたが、酒を呑んでは家々を泊まり歩き、やがて疎んじられるようになる。最後は枯田で糞まみれになって死んだ。

 心ない村人から邪険にされ、子供たちからは「しらみ井月、乞食井月」とはやしたてられ、石をぶつけられても意に介さない。決して怒らず、ニコニコと穏やかな表情ですべてを受け入れる。つげ作品だからじっとりとした暗さがあるのは当然だが、その中でも不思議な清涼感に印象付けられた。

 早速、井月に関する本を書店で探した。俳句鑑賞に重きを置いた内容の本が2冊ばかりあったが、あいにく私は俳句に興味はない。江宮隆之『井上井月伝説』(河出書房新社、2001年)は小説仕立ての評伝で読みやすそうだったので買い求めた。井月と多少関わりのあった人から彼の俳句を教えられた芥川龍之介が興味を持つシーンから説き起こされる。小説なのでかなりイマジネーションでふくらまされているようで、どこまで井月という人物を写したものなのかは分からない。

 井月のようなタイプはいつの時代でも人知れず、いる。人に知られることを望んでいないし、また関心もない。そんな彼が人の気持ちを不思議と引きつけるのはなぜだろう。各自が心中に抱えている妙にこわばったプライドやら何やらを無意味と思いつつ捨てられない、そんな不自然さを薄々自覚しているからだろうか。

 漂泊という点では種田山頭火も思い浮かぶ。彼もまた井月に思い入れがあったらしい。しかし、江宮氏も指摘するように、山頭火の自我への強烈なまでのこだわりは、井月とはまた異質なものだ。

 すべてをかなぐり捨てて純粋に透明になった状態、自他の別が消え去った心境。憧れつつも、難しい。なろうと思ってなれるものではないし、なろうという意図そのものがまた強烈な自意識としてこわばり始める。世間になずんだ生活なら、それもまた受け入れていけばいい。否定するのもまた無意味。すべては今ある自分のあるがままに生きて死ぬだけ。そう考えれば、誰でも井月と同様の心境になれるはず。あえて井月を意識したポーズをとる必要はないし、そんな意識はむしろ間違っていると思う。

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