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2008年2月15日 (金)

スピノザ『エチカ』から

 時折、気分の滅入っているとき手に取る古典がある。スピノザ『エチカ』もその一つ。手もとにあるのは畠中尚志訳の岩波文庫版、上下二巻。文体は古い。改版前のものを古本屋で見かけたことがあるが、旧仮名遣いだった。ラテン語直訳的で日本語としては非常に読みづらいのだが、あちこち線を引っ張ってある。シャーペンで引いたミミズのはったような線。しっかり定規を当てて引いた赤ペンの線。読むたびに違う箇所に傍線を引っ張ってきた。頭が疲れているとき、ページをパラパラめくりながらそうした箇所を拾い読みする。

 定義、定理、証明、Q.E.D.(証明終わり)を繰り返し、倫理の問題についてあたかも幾何学を解くように書き進める、素っ気ない本。その論理展開をいちいちおさえながら読むのは面倒くさい。おそらく私は、スピノザの思索を理解などしていないと思う。自分の思い込みだけで読んできただけなんだと思う。でも、それで安心立命を得てきたんだからいいじゃないか。所詮、オナニーみたいなもんさ。

「物は現に産出されているのと異なったいかなる他の仕方、いかなる他の秩序でも神から産出されることができなかった」(上巻、76頁)。

 私自身のあり様も含め、一切の物事には、今ある状態以外のどんな状態もあり得ないという端的な事実。当たり前のことなんだけどね。他の状態なんて本来的にあり得なかったのだから、クヨクヨしたって仕方ない。

 “スピノザの石”という表現がある。いま、石を投げたとする。もしその石に意識があったなら「自分はいま、自分の自由意志で空を飛んでいる」と考えることだろう──。“自由意思”なんて言い方はするが、単に“私がかく意志している”というその遠因が分からないだけのこと。こんな言い方をすると、運命決定論だとか敗北主義だとかやっきになって反論しようとする人がいるけど、どこか感覚が違う。こうあること、こうあらざるを得ないことをそっくりそのまま認めて引き受けること──“こう”とか、“その”とか、指示代名詞ばかりで雲をつかむような言い方になってしまうのがもどかしい。

 裏返せば、こうすべきと心の奥底でささやく確信を聞き取ることができたら、それもまた一つの真実なのだから、その確信に従って振舞えばいい。たとえば、何か不合理な扱いを受けているとして、それを甘受せよなどと言っているわけではない。導き手は私のうちなる“何か”だけ(良心、と言いたいところだけど、誤解されそうだから使わない)。マニュアルはどこにもない。

「徳とは人間の能力そのものであり、そしてそれは人間の本質にほかならない、言いかえればそれは人間が自己の有に固執しようと努める努力にのみ存する。ゆえに各人は自己の有を維持することにより多く努めかつより多くこれをなしうるに従ってそれだけ有徳であり、したがってまた人は自己の有を維持することを放棄する限りにおいて無力である」(下巻、31頁)。

 “有”といっても何のことやら分かりづらいが、英訳版を参照すると、beingとなっている。つまり、私がかくあることをそのままに出しきればいいということ。もちろん、自己吟味を経た上でのことだが。外的なものがどうであれ、私自身のあるがまま、私自身でしかないもの、それを自己肯定していくという態度は、表現こそ違えどもニーチェを思い起こす。ジル・ドゥルーズもそうしたところでニーチェと共通するようなことをスピノザ論で言っていたように記憶している。

 結果として失敗、もしくは破滅したって構わない。それが私の宿命なのだから、私は進んで死ねばいい。それだけのこと。たいした問題ではない。

「…人間の能力はきわめて制限されていて、外部の原因の力によって無限に凌駕される。したがって我々は、我々の外に在る物を我々の使用に適合させる絶対的な力を持っていない。だがたとえ我々の利益への考慮の要求するものと反するようなできごとに遇っても、我々は自分の義務を果したこと、我々の有する能力はそれを避けうるところまで至りえなかったこと、我々は単に全自然の一部分であってその秩序に従わなければならぬこと、そうしたことを意識する限り、平気でそれに耐えるであろう。もし我々がこのことを明瞭判然と認識するなら、妥当な認識作用を本領とする我々自身のかの部分、すなわち我々自身のよりよき部分はそれにまったく満足し、かつその満足を固執することに努めるであろう。なぜなら、我々は妥当に認識する限りにおいて、必然的なもの以外の何ものにも満足しえないからである。それゆえに、我々がこのことを正しく認識する限り、その限りにおいて、我々自身のよりよき部分の努力〔欲望〕は全自然の秩序と一致する。」(下巻、94~95頁)

 かくあること、その一点だけで、自分のあり様は大きな世界と重なっている。だから、不安に感じてソワソワする必要は本来的にはない。そういえば、パスカル『パンセ』の次の言葉も思い出した。有名な「人間は考える葦である」の一節だが、この言葉の使い方を意外と間違っている人をときどき見かける。続く後段もよく読んでみましょう。

「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は、何も知らない。
 だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。」(前田陽一・由木康訳、中公文庫、1973年、225ページ)

 自分の存在する理由をどこかに“具体的に”求めようとすると必ず間違う。かくある自分というものを、大きな構図の中で、「ああ、そういうことなんだな」と納得できればそれでいい。自分を突き放した視点に立って、生き死にもひっくるめて大きく俯瞰してしまえば、意外と気持ちが楽になる。そうした自身をめぐる世界のありようをリアルにそのまま理解することが、“考える”ってこと。それを小難しい表現で“哲学”って称しているだけ。池田晶子さんが言っていたのも基本的にはそういうことだったと思っている。

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