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2008年1月12日 (土)

台北を歩く⑦北門から大稲埕へ

(承前)

 1895年、日清戦争後の下関条約によって日本の台湾領有が決まった。台湾にいた人々の間ではこれを不満に感じ、台湾巡撫として赴任していた唐景崧を総統に立てて台湾民主国の独立を宣言する動きがあった。ところが、基隆に日本軍が上陸すると民主国首脳はさっさと大陸に逃げてしまい、統制のとれなくなった軍隊が台北府内で略奪を始めるなど混乱した状況を呈する。そこで秩序回復のため日本軍を城内に導き入れようと、豪商の辜顕栄が代表として基隆に赴いた。日本軍が北門に到着すると、城内にいた陳法という老婆が梯子をおろして手引きし、日本軍は台北への無血入城に成功する。

 北門以外の城門は日本によって壊されたり、放置されて崩れてしまい、戦後になって復元されたものだが、この北門のみは辛うじて清朝時代から残っているらしい。ただし、高速道路が頭上をかすめており、史蹟というには意外なそっけなさ(写真39写真40)。東京の日本橋と同じ状況である。

 北門のあるロータリーに面して台北郵局の堂々たる姿(写真41)がある。戦前からずっと郵便局として使われている。北門前の忠孝路は台北で一番のメインストリートで車の流れが激しく、横断するだけでも一苦労だ。道路中の島状になった中継点から台北駅方面を撮影(写真42)。左、水色の頂きのある赤い屋根が台北駅。右のノッポビルが台北市内で二番目に高い新光人寿保険摩天大楼。このビルに新光三越百貨店が入っている。

 道路を渡りきった所に鉄道局がある(写真43)。日本統治時代から鉄道局として使われてきた建物だが、改修作業の最中のようでドームに覆われている。現在、ここで業務は行なわれておらず、中に入ろうにも立入禁止となっていた。入口だけ撮影(写真44)。裏手に回ると、やはり戦前からある鉄道工場の保存・改修工事の様子が見えた(写真45)。北門近辺一帯で再開発のプランがあり、鉄道局の保存・改修工事もその一環らしい。

 鉄道局の裏手には日本統治時代から日本人の鉄道職員用に戸建て住宅があり、敗戦後六十年もの星霜を閲した現在でもひっそりとしたたたずまいを見せている。庭の木々が大通りの喧騒や排気ガスを遮って、静かな別世界。ただし、街並みは荒れている。人の気配がほとんどない。北門近辺の再開発エリアに組み込まれているようで、この一帯は近いうちに更地になる予定らしい。日本人住宅には国民党と共に台湾へ来た軍人や公務員が住み、そうした住宅街を眷村という。ほんの二、三軒ばかり、洗濯物を干している家があった。転居を頑強に拒んでいるのだろうか。行き場のない孤独な老後を過ごす外省人なのかもしれない。侯孝賢監督「童年往時」(1985年)は高雄近郊の眷村を舞台として大陸の故郷を想いつつ亡くなっていった家族の姿を静かに描き出していたが、その孤独で淋しげなたたずまいをふと思い出した。

 写真46は日本式住宅街の一角。ボヤをおこしてそのままの家がある。右奥に見えるのが台北駅前の新光人寿保険摩天大楼。人の姿を見かけない代わり、犬や猫が闊歩している。屋根の上から猫がこちらを見ていたので一枚撮った(写真47)。

 鉄道局を後にさらに北上して、座標軸の西北ブロックに入る。大稲埕と呼ばれた地域である。もともと萬華・大稲埕ともに台湾人がつくった街だが、日本統治時代には商業の中心はこちら大稲埕の方に移っていた。車が一台ようやく通れるくらいの路地の両脇には四、五階くらいはある建物がすき間なく建ち並んでいる。問屋が集まっており、ちょっとうろついただけでも繊維問屋街、薬種問屋街、乾物問屋街をくぐり抜けた。観光スポットとしては迪化街が知られている。

 日本統治時代から実力を蓄えていた台湾人豪商の邸宅もこの大稲埕に散らばっていた。写真48は李春生紀念教会である。李春生は台湾の代表的豪商の一人。クリスチャンだったことにちなみ、彼の住んでいた所にこの教会が建てられたらしい。

 植民地支配は被支配者に対する抑圧構造を内包させる。日本による台湾の植民地支配が軌道に乗る一方、1920年代になって、台湾人の権利を合法的に向上させようという動きが始まった。台湾人の参政権を求める知識階層が集まり、台中の名望家・林献堂を総理、大稲埕で医院を開業していた蒋渭水を幹事として台湾文化協会が結成された。活動の一環として「港町文化講座」が開設されたが、それは現在の李春生紀念教会の斜め向かいあたりだったという。

 この教会前をさらにまっすぐ北上すると、古くてどっしりとした構えの建物が右手に現われた(写真49写真50)。陳天来という茶商の邸宅である。路地が狭いので正面からの撮影はできない。表札を見ると現在の持主の名字は異なっていた。日本統治時代に港町と呼ばれたこの通りには茶商が集まっていたらしい。李春生も茶の貿易で巨富をなした一人である。

 港町という名前から分かるように、淡水河に面した港がすぐ近くにある。河畔に出てみようと道を曲がると大通りにぶつかった。車の流れが激しく、横断するのに躊躇してしまう。濛濛たる排気ガスにせきこむ。朱天心『古都』でも、旧大稲埕を歩き回った最後にこの淡水河岸に出ようとするが、やはりトラックにひき殺されそうになりながら慌てふためくシーンがあった。写真51が淡水河畔への入口。写真52の碑文には淡水河沿いの港の位置が記されている。対岸は三重市で、台北近郊圏が河を越えて広がっている。

 街中に戻った。次の目標は辜顕栄の邸宅である。ガイドブックを参考に狭い路地に入り込む。現在は彼の号をとった榮星幼稚園があるが、その奥の方はよく見えなかった。前にも述べたように、辜顕栄は日本軍の台北入城に積極的な役割を果たし、その後も日本と協調することで事業を拡大させた。1934年には貴族院議員に勅撰されている。息子の辜振甫も実業家として活躍し、中台間の交流機関である海峡交流基金会会長を務めたことで知られている。

 迪化街を横切って帰綏街を東に進み、日本統治時代に遊郭があったという場所に出た。戦後は公娼地区となっていた辺りを歩いてみたが、つぶされて新しく公園となっており、それらしい雰囲気は跡形もない。

 日本の敗戦後、台湾は中華民国の統治下に入ったものの、国民党の放漫な経済政策のため人々の生活は壊滅的な打撃を受けていた。1947年2月27日のこと。闇タバコを売って女手一つで子供を育てていた女性が専売局の闇タバコ摘発隊につかまった。タバコを没収されたばかりか、殴られて金品を巻き上げられ、彼女の泣き叫ぶ姿を見て常々の不満を爆発させた人々が摘発隊員を取り囲んだ。言葉が通じないことも騒ぎを一層大きくしてしまった。摘発隊員が威嚇発砲したところ、群集の一人に命中して死亡。翌2月28日、抗議デモが大稲埕にあった専売局分室に押しかけたのをきっかけに、台湾全島で反国民党運動が沸き起こる。これ以降一ヶ月もの間にわたって続いた国民党軍による武力弾圧を二・二八事件という(→参照)。

 写真53が、二・二八事件のそもそものきっかけとなった、女性が殴られた辺りの現在の風景。この近くには、日本統治下において台湾人の権利向上のための運動を組織した蒋渭水の医院もある。

 波麗路西餐廳(ボレロ・レストラン)の前を通りかかった。1934年に開店した歴史の古いカフェである。当時は台湾人知識人がこの店に集まり、台北帝国大学の人類学者・金関丈夫や民俗学者・池田敏雄などもよく訪れたという。現在は洋食屋として知られているらしい。まだ夕方の16:00なので食事には早い。さっきの餃子がまだ腹にたまっているし。明日また来ようと思って通り過ぎたのだが、結局行けなかった…。
 
 旧大稲埕を後にして東へ歩く。書店をいくつかひやかすことにした。まずは、中山北路沿いにある永漢書局。邱永漢が経営する書店である。雑居ビルの四階にあり、フロアの半分は日本語書籍専門の売場となっていた。やはりビジネス書が多い。長い間置きっぱなしなのか背の茶けた本が目立つ。同じビルの三階は永漢日語という日本語教室となっており、これは街中を歩いていても時折みかける。エレベーターで降りる時、“開”ボタンを押して年配の男性を先に通そうとしたら、私の眼をまっすぐ見て丁寧に「謝謝」と言われたので、かえって恐縮してしまった。自然にやっていたのだが、台湾では珍しいことなのか?

 MRT中山駅地下に降りた。この地下街の北側は書店街となっている。ただし、特価本が多いようで、興味をそそられる本はそんなにない。せっかく来たので、朱天心の短編集を一冊買った。

 夕食は鼎泰豊本店に行くことに決めていた。永康街という所にあるのだが、近くに駅はなく不便。しかしながら、今回は台北の街をとにかく歩くことが目的。タクシーは使わず、MRT忠孝新生駅から大通り沿いに歩いた。駅を出ると、もう外には黒い帳が降りている。迷わないかと少々不安もあったが、台北の街並は整然とした碁盤目状なので歩きやすい。それに、私は意外と方向感覚が悪くない。鼎泰豊に着くと、店前では大勢の客が待っている。日本語がとびかい、店員さんも日本語を使うので、どこの国にいるのか一瞬分からなくなった。予約してあったので、意外と早く入れた。

 帰りは信義路をまっすぐ歩く。道路のあちこちで工事をしている。近いうちにここにもMRTが通るようだ。30分もしないうちに台湾民主紀念館の横にさしかかった。入ってみると、ライトアップ用のライトの前で少年たちが踊って影絵遊びをしている。敷地内にある国家音楽庁へと急ぐ人々とすれ違った。時計を見ると、19:30。ちょうどコンサートが始まる時刻のようだ。

 写真54はライトアップされた総統府。その隣にある台湾銀行にも元旦を祝うイルミネーションがまばゆい(写真55)。こちらは戦前も台湾銀行といった。鈴木商店への不良融資で金融恐慌をおこしたあの台湾銀行である。もちろん、現在の台湾銀行と組織的なつがなりはない。

 台北駅前、重慶北路の書店街をぶらぶらひやかし、誠品書店台北駅地下店で何冊か買いこんでから宿舎へと帰った。第二日目終了。

(続く)

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