台北を歩く④台湾民主紀念館にて
(承前)
1947年2月28日。闇タバコ摘発隊の行き過ぎた暴力に不満を持った台湾人が専売局前に集まって抗議、そして現在の行政院(当時は台湾省行政長官公署)前までデモ行進を行なった。台湾行政長官は陳儀。警備隊は厳戒態勢をしいており、集まった台湾人に向けて機関銃を掃射、多数の死傷者を出す。憤った台湾人群衆は近くの公園(現在の二・二八和平公園)内にあった放送局を占拠して「台湾人よ、立ち上がれ!」と全島に向けてメッセージを発した。
これ以降、一ヶ月に及んで続いた国民党軍による武力弾圧を二・二八事件という。公式発表として2万8千人が殺されたとされているが、正確な数字は分かっていない。とりわけ知識階層が狙い撃ちされたため、台湾人の指導的な人物がいなくなり、政治に関わると命が危ないという恐怖心を植えつけられてしまったという。この事件によって本省人(台湾人)と外省人(国民党と共に台湾に来た大陸の人々)との間に生じた亀裂は戦後の台湾史に複雑な影を落とし、現在に至るも大きな政治的争点として激しい論争が繰り返されている。放送局の建物は現在、二・二八紀念館となっている(→参照)。
台北駅南側のブロックは日本でいうと永田町・霞ヶ関といった地域である。中山南路を南下。監察院の横には立法院、つまり台湾の国会がある。このすぐ隣に古くて風格のある教会があった。台湾基督長老教会・済南教会となっている(写真11、写真12)。李登輝もここで礼拝したそうだ。戦前は日本基督教団の台北幸町教会といったらしい。こんな官庁街のど真ん中に教会があるというのは驚いた。裏手をみると、日本式家屋が残っていた(写真13)。クリスマスの飾りがまだ片付けられていない。牧師さんの住まいだろうか。
中山南路の西側にはやはり古い大型建築がどっしりと構えている。現在の台湾大学医学部附属病院、日本統治時代には台北帝国大学附属病院だった所である。中山南路を挟んで向かい側には新館が高くそびえており、門柱の銘文は総統の時の李登輝の筆になる。台大病院旧館の隣には台北賓館、つまり迎賓館がある。戦前の台湾総督官邸である(写真14)。
台大附属病院・台北賓館の南はロータリーとなっている。清朝時代の東門が復元されており、それを円型に道路が囲む(写真15)。東門からのぞくと向こうには総統府が見える(写真16)。総統府・東門を結んだラインのこちら側には大きなビルディング(写真17)。比較的新しい。張榮發紀念基金とある。実は、この建物はもともと国民党本部だったのだが、野党に転落後、党財政が悪化、やむを得ず財閥のエバーグリーン・グループに売却したらしい。張榮發とはエバーグリーン・グループの創始者である。国民党は在台湾の旧日本資産をすべて接収したおかげで世界一の金持ち政党と言われたらしいが、歴史は着実に変わっているようだ。
東門の南側に大きな広場がある。戦前は日本の台湾軍第一連隊の駐屯地だった場所だが、現在は大きなお堂のような建物が鎮座している。去年までは中正紀念堂という名前だった。中正とは蒋介石の号である。改修工事が行なわれ、つい昨日、私がまさに台北に降り立った今年の元旦(中華民国の建国記念日にあたる)、新しい名前でリニューアル・オープンしたばかり。その名も、台湾民主紀念館。かつての中正国際空港が桃園国際空港と名称が変更されたように、陳水扁の民進党政権による台湾化政策は蒋介石にまつわる名前を次々と消し去っていく。広場の入口には大きな門があり、以前は「大中至正門」という扁額が掛かっていた。中正にちなんだ言葉だが、こちらも「自由広場」と書き換えられた(写真18)。
昨晩、宿舎でテレビ・ニュースをみていたら、この台湾民主紀念館開館について大きく取り上げられていた。紀念館の前で激しく口論する人々の姿が映っていた。台湾と大陸とでは蒋介石の扱いが対照的だという報道もあった。蒋介石の否定と台湾の独立志向とが密接に結びついているので牽制するつもりなのか、共産党にとっては仇敵であるはずの蒋介石だが、中国統一という観点から見直しが進んでいるという。他方、蒋介石の孫にあたる有名なファッション・デザイナーが「蒋家が台湾に与えた苦痛を深刻に受け止めるべきだ」と発言して驚かせてもいるらしい。複雑なねじれが興味深い。
紀念堂には長い階段があり、蒋介石の享年にちなんで八十九段ある。そのたもとに、車椅子に乗った80代くらいのおじいさんがポツンと佇んでいた。傍らを通りかかったとき、日本人観光客とおぼしき60代くらいの男性が「ここは昔、蒋介石紀念館といったんですか?」と声をかけていた。一瞬、間があった。男性が「日本語、分からない?」と言ったら、やおらおじいさんは中国語で何かまくし立て始めた。おそらく、蒋介石と一緒に台湾にやって来た外省人なのだろう。台湾化政策が進むにつれて、彼ら外省人の立場は苦しくなっている。大陸に残した家族とは切り離され、かといって台湾社会にもなじめず、孤独な生活を送っている老人たちの存在は一つの社会問題となっている。そうした老人にとって蒋介石の名前を冠した紀念館の変わり様はやはり複雑な感慨があるはずだ。くだんの日本人男性は、年配の台湾人はみな日本語教育を受けているはずだという考えがあったのだろうが、本省人と外省人との関係について配慮する用心を欠いていたのは軽率なことのように思った。
写真19が紀念堂。かつて「大中至正」と書かれていた扁額は「台湾民主紀念館」と書き換えられた(写真20)。蒋介石の大きな座像が正面をまっすぐに見据えている(写真21、写真22)。かつてはこの両脇を儀仗兵が警護していたのだが、今では代わりにたくさんの凧が舞っている。有名な現代アーチストによる演出らしいが、昨晩のニュースによると賛否両論だという。また、「還我民権」という言葉が見える。我に民権を還せ──国民党政権による人権抑圧の歴史を示したパネルがあり、座像の両脇には犠牲者の名簿が置かれている。本来は蒋介石の“偉業”を褒め称えるための施設だったが、座像は壊さずそのままに、評価を180度転回させ、人権弾圧の歴史を忘れないためのシンボルとして位置づけられるようになった。
一階に降りると展示室となっている。全く対照的な解説展示で完全に半分に分けられている。片方では、以前のままに蒋介石の生涯を紹介する資料が陳列されている。写真23は執務室を再現した部屋の様子。蒋介石の蝋人形が置かれている。また、写真24は広東蜂起の頃、孫文と若き日の蒋介石が向かい合った大きな絵である。この一月から三月までにかけて台湾は選挙の季節で、テレビでは各政党のCMが繰り返し流されている。民進党のCMには、この絵のオリジナルとなった写真をCGでアニメーションのように動かし、孫文が蒋介石を叱り飛ばすというものがあった。
展示のもう半分では二つの特集展示。一つは、「台湾人権之路」展。ロック、モンテスキュー、ルソー以来の基本的人権の歩みの中で台湾の歴史を位置づけるという趣旨である。日本統治時代はオランダ、清朝の時代と共に一章にくくられているのに対し、国民党による弾圧については三章にわたって詳細に説明されているのが目を引いた。この隣では「報禁解除二十周年紀念」展が行なわれていた。1987年、晩年の蒋経国によって報道規制が解除されたのを記念した展示で、それまでに弾圧を受けた報道機関や作家・学者・ジャーナリストたちを詳細に紹介している。
こうした全く相異なる二種類の展示が向かい合っているところに、現在でも台湾社会が引きずっている政治的亀裂が垣間見える。
(続く)
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