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2008年1月26日 (土)

覚書②医療現場での“自己決定”について

(覚書の続きで、医療現場で患者自身の自己決定はできるのかという問題です。)

 ALSの患者にとって、人工呼吸器をつけるかつけないかの選択は、生きるか死ぬかの問いと直結するため、非常に厳しい決断を迫られることになる。もちろん、難病患者にとっての切実さは、他の健康な人の安易な想像を許すようなものではない。しかし、極端なまでの厳しさは、“自分で決める”にはどのポイントが核心として問われるべきなのかを鮮明にするとも言える。そうした意味合いで、単にALS患者の問題であるばかりでなく、他の人々にとっても考えるべき示唆が含まれている。
 
◆インフォームド・コンセント
 医療における意思決定というテーマは、まずインフォームド・コンセントをめぐる問題である。患者がこれから受ける医療行為について十分に納得できるような説明を医師は行わなければならない。こうした考え方は、最近では当たり前のものとなっている。
 インフォームド・コンセントの考え方が初めて明記されたのは、第二次世界大戦直後、1947年に制定されたニュルンベルク倫理綱領である。かつてナチスは、障害者や社会的マイノリティー、戦争捕虜など、弱い立場にある人々に対して組織的に人体実験を行ったが、これに対する反省が込められている。この考えをさらに確認するために、1964年にはヘルシンキ宣言が採択された。
 医学の進歩のためには何らかの形で人体実験も必要となる。しかし、弱い立場の人間に押し付けるのは人道に反する。そこで、人体実験の被験者となる場合には、自発的な同意が必要であることを定めた。言い換えると、マイナスの効果を及ぼす医療行為をされない権利として出発したのであり、当初は治療の現場で選択肢を提示するという患者の主体性に主眼を置いたものではなかった。

◆自己決定権
 近年では、むしろ自己決定権という積極的な側面においてインフォームド・コンセントは話題となる。どのような医療を受けるか、さらには自分の生死に関わる場面でどのような決定を下すか。医師の言うままになるのではなく、自分のことは患者自身が決めるという要求が社会全般から強まった。そのために必要な情報開示としてインフォームド・コンセントは位置づけられるようになった。
 医療技術の進歩によって延命治療が可能となり、身体的自由がきかないまま療養生活を送るケースが多くなった。“スパゲティ症候群”という言葉に象徴されるような延命治療への懐疑が広まったことが背景としてある。つまり、“生きがい”の確保できない生命は「生きるに値しない」という見解を表明する人が多くなったのである。

◆医療現場での問題点
 医療現場においては以下が問題となり得る。
①インフォームド・コンセントの考え方にそって十分な運用がされているのか。
 たとえば、医師の側の態度として、患者が理解したかどうかは顧慮せず医師は一方的に説明をする。とにかく説明はしたんだから、あとは患者の問題だ。そうした態度で、何か問題が起こったとしても、これは患者の自己決定よるものだとして責任を押し付けてしまうのを正当化する口実にもなりかねない。
②生死のぎりぎりの場面でどこまで自己決定があり得るのか。
 インフォームド・コンセントでは、自分にまつわることは他人頼みにはせず、すべて自分で取り仕切るという人生観が前提となっており、納得して決定を下すために十分な情報を医師は提供すべきことが要求される。つまり、個人主義的な色彩の強い「自律」という観念が出発点になっていると言える。
 従来、日本は家族共同体的で他者への依存傾向が強く、医療現場においては医師という権威者に対してパターナリスティックな人間関係が色濃いと言われてきた。日本が国際化する上ではこの「自律」の観念を受け容れなければならないという議論が様々な分野でなされ、そうした動向の一環としてインフォームド・コンセントの話題も位置づけられた。また、実際に「自律」の観点からインフォームド・コンセントをうまく活用している人も多い。
 しかし、以下の問題もある。第一に、文化風土から規定された思惟形式は一朝一夕には変わらない。したがって、自己決定の重さに耐えられない人も多い。ビジネスの現場では「自律」的な人生態度を取ってきた人であっても、いざ生死に関わる究極の場面にぶつかると、それまでの人生態度を貫き通せないこともある。第二に、「自律」というのはあくまでも理論上のフィクションに過ぎず、実際には欧米であっても「自律」に耐え切れないケースが多いという指摘がある。個人主義的な傾向の強いアメリカ社会でも心理カウンセラーにかかる人が多いのはその証拠であって、アメリカでも自律的人間モデルに耐えられるのか疑問も投げかけられている(たとえば、コフート)

◆苦痛の緩和
 真に問題となるのは何か。個々のケースに応じて違うだろう。
 まず、苦痛の問題。あまりに激しい痛みに耐え切れない場合。第一に、苦痛を和らげる処置が、結果として縮命につながる場合。これはやむを得ないと考える人が多い。第二に、苦痛回避のために意図的に死を選ぶ場合。積極的安楽死。道義上、刑法上の問題となる。

◆精神面での耐え難さ
 ただし、医療技術の進歩により、苦痛そのものを和らげることは可能となりつつある。そのため、「安楽死」という言葉には苦痛回避という意味合いが強いが、かわって「尊厳死」という表現が用いられるようになっている。
 苦痛そのものよりも、気持ちの取り方をどのように考えるかが次の問題となる。第一に、意識はあるのに身体的に動けない場合の精神面での耐え難さ。第二に、他人に依存した生活を送らざるを得ない場合のプライドの傷つき。こうした精神面での耐え難さから死を選ぶ傾向が強まってきた。

◆純粋な決定はあり得るのか
 ここで問題となるのは、患者が鬱状態に陥っている場合である。気分がふさぎこんでしまった時に発する「死んでしまいたい」という言葉は素直に受け取ることはできない。したがって、信頼のある人間関係の中で患者自身の真意を探りとる必要がある。
 一切のノイズを排して純粋に「自分」の「意思」で「決定」するということはあり得るのか、もしあり得るとしたらどのような条件が必要なのか。もしあり得ないなら、どこまでなら妥協できるのか、その妥協する場合に比較の対象となる自己決定の純粋形モデルは一体どのようなものなのか。こうした点を吟味しておく必要がある。しかし、純粋な「自己」なんてものがそもそもあり得えない以上、影響を被るノイズとしての要因をどこまでなら許容できるのかという話になるだろう。

◆決定の際の周囲の態度の取り方
 欧米では「自律」の考え方が確立されているのに対して日本では遅れているという文化論的な話題がよく見られる(「近代的個」の確立を主張した丸山真男政治学をはじめとしてあらゆる分野で)。医療における自己決定というテーマにおいても、この話題が議論の中心テーマの一つとなる。しかし、この考え方がそのまま通ずるのであろうか。
 たとえば、欧米における尊厳死のイメージを見ると、家族や友人達と囲まれる中で死を迎えることが強調されている。それが日本で報道されると、本人の決定を周囲が暖かく受け止めたという筋立てになる。
 だが、別の見方をすれば、家族や友人など信頼のある人間関係の中で長い時間をかけながら考え抜くというプロセスがあったからこそ、決定を下すことができたと言えるのではないか。つまり、アトム的に孤絶した「個」という立場で判断したのではなく、周囲からの様々な反応も見ながら、自身も周囲も納得できる形で最終的な決断が下されている。言い換えると、ノイズを排除した自己決定の純粋モデルなどはあり得ない。
 そこで、次に焦点が絞られるのは、周囲からの反応の取り込み方、決定に際してのコミュニケーションのとり方をどのようにすればいいのかという問題である。それは、「サポート」という性格のものではない。決定しやすい条件整備をするにしても、どんな条件があり得るのか分からないし、下手すると周囲から外堀を埋めることで不本意な方向に患者本人を追い詰めることにもなりかねない。また、本人に一人で考える負荷を必要以上に大きくしてしまう。
 そうではなく、周囲の人々それぞれとの個別的な関係の中で意思を通じさせる。反対の意見があるなら正直に反対してもらう。そうした意見交換の積み重ねを経て、周囲の人々の本心を見極める、それは本来的にできないことであっても見極めたように自身が納得する、そうした作業が前提として必要となるだろう。つまり、本人の意思を尊重する=本人の意思だけで押し通すということではない。本人の意思だけでなく、周囲の人々と納得した感覚を共有できたときに、本人もまた安心する。
 患者が不安になるのは、近い将来に予想される苦痛や死ばかりではない。仮に介護を受けねばならないとする。家族に負担がかかるが、それを家族はどのように受け止めるだろうか。ひょっとしたら顔では笑っていても、内心いやがっているのではないか。そうした周囲の人々に対する気兼ねが療養生活においても心理的にマイナスの作用を及ぼすことになる。自分の決定を周囲が嫌がると介護において不利益を受けるということではなく、そもそも周囲との関係があってはじめて自分がいるということ。周囲との具体的なあり方は文化によって違うだろうが、何らかの形での関係があることに変わりはない。つまり、関係を考慮しながら決定するのではなく、決定もまたそうした関係性の中の一環として組み込まれているということ。 

◆本人の意思と家族の意思、どちらを優先させるか?
 立岩真也と清水哲郎とで次のような見解の相違がある。
 告知の際、家族と一緒に知らせるか、それともまず本人だけに知らせるか。患者自身にとってのQOLの問題と家族の負担とがぶつかってしまうとき、具体的には経済的コストやケアの肉体的負担、生活上の時間拘束によるストレスなどが考えられる場合にどうするのか?という問題につながる。
 清水は、患者本人と家族との共同決定が望ましいという見解。立岩は、それだと家族に遠慮して本人のQOLが犠牲にされるおそれがあるから、まず本人の意思に即して、という主張。本来ならば清水の見解が妥当だろう。一方、立岩の批判には、共同決定というベールの下、家族への遠慮などで本人が言いたいことを言えない立場にあったとき、本人の意思が犠牲にされてしまうことへの懸念があり、なかなか難しい。

【参考文献】
・清水哲郎『医療現場に臨む哲学』勁草書房、1997
・清水哲郎『医療現場に臨む哲学2 ことばに与る私たち』勁草書房、2000
・立岩真也『ALS 不動の身体と息する機械』医学書院、2004
・『思想』2005年8月号、特集「医療における意思決定」岩波書店。
・水野肇『インフォームド・コンセント─医療現場における説明と同意』中公新書、1990
・森岡恭彦『インフォームド・コンセント』NHKブックス、1994
・星野一正『インフォームド・コンセント─患者が納得し同意する診療』丸善、2003

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