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2008年1月13日 (日)

台北を歩く⑧圓山・忠烈祠・芝山巖

(承前)

 三日目の朝。快晴。昨日は台北市の中心部を歩いたが、今日はその北のはじと南のはじを回る予定。

 宿舎を出て北上。朝食を摂れる店が見当たらず、コンビニでメロンパンを買ってぱくつきながら歩いた。台湾のコンビニでは包装済みの菓子パン、それからおにぎりは置いてあるのだが、サンドイッチ(三明治)など惣菜パンはない。その代わり、朝、駅の近くなどでは三明治を売っているおばさんを見かける。棲み分けをしているようだ。また、飲み物の自動販売機は公園など一部の区域を除き、街中で全く見かけなかった。ただし、コンビニ密度が極めて高いので、飲み物はちゃんと買える。台湾の水道水は硬水なので、うっかり飲むと腹を下してしまうから要注意。

 林安泰古暦へ行ったが、朝早いので閉まっていた。松山空港へと降りる飛行機が轟音を立てて頭上を通り過ぎる。台北市立美術館へ出た(写真56)。「海洋堂與御宅族文化」(海洋堂とオタク文化)展を開催中。海洋堂というのはフィギュア人形で有名な日本の会社である。こんなところでお目にかかるとは驚いた。

 ここから圓山へ向かって基隆河を渡るつもりだったのだが、橋は自動車専用らしく歩道がない。排気ガスを浴びながら立ちつくす。やむを得ず、最寄りの圓山駅へ行ってMRTに乗り、次の剣潭駅で下車。たいていの観光客は北口から出て士林夜市へと行くが、私は南口から出る。

 MRTは中心街では地下鉄だが、この辺りまで来ると高架路線となっている。かつて勅使道路と呼ばれた大通りと並行している。皇太子時代の昭和天皇が台湾神宮に詣でた道である。朱天心『古都』でこの高架路線は無粋だと文句をつけていたのを思い出した。この小説に時折“宮の下”という駅名が出てくるのが気になっていた。以前は北の淡水まで線路が敷かれており、現在の剣潭にあたる駅にそう名づけられていたらしい。つまり、台湾神宮参詣者のための駅であった。

 目の前に小高い山がそびえている。ふもとの大通りに面した道観の脇に階段があった。のぼると、圓山大飯店の駐車場に出る。かつての台湾神宮の故地である。戦争中、1944年に飛行機墜落事故で焼失、そのまま再建されることはなかった。祭神は大国主命・大己貴命・少彦名命、それから北白川宮能久親王。北白川宮は1895年の台湾進駐時に近衛師団長として上陸、陣中で病没したためここに祀られた。彼は彰義隊に擁立されて上野の寛永寺に立てこもった経歴もあり、皇族ながら数奇な人生が興味深い。

 日本の植民地支配でいつも不思議に思うのは、支配地に必ず神社を建てることだ。信仰の押し付けの無理という問題ばかりでなく、明治憲法体制下において国家神道は宗教ではないという見解が取られていたことも含め、現代の我々の感覚とはだいぶ距離を感ずる。当然ながら、そうした植民地の神社はすべて取り壊された。以前にソウルに行ったことがあるが、朝鮮神宮の跡地には抗日運動のシンボルとして安重根紀念館が建てられている。台湾神宮の跡地に建てられたのが圓山大飯店(写真57)。別に政治的理由はない。景色がいいからと宋美齢が蒋介石にせがんだから。トイレを拝借しようとロビーに入る。日本人観光客のざわめく日本語があちこちから聞こえてきた。

 ふもとに降りると、車の流れが激しい大通りに出た。圓山大飯店を見上げるように撮影(写真58)。剣潭旧址という碑文があった(写真59)。基隆河に降りてみた(写真60写真61)。高速道路の向こうに台北101がかすかに見える。川沿いにはサイクリングロードが整備されていた。

 忠烈祠まで歩く。圓山大飯店からはそんなに離れてはおらず、15分くらいか。日本統治時代、ここには護国神社があった。それをつぶした上に国民党軍の戦死者を祀るメモリアル・パークがあるというのが面白い。入口から廟堂に向かって3本の筋が続いている(写真62)。一時間ごとに儀仗兵の交代式が行なわれるのだが、その際に行進する跡がくっきりと正確に残っている。

 交代式まで時間があったので霊廟に祀られている位牌を一つ一つ確認した。女性革命家として知られる秋瑾の名前がすぐ目に入る。台湾での抗日運動で命を落とした人々の名前もあり、台湾を中華民国の歴史に組み込もうという意図がよく窺える。羅福星の名前が見えるのは当然だが、莫那魯道(モーナルダオ)や花岡一郎まであった。モーナルダオは1930年の霧社事件(こちらを参照)で原住民族の反乱を指導したタイヤル族の族長。花岡一郎はタイヤル族出身だが日本名を与えられて警官となっていて、霧社事件に際して日本人と出身部族との板ばさみに悩んだ挙句、自殺した人物である。何人か際立った人物の紹介文があったのだが、烏斯満(オスマン)というカザフ人族長が目を引いた。1951年、伊寧にて81歳で戦死。人民解放軍が新疆に進駐し、多数の国外脱出者を出した時である。

 そろそろ観光客が集まってきた。交代式の様子(写真63写真64)。基隆河を渡るときにまごついて予定がくるってしまっているので、次の目標地・芝山巖まではタクシーで行くことにした。「我想去這個…」と怪しげな中国語を口に出しながらメモ帳を見せる。運転手さんは了解!という感じに大きくうなずいた。タクシーの初乗りは70元。一定距離ごとに5元ずつ上がる。原油価格の高騰を受けて去年の10月に料金設定が改定され、メーターの5元ずつ上がるペースが速められているそうだ。それでも東京で乗るのに比べると安いと思う。

 芝山巖も小高い山だ。息を切りながら傾斜の急な石階段をのぼった。日本の台湾領有後間もなく、教育問題担当として台湾総督府に派遣された伊沢修二のイニシアティブでここに芝山巌学堂が開設されたのだが、1896年、地元民に襲われて六人の日本人教師が殺害されるという事件が起こった。伊沢は北白川宮の遺体に付き添って一時帰国していたので難を逃れた。その後、この事件は“芝山巖精神”として称揚され、植民地教育の格好な宣伝材料となる。なお、伊沢修二は日本の初等教育、とりわけ音楽教育の基礎を築いたことで知られる。弟の伊沢多喜男は民政党の加藤高明内閣の時に文官として台湾総督に就任した。

 伊藤博文の揮毫による「学務官僚遭難之碑」が今でも残っている(写真65)。戦後は倒されたまま放置されていたが、陳水扁が台北市長の時に立て直されたという。台湾では六氏先生事件といわれているが、その経緯を示すパネル(写真66写真67写真68)もある。碑文の後方に雨農閲読室というガラス窓の小さな建物が見えた。事件に関わる紀念館なのかと思って入ってみたが、自習室として利用されているようだ。法曹資格か公務員試験か、弁当持参の男性二人が熱心に勉強していたので、邪魔にならないよう静かに退室。抗日運動のシンボルとなっているはずだが、同時に教育の聖地としての意味合いも保たれているのだろうか。

 この山は現在、自然公園として整備されている。太極拳の練習を終えたジャージ姿のおばさんたちが歩くのものどかな雰囲気だ。近所の小学生たちが先生に連れられてワヤワヤと通り過ぎた。四阿(あずまや)があったのでしばし休息。まだ11時、空は青く澄みわたり、そろそろ陽も南中しようかという頃合。木立に囲まれた中に座る。風は少し強い。日本でいうと晩秋を思わせる冷気を浴び、それがかえって清々しく心地よい。

 石階段を降りる。戦前は芝山巖神社があったそうだが、確かに鳥居が似合いそうな石段である。降りきって大通りを挟んだ向かい側にも芝山巖事件についての大きな碑文があった(写真69写真70)。山のふもとでは石器時代の遺跡がドームに覆われて資料室となっている(写真71写真72)。入口の看板は馬英九の筆による。陳水扁の次の台北市長で現在は国民党の総統候補である。また、恵済宮という道観もあった。道教も日本の神道と同様に民間信仰としてのアニミズムが混淆しているという印象があるのだが、こちらでも山が崇拝対象になるのだろうか?

(続く)

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