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2008年1月18日 (金)

白川静『孔子伝』

 私は中学生の頃から『荘子』が好きだった。言葉は絶対ではない。『荘子』に見える逆説に満ちた寓話を通して、言葉では決して示し得ない何かに目を向けるという発想に早くから馴染んだことは、私の乏しい読書体験の中では唯一と言って良いくらいの収穫だったと思っている。もともと中国史に興味があったのだが、中国の古典を現代日本語訳したシリーズが徳間書店から出ており、それを読み漁っているうちに『荘子』と出会った。儒家のものは読まなかった。儒家は体制派、老荘は反体制という単純な先入見があったからだ。大学生になって『論語』を初めて読んだ。一つ一つのセンテンスが短いので、漢文の勉強のつもりでノートに書き写しながら。意外と違和感はないのがむしろ驚きだった。

 白川静『孔子伝』(中公文庫、1991年)は漢字についての徹底的な考証を踏まえて、倫理道徳の権化のような孔子像を崩し、古代世界に生きた生身の彼の姿を描き出そうとする。とりわけ私が興味を持ったのは、「孔子の精神は、むしろ荘周の徒によって再確認されているように、私は思う」(本書、270ページ)という指摘だ。「儒教のノモス化は、孟子によって促進され、荀子によって成就された。それはもはや儒家ではない。少なくとも孔子の精神を伝えるものではないと思う。儒教の精神は、孔子の死によってすでに終っている。」「イデアは伝えられるものではない。残された弟子たちは、ノモス化してゆく社会のなかに、むなしく浮沈したにすぎない。」

 孔子の思想の核心は“仁”という一言に尽きるのだろうが、「他人への思いやりの心」と言い換えてしまうと陳腐だし、無意味だ。要は人それぞれが心の中に秘めている純粋さ、誠実さを呼び覚まそうということで、それは具体的に定義できるものではない。そうした心情的な何かを形式として表出させれば“礼”となる。孔子は伝統的古俗を探りながらその“礼”をまとめ上げるわけだが、人としてのあり方を形式規範で縛りつけることを意味するのではない。天地の間に生きる者として、私は私であって私ではないという確信が得られれば、“仁”といい、“礼”といっても、ごく自然な感覚で体現できるのだろう。

 結局、“仁”の表われ方は人それぞれだと思う。「人それぞれ」と言っても、自分勝手な放恣を指すのではない。人は所与の条件の中で生きるしかない。様々な制約がある中でも、自分なりの純粋さ、誠実さを追求してみる。ただし自分を甘やかして独りよがりになりかねないから自己批判的に。古の伝統に“礼”を求めるのは、思いつき程度の独りよがりな思い込みを常に相対化するためだろう。その結果として、こういうあり方が自分にとって自然だと感じられれば、それこそが“道”であるとしか言いようがない。

 このような試行錯誤は手がかりがないだけに難しい。手がかりを外に求めたくなる。孔子の言葉に注釈を施し、規範化する動きが生まれる。規範に従うことで何かが分かったような安易な納得を求め、他人にもその規範を押し付けようとする。自身の生身の感覚を総動員した試行錯誤を欠いた場合、規範への順応は空疎となる。注釈と規範とによる一大秩序体系=ノモスがこの世を覆いつくし、個々人それぞれの可能性を平均化しようという抑圧が生ずる。しかしながら、「『論語』は、特に孔子の語を、一貫して流れているものは、そのようなノモス的社会とは調和しがたいものである。」(本書、254ページ)

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