ジグムント・バウマン『コミュニティ──安全と自由の戦場』
ジグムント・バウマン(奥井智之訳)『コミュニティ──安全と自由の戦場』(筑摩書房、2008年)
覆水盆にかえらず、という言い方が適切かどうか分からないが、いったん崩れてしまったら二度と取り返しのつかないものがある。たとえば、“コミュニティ”といわれる人間関係がそうだろう。感覚的に自明なものは議論の対象とはなり得ない。語られた時点で、もはやそれは存在しない。もちろん想像することはできるが、再現的に組み立てたところで、まったくの別物になり下がる。“コミュニティ”の再構築を試みたとしても、それは本来、自発的な帰属意識を意味していたにも拘わらず、不自然な強制を伴うという矛盾を必ずはらんでしまう。私自身はコミュニタリアニズムにどちらかというと好意的だが、このアポリアはどうにもならない。
ここしばらく、個人化、民営化、規制緩和といった言葉は日本でも当たり前になってきた。“近代化”という社会的動向の最大の特徴は、政治的・経済的・思想的に個人を括り付けてきた束縛を解きほぐすことにある。その果てには、経済効率性の向上による豊かさなり、自律的個人が対等に睦みあうユートピアなり、何らかの究極目標が了解されていた。しかしながら、「解放のために制限を打ち破るという、すぐれて近代的な情熱によって絶えず突き動かされながら、わたしたちはもはや、最終的な意図や目的についての明確なヴィジョンをもってはいないのである」(本書、106ページ)。ヴィジョンの明確だった“近代”を“solid modernity=堅固な近代”とするなら、ヴィジョンの不明瞭な現段階における“近代”をバウマンは“liquid modernity=液状的な近代”と呼ぶ(バウマン『リキッド・モダニティ──液状化する社会』森田典正訳、大月書店、2001年→参照)。
リキッドな社会において、個人レベルでの自由は格段に広がったように見える。しかし、“自由”は常に逆説をはらむ。“自由”な個人としての力を行使できるのはほんの一握りの人々に限定される(“事実上の個人”)。多くの人々は生物的に人間であるという一点において“自由”の可能性を持つとみなされるが、実際には困難である(“権利上の個人”)。成功者は容易に国境を越えてコスモポリタンと呼ばれるが、実際には他国の同様の人々と付き合っているだけで、意外と人間関係は閉ざされている。彼らは自分たちの地位を守るため“ゲーティド・シティ”に象徴されるような壁を周囲にめぐらす。他方、貧困層・難民など経済生産性の剥奪された人々は成功者の眼に触れない所に追いやられ、“ゲットー”に押し込められる(バウマン『廃棄された生──モダニティとその追放者』中島道男訳、昭和堂、2007年→参照)。“グローバリゼーション”という美しい響きとは裏腹に、それぞれ閉ざされた空間が並存することになる。
理念としての“自由”と実際の“自由”との間には大きなギャップがある。成功者は自身の努力によって独立独歩でやっていると思っていても、その実、親の世代からの恩恵を受けているが、「自分たちの背後の跳ね橋を吊り上げておくこと」で自分たちの特権的地位を正当化する。“自由”な社会では機会の均等が大前提だが、実際には“見えない格差”によって競争以前の選別が生じている。経済的にだけではなく生活環境も含めて親から有形無形の遺産を受けついでいるにも拘わらず受験=実力本位というフィルタリングを通して事実上の機会不均等が覆い隠されているという佐藤俊樹『不平等社会日本』(中公新書、2000年→参照)の指摘を思い出す。すべては自分の力なのだからエリートは“ノブレス・オブリージュ”の弁えを欠き、すべては自分のせいなのだから貧困層はじっと耐えるよう迫られる。バウマンがしばしばウルリヒ・ベックから引用するように「人は伝記的な解決を求められる」。こうして社会的な分断は正当化され、拡大・固定化する。
“コミュニティ”への帰属意識が共有されておれば相互扶助の可能性は保てるが、それを崩してきたのが他ならぬ“近代”であった。個人を取り巻く不安定な波に巻き込まれていることに気付いても、一人の努力ではどうにもならない。関係性の回復を求め、“コミュニティ”を再評価する動きが始まるのも当然である。しかしながら、「現実にある個人の弱さやもろさを、コミュニティの(想像上の)潜在力に作り替えることで、保守的なイデオロギーや排他主義的な語用論が生み出される」(本書、138ページ)。もはや失われてしまった共同性を復活させようとしても、外への排外主義、内なる個人への抑圧というまた別種の問題が生じ得る。アイデンティティ・ポリティクスの陥穽がぽっかりと開いており、“コミュニティ”への忠誠心を利用して一定の政治目的に人々を動員操作する可能性が現われることにバウマンは注意を促している。
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