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2008年1月28日 (月)

アマルティア・セン『アイデンティティに先行する理性』

アマルティア・セン(細見和志訳)『アイデンティティに先行する理性』(関西学院大学出版会、2003年)

 ひょっとしたら不利益を被るのは自分かもしれない──個人主義を前提としつつも“無知のヴェール”という仮設によってこうした可能性に注意を促すことにより社会的不利の幅を出来る限り小さくしようというのがロールズ正義論のざっくりしたところ。しかしながら、そのような想像力がはたらくこと自体、一定の共同体的結びつきが暗黙のうちに存在しているからではないのか、その意味で個人主義的自由主義では社会的公正は維持し得ないのではないか、というのがコミュニタリアニズムからの批判であった。センはそれを認めつつも、しかしながら共同体外におけるコンテクストにおいて正義論は有効だと反論する。

 確かにコミュニタリアンの言うように、自らの共同体への帰属意識は構築するのではなく、すでにあるものを “発見”するということなのかもしれないし、それは自由に選ぶことは出来ないのかもしれない。しかし、現実的な選択肢として限定されているとはしても、選択の余地はゼロだと断定してしまうのは、自らのアイデンティティへの態度の取り方を熟考する責任を放棄してしまうことだ。「すべての支配的なアイデンティティ──国家組織あるいは国民の一員──に服従させてしまえば、多様な人間関係が持っている力や幅広い関係性が見失われてしまう」(本書、46ページ)。

 帰属意識を固定化・単純化する議論に対してセンが批判の矛先を向けるのには彼自身の生い立ちが背景にある。つまり、インドとパキスタンが分離独立した際、それまでガンディーに導かれていた“インド人”意識が崩れ、ヒンドゥー教徒・ムスリムそれぞれに細分されたアイデンティティをもとに血みどろの抗争が繰り広げられるのを目の当たりにしたからである。先日取り上げたバウマンのコミュニティ批判にしても、やはりバウマン自身の亡命ユダヤ人(ポーランド→イギリス)としての背景がある。センも認めるように何らかの形での共同体的帰属意識を否定することはできない。同時に、それが政治的過激主義の温床となり得ることを考え合わせると、多元的なありようを模索する必要がある。

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