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2008年1月

2008年1月31日 (木)

赤瀬川原平『老人力』

赤瀬川原平『老人力 全一冊』(ちくま文庫、2001年)

 はい、突然ですが『老人力』。ひところ話題になりました。

 ところで、みなさん、この言葉を正しく使ってますか? たとえば、タフで元気なおじいちゃんを見て「老人力だよなあ」ともっともらしくうなずく人がいますが、間違ってます。もちろん、赤瀬川さんは間違ったからって怒るような心の狭い方ではございません。ただ、まじめくさった顔してフルスイングで見当違いな空振りをされると、傍らで見てて、こそばゆいというか、こっちまで恥ずかしくなっちゃってすごくイヤなんですね。

 もの忘れが激しくなったら、余計なものを頭からドンドン捨てて身軽になってるんだと考えてみる。“記憶力が落ちた”のではなく、“忘却力が強まった”という感じに。今ある自分の状態を肯定的に捉えなおしてみると、意外と新発見がある。それが“老人力”。

 こうあらねばならぬ、こうせねばならない、と思いつめると疲れるし、生きづらい。要は発想の切り替えです。“老人力”という呪文を唱えると、あら不思議、マイナスが瞬く間にプラスに大変身! 自分に与えられたあるがままを、そっくりそのまま面白がっちゃえばいいのです。つきつめれば、“悟り”の境地ですな。

 赤瀬川さんが犬連れてボーっと散歩してるのとすれ違ったことが何回かありますが、実に良いお顔です。“老人力”をしっかり実践されてるのでしょう、“仙人”と呼びたくなるようなオーラが漂ってます。脱力的に意外と真理をついてるって感じで、私は好きです。

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2008年1月30日 (水)

「ジェシー・ジェームズの暗殺」

「ジェシー・ジェームズの暗殺」

 19世紀後半のアメリカ中西部、南北戦争が終わり、そろそろ“フロンティア”も消滅(世界史の教科書では1890年代とされる)しようという時代。南軍のゲリラ出身だがいまやギャングとして勇名を馳せていたジェームズ兄弟は最後の列車強盗に乗り出そうとしていた。ジェシー・ジェームズ(ブラッド・ピット)に憧れる青年ロバート・フォード(ケイシー・アフレック)が仲間入りを頼み込むところから物語は始まる。

 グループは解散し、メンバーは散り散りになって身を隠した。ところがジェシーは、自身にかけられた懸賞金目当てに裏切ろうとしたと疑った元の仲間を殺す。逃亡生活の中、誰も信用できない孤独、そしてそれを隠そうとする感情の激しい振幅。傍らでジェシーを見つめるロバートの心中には、憧ればかりでなく、恐れ、懸賞金への欲と功名心、何よりもジェシーその人になりきる以上に乗り越えたいという野心、様々な思惑が渦巻いていた。

 ジェシー・ジェームズが西部劇のヒーローとして繰り返し描かれていたのは知らなかった。しかし、この映画には銃弾の飛びかうようなアクション・シーンはない。西部の荒涼たる山野にミニマル的な音楽がかぶさる。その荒々しい美しさが詩情をもって浮かび上がり、人々の孤独な心象風景が胸に迫ってくる感じがする。ブラッド・ピットは貫禄たっぷり。ケイシー・アフレックもひ弱そうだが繊細な表情の揺れを好演している。

【データ】
原題:The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford
監督・脚本:アンドリュー・ドミニク
2007年/アメリカ/160分
(2008年1月26日レイトショー、新宿武蔵野館にて)

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2008年1月29日 (火)

「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」

「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」

 制服美少女が謎のチェーンソー男と夜な夜な闘うという意味不明なイメージは意外と私のツボにはまった。まあ、アニメやゲームでありがちなパターンなのかもしれないが。関めぐみは「鴨とアヒルのコインロッカー」や「包帯クラブ」ではあまりパッとした印象はなかったが、この映画での武器を構えたスラリとした立ち姿はきつめの顔立ちも相まってなかなか凛々しくて目を引く。高校生活の倦怠感と、そこから逃げ出そうとするかのような夜の闘いという二本立てで物語は進む。戦闘シーンにいまいち迫力がないのが残念。もっと激しく闘って映画全体にメリハリをつけて欲しかった。微妙に青春映画しているので、ダラダラと陳腐でそんなに面白くはない。

 原作の『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』(角川文庫、2004年)は滝本竜彦のデビュー作。“ひきこもり”やってた時に無我夢中で書き上げたらしい。人生の無意味に立ちすくむ倦怠感・虚無感、そのくせ自意識過剰、そういった諸々を振り払うように突っ走って死んでしまいたいという心理を、ライトノベルのタッチによく汲み取っていて面白いと思う。

 『NHKにようこそ!』(角川文庫、2005年)はまさに“ひここもり”生活そのものを、『超人計画』(角川文庫、2006年)はその後のリハビリ過程(?)をパロディめかして描写。“ひきこもり”文学と言ったらいいのか。自分をパロディ化できるってことはつまり、自分の状況が客観的に分かっているということ。自分の恥ずかしくてコンプレックスを抱えている部分を突き放して書いてしまうのも一つの手だ。なお、前者はNHK=“日本ひきこもり協会”だが、この“NHK”に様々な意味を持たせるところにストーリー上のカギがある。後者では綾波レイが進行役で登場。いまや美少女キャラのスタンダードですな。

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2008年1月28日 (月)

アマルティア・セン『アイデンティティに先行する理性』

アマルティア・セン(細見和志訳)『アイデンティティに先行する理性』(関西学院大学出版会、2003年)

 ひょっとしたら不利益を被るのは自分かもしれない──個人主義を前提としつつも“無知のヴェール”という仮設によってこうした可能性に注意を促すことにより社会的不利の幅を出来る限り小さくしようというのがロールズ正義論のざっくりしたところ。しかしながら、そのような想像力がはたらくこと自体、一定の共同体的結びつきが暗黙のうちに存在しているからではないのか、その意味で個人主義的自由主義では社会的公正は維持し得ないのではないか、というのがコミュニタリアニズムからの批判であった。センはそれを認めつつも、しかしながら共同体外におけるコンテクストにおいて正義論は有効だと反論する。

 確かにコミュニタリアンの言うように、自らの共同体への帰属意識は構築するのではなく、すでにあるものを “発見”するということなのかもしれないし、それは自由に選ぶことは出来ないのかもしれない。しかし、現実的な選択肢として限定されているとはしても、選択の余地はゼロだと断定してしまうのは、自らのアイデンティティへの態度の取り方を熟考する責任を放棄してしまうことだ。「すべての支配的なアイデンティティ──国家組織あるいは国民の一員──に服従させてしまえば、多様な人間関係が持っている力や幅広い関係性が見失われてしまう」(本書、46ページ)。

 帰属意識を固定化・単純化する議論に対してセンが批判の矛先を向けるのには彼自身の生い立ちが背景にある。つまり、インドとパキスタンが分離独立した際、それまでガンディーに導かれていた“インド人”意識が崩れ、ヒンドゥー教徒・ムスリムそれぞれに細分されたアイデンティティをもとに血みどろの抗争が繰り広げられるのを目の当たりにしたからである。先日取り上げたバウマンのコミュニティ批判にしても、やはりバウマン自身の亡命ユダヤ人(ポーランド→イギリス)としての背景がある。センも認めるように何らかの形での共同体的帰属意識を否定することはできない。同時に、それが政治的過激主義の温床となり得ることを考え合わせると、多元的なありようを模索する必要がある。

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2008年1月27日 (日)

覚書③安楽死と尊厳死について

(さらに続いて、安楽死と尊厳死の問題についてです。)

 ALS患者は人工呼吸器を装着するかどうかの決断をいつかは下さねばならない。その際に、①装着をしないで尊厳死を迎えることの是非、②いったん装着した後で取り外すことの是非が問題となる。ここを考える上で、安楽死・尊厳死についてどのような議論が進められてきたのか確認しておく必要がある。

◆定義
 安楽死と尊厳死、この二つの言葉は人によって使い方が異なり、どこで意味上の線引きをしているのか曖昧なことが多い。
 一つの考え方として次のように分類されるだろう。
①純粋安楽死
 死を迎えるにあたって麻酔等で苦痛を緩和・除去し、しかも生命短縮の危険を伴わない安楽死。この場合には何の問題も生じない。
②間接的安楽死
 生命短縮の危険を伴う安楽死で、治療型安楽死とも言われる。つまり、苦痛を緩和するために使用した薬剤の副作用として死期が早まった場合である。意図的な行為の結果として死に至らせてしまう点で殺人行為とみなされかねないが、医学的正当性、患者の同意がある場合には治療行為として違法性は阻却される。
③消極的安楽死
 苦痛を長引かせないように、生命延長のための積極的措置をとらないことによって死期を早める安楽死。狭義で尊厳死という言葉を使う時はこのケースを指すことが多い。
④積極的安楽死
 苦痛の除去を目的として、意図的な手段を以って生命を終わらせることである。殺人罪、嘱託殺人罪等として刑法上の責任が問われる。

 安楽死をめぐる議論では、第一に苦痛からの解放、第二に本人の意思を尊重、以上の2点が共通しているが、具体的には以下のポイントを挙げることができる。
①現代の医学知識や医療技術では治癒が不可能であり、なおかつ極めて近い将来に確実に死が訪れる。
②患者は激しい苦痛を訴え、症状が確実に進行しており、その様子が傍目にも分かる。
③回復不能にもかかわらず行われる治療行為に対して、あらかじめ患者自らの意思として拒否の姿勢が示されている。
④その意思を再確認し、さらに患者本人の同意を得て、医師はその苦痛を除去することを目的とした治療を行う。
⑤その治療とは結果として患者の死期を早める医学的処置である。

 宮川俊行は『安楽死の論理と倫理』(東京大学出版会)の中で安楽死を他者との関わりから次のように分類している。
①非理性的、非人間的生命のあり方を拒否する尊厳死的安楽死
②厭苦死→鎮痛の可能性のない身体的苦痛に伴われた生命の拒否
③放棄死→人間は共同体の他者との関わりをもって生きるが、苦痛を伴う患者のために共同体が崩壊し、放棄されていく中での死
④淘汰死→共同体存続のために患者の生命が淘汰された状態に追い込まれた死

◆日本での経緯
 安楽死に類した行為は歴史上様々な場面で行われてきた。日本で安楽死というテーマを明確にした最初の例は森鴎外『高瀬舟』であろう。
 法律上の議論として安楽死に焦点が当てられた最初のケースは、昭和24年におこった母親殺害事件である。被告となったのは在日朝鮮人の青年。母親が脳溢血で倒れて全身不随となってしまった。当時、在日の人々の間では北朝鮮への帰国運動が盛り上がりつつある時期だったが、この母親も帰国を希望していた。しかし、身体的に不自由になったばかりでなく、法的手続きもうまくいかず、帰国できない状況となってしまった。身体的苦痛に加えて絶望感が深まり、「こんな状態なら死んでしまいたい」「殺してほしい」と息子に向かって訴える。青年は親孝行と考え、青酸カリを飲ませて死に至らしめた。当初は尊属殺人で起訴されたが、検察は事情聴取しながら嘱託殺人へと切り替えた。安楽死とする場合には死期が切迫しているかどうかを確認する必要があり、この点で青年の行為は軽率であったとして、一定の情状酌量をしつつも懲役1年、執行猶予2年の判決が下された。
 この裁判を通して、安楽死を論ずる枠組みとして以下の点が明確になった。
①現行の法律では安楽死の判断ができない。
②安楽死の医療処置ができるのは医師のみである。
③疾病上の苦痛が対象であって、精神的苦痛は安楽死の対象外とする。

 安楽死についての法的基準を初めて明示したのは昭和37年に出された名古屋高裁判決、いわゆる山内判決である。本件では、脳溢血で倒れて半身不随となった父親を殺したとしてその息子が起訴された。父親は「苦しい」「殺して欲しい」と訴え続けており、主治医からは余命は7日から10日くらいだと聞かされていたので、被告は牛乳に有機リン殺虫剤を混入させて死に至らしめた。
 判決では安楽死が認められる場合の基準として以下の要件を示し、本件では⑤と⑥を満たしていないとして懲役1年、執行猶予3年が宣告された。安楽死について法的な基準が明示されたのはこの判決が初めてであり、その後の論争の画期点となった。
①病者が、現代医学の知識と技術から見て不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫っていること。
②病者の苦痛が甚だしく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること。
③もっぱら、病者の死苦の緩和の目的でなされたこと。
④病者の意識が、なお明瞭であって、意思を表明できる場合には本人の真摯な嘱託、または承諾のあること。
⑤医師の手によることを本則とし、これによりえない場合には、医師によりえないと首肯するに足る特別な事情があること。
⑥その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものなること。

 次いで東海大学付属病院事件について平成7年に横浜地裁判決が下された。本件は名古屋の事件とは異なり、家族ではなく医師が起訴されていた。死亡した患者本人にガンの告知はされておらず、なおかつすでに意識がなかったため、本人の自発的な意思は示されていない。それにもかかわらず、家族から「楽にしてやって欲しい」と繰り返し迫られた医師が塩化カリウムを注射して死亡させたことの是非が問われた。以下の要件を示した上で、懲役2年、執行猶予2年の有罪判決が下された。
①耐え難い肉体的苦痛があること。
②死が避けられずその死期が迫っていること。
③肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がないこと。
④生命の短縮を承諾する明示の意思表示があること。

◆海外の事例
・カレン・アン・クインラン事件→個人が死を選ぶ権利が認められた。意思表示ができない場合には父親に認められた。回復不能の判断が医師と倫理委員会の二重のチェック。
・契約社会のアメリカでは、医師の説明不足や一方的な裁量で行われた医療に対して患者側から自らの権利を侵害されたとして法的な対抗措置。
・キヴォキアン医師の自殺装置。
・オランダの安楽死法。

◆問題点
 仮に安楽死が社会的に容認されて何らかの形で法制化された場合、様々な問題があり得ると指摘されている。
①コスト面で社会的弱者切捨ての懸念
 長期療養が必要となる難病では、医療費ばかりでなく、生活面での影響が深刻となる。特に家族のメンバーが少ないとき、稼ぎ手本人が倒れたケースは当然だが、パートナーが倒れたときにも仕事を辞めてつきっきりで介護をせねばならない事態が考えられ、いずれにせよ生活費をどのように確保するかで頭を悩ませることになる。そうした場合、患者本人はもう少し生きたいという意思を持っていたとしても、コスト上の問題を理由として安楽死を選ばざるを得ない状況に追い込まれてしまう。
②家族が本人の意思を代位することへの懸念
 家族が信用できないということではない。患者が死を迎えるにあたっては、家族もまた動揺が激しい。患者本人の意思をあらかじめ確認しないまま意識不明の状態に陥ってしまい、かつ苦悶の表情を浮かべていると、家族としてはやはり正視に堪えない。「かわいそう」というその場の雰囲気で、本人は安楽死を望んでいるものと家族は安易に受け止め、延命打ち切りの判断を下してしまうおそれがある。
③「自ら意思決定する能力」とは何か
 ②とつながる問題だが、物事の判断能力をどこに求めるかという問題。
④高齢化社会で悪用されることへの懸念
⑤優生学上の見地から不必要とみなされた者への適用。ナチスの安楽死政策。
 以上は、自分の意思とは全く関わりのない理由によって死を強制されてしまうことへの不安が見られる点で共通している。
⑥安楽死は患者本人だけの問題ではない
 仮にリビングウィルが用意され、患者本人の安楽死へ向けての態度が明らかにされていたとする。しかし、実際に安楽死の手続きを進めるのは医師である。患者本人は自分が死ぬことを納得しているのかもしれないが、医師が自らの価値観と相違して不本意な形で安楽死を手伝わねばならない立場に置かれてしまうことも考えられる。それは医師ばかりでなく、患者の周囲に集う家族や友人たちにも同様の精神的な葛藤を強いることになる。自分の死はあくまで自分一人の出来事だと思い込みがちだが、実は周囲の様々な人々を巻き込んでしまっていることについてどのように考えるのか。

(参考文献)
ハーバート・ヘンディン(大沼安史・小笠原信之訳)『操られる死─「安楽死」がもたらすもの』時事通信社、2000
保阪正康『安楽死と尊厳死』講談社現代新書、1993
宮川俊行『安楽死の論理と倫理』東京大学出版会、1979
三井美奈『安楽死のできる国』新潮新書、2003
ジャネット・あかね・シャボット『自ら死を選ぶ権利─オランダ安楽死のすべて』徳間書店、1995
入江吉正『死への扉──東海大安楽死殺人』新潮社、1996年

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2008年1月26日 (土)

覚書②医療現場での“自己決定”について

(覚書の続きで、医療現場で患者自身の自己決定はできるのかという問題です。)

 ALSの患者にとって、人工呼吸器をつけるかつけないかの選択は、生きるか死ぬかの問いと直結するため、非常に厳しい決断を迫られることになる。もちろん、難病患者にとっての切実さは、他の健康な人の安易な想像を許すようなものではない。しかし、極端なまでの厳しさは、“自分で決める”にはどのポイントが核心として問われるべきなのかを鮮明にするとも言える。そうした意味合いで、単にALS患者の問題であるばかりでなく、他の人々にとっても考えるべき示唆が含まれている。
 
◆インフォームド・コンセント
 医療における意思決定というテーマは、まずインフォームド・コンセントをめぐる問題である。患者がこれから受ける医療行為について十分に納得できるような説明を医師は行わなければならない。こうした考え方は、最近では当たり前のものとなっている。
 インフォームド・コンセントの考え方が初めて明記されたのは、第二次世界大戦直後、1947年に制定されたニュルンベルク倫理綱領である。かつてナチスは、障害者や社会的マイノリティー、戦争捕虜など、弱い立場にある人々に対して組織的に人体実験を行ったが、これに対する反省が込められている。この考えをさらに確認するために、1964年にはヘルシンキ宣言が採択された。
 医学の進歩のためには何らかの形で人体実験も必要となる。しかし、弱い立場の人間に押し付けるのは人道に反する。そこで、人体実験の被験者となる場合には、自発的な同意が必要であることを定めた。言い換えると、マイナスの効果を及ぼす医療行為をされない権利として出発したのであり、当初は治療の現場で選択肢を提示するという患者の主体性に主眼を置いたものではなかった。

◆自己決定権
 近年では、むしろ自己決定権という積極的な側面においてインフォームド・コンセントは話題となる。どのような医療を受けるか、さらには自分の生死に関わる場面でどのような決定を下すか。医師の言うままになるのではなく、自分のことは患者自身が決めるという要求が社会全般から強まった。そのために必要な情報開示としてインフォームド・コンセントは位置づけられるようになった。
 医療技術の進歩によって延命治療が可能となり、身体的自由がきかないまま療養生活を送るケースが多くなった。“スパゲティ症候群”という言葉に象徴されるような延命治療への懐疑が広まったことが背景としてある。つまり、“生きがい”の確保できない生命は「生きるに値しない」という見解を表明する人が多くなったのである。

◆医療現場での問題点
 医療現場においては以下が問題となり得る。
①インフォームド・コンセントの考え方にそって十分な運用がされているのか。
 たとえば、医師の側の態度として、患者が理解したかどうかは顧慮せず医師は一方的に説明をする。とにかく説明はしたんだから、あとは患者の問題だ。そうした態度で、何か問題が起こったとしても、これは患者の自己決定よるものだとして責任を押し付けてしまうのを正当化する口実にもなりかねない。
②生死のぎりぎりの場面でどこまで自己決定があり得るのか。
 インフォームド・コンセントでは、自分にまつわることは他人頼みにはせず、すべて自分で取り仕切るという人生観が前提となっており、納得して決定を下すために十分な情報を医師は提供すべきことが要求される。つまり、個人主義的な色彩の強い「自律」という観念が出発点になっていると言える。
 従来、日本は家族共同体的で他者への依存傾向が強く、医療現場においては医師という権威者に対してパターナリスティックな人間関係が色濃いと言われてきた。日本が国際化する上ではこの「自律」の観念を受け容れなければならないという議論が様々な分野でなされ、そうした動向の一環としてインフォームド・コンセントの話題も位置づけられた。また、実際に「自律」の観点からインフォームド・コンセントをうまく活用している人も多い。
 しかし、以下の問題もある。第一に、文化風土から規定された思惟形式は一朝一夕には変わらない。したがって、自己決定の重さに耐えられない人も多い。ビジネスの現場では「自律」的な人生態度を取ってきた人であっても、いざ生死に関わる究極の場面にぶつかると、それまでの人生態度を貫き通せないこともある。第二に、「自律」というのはあくまでも理論上のフィクションに過ぎず、実際には欧米であっても「自律」に耐え切れないケースが多いという指摘がある。個人主義的な傾向の強いアメリカ社会でも心理カウンセラーにかかる人が多いのはその証拠であって、アメリカでも自律的人間モデルに耐えられるのか疑問も投げかけられている(たとえば、コフート)

◆苦痛の緩和
 真に問題となるのは何か。個々のケースに応じて違うだろう。
 まず、苦痛の問題。あまりに激しい痛みに耐え切れない場合。第一に、苦痛を和らげる処置が、結果として縮命につながる場合。これはやむを得ないと考える人が多い。第二に、苦痛回避のために意図的に死を選ぶ場合。積極的安楽死。道義上、刑法上の問題となる。

◆精神面での耐え難さ
 ただし、医療技術の進歩により、苦痛そのものを和らげることは可能となりつつある。そのため、「安楽死」という言葉には苦痛回避という意味合いが強いが、かわって「尊厳死」という表現が用いられるようになっている。
 苦痛そのものよりも、気持ちの取り方をどのように考えるかが次の問題となる。第一に、意識はあるのに身体的に動けない場合の精神面での耐え難さ。第二に、他人に依存した生活を送らざるを得ない場合のプライドの傷つき。こうした精神面での耐え難さから死を選ぶ傾向が強まってきた。

◆純粋な決定はあり得るのか
 ここで問題となるのは、患者が鬱状態に陥っている場合である。気分がふさぎこんでしまった時に発する「死んでしまいたい」という言葉は素直に受け取ることはできない。したがって、信頼のある人間関係の中で患者自身の真意を探りとる必要がある。
 一切のノイズを排して純粋に「自分」の「意思」で「決定」するということはあり得るのか、もしあり得るとしたらどのような条件が必要なのか。もしあり得ないなら、どこまでなら妥協できるのか、その妥協する場合に比較の対象となる自己決定の純粋形モデルは一体どのようなものなのか。こうした点を吟味しておく必要がある。しかし、純粋な「自己」なんてものがそもそもあり得えない以上、影響を被るノイズとしての要因をどこまでなら許容できるのかという話になるだろう。

◆決定の際の周囲の態度の取り方
 欧米では「自律」の考え方が確立されているのに対して日本では遅れているという文化論的な話題がよく見られる(「近代的個」の確立を主張した丸山真男政治学をはじめとしてあらゆる分野で)。医療における自己決定というテーマにおいても、この話題が議論の中心テーマの一つとなる。しかし、この考え方がそのまま通ずるのであろうか。
 たとえば、欧米における尊厳死のイメージを見ると、家族や友人達と囲まれる中で死を迎えることが強調されている。それが日本で報道されると、本人の決定を周囲が暖かく受け止めたという筋立てになる。
 だが、別の見方をすれば、家族や友人など信頼のある人間関係の中で長い時間をかけながら考え抜くというプロセスがあったからこそ、決定を下すことができたと言えるのではないか。つまり、アトム的に孤絶した「個」という立場で判断したのではなく、周囲からの様々な反応も見ながら、自身も周囲も納得できる形で最終的な決断が下されている。言い換えると、ノイズを排除した自己決定の純粋モデルなどはあり得ない。
 そこで、次に焦点が絞られるのは、周囲からの反応の取り込み方、決定に際してのコミュニケーションのとり方をどのようにすればいいのかという問題である。それは、「サポート」という性格のものではない。決定しやすい条件整備をするにしても、どんな条件があり得るのか分からないし、下手すると周囲から外堀を埋めることで不本意な方向に患者本人を追い詰めることにもなりかねない。また、本人に一人で考える負荷を必要以上に大きくしてしまう。
 そうではなく、周囲の人々それぞれとの個別的な関係の中で意思を通じさせる。反対の意見があるなら正直に反対してもらう。そうした意見交換の積み重ねを経て、周囲の人々の本心を見極める、それは本来的にできないことであっても見極めたように自身が納得する、そうした作業が前提として必要となるだろう。つまり、本人の意思を尊重する=本人の意思だけで押し通すということではない。本人の意思だけでなく、周囲の人々と納得した感覚を共有できたときに、本人もまた安心する。
 患者が不安になるのは、近い将来に予想される苦痛や死ばかりではない。仮に介護を受けねばならないとする。家族に負担がかかるが、それを家族はどのように受け止めるだろうか。ひょっとしたら顔では笑っていても、内心いやがっているのではないか。そうした周囲の人々に対する気兼ねが療養生活においても心理的にマイナスの作用を及ぼすことになる。自分の決定を周囲が嫌がると介護において不利益を受けるということではなく、そもそも周囲との関係があってはじめて自分がいるということ。周囲との具体的なあり方は文化によって違うだろうが、何らかの形での関係があることに変わりはない。つまり、関係を考慮しながら決定するのではなく、決定もまたそうした関係性の中の一環として組み込まれているということ。 

◆本人の意思と家族の意思、どちらを優先させるか?
 立岩真也と清水哲郎とで次のような見解の相違がある。
 告知の際、家族と一緒に知らせるか、それともまず本人だけに知らせるか。患者自身にとってのQOLの問題と家族の負担とがぶつかってしまうとき、具体的には経済的コストやケアの肉体的負担、生活上の時間拘束によるストレスなどが考えられる場合にどうするのか?という問題につながる。
 清水は、患者本人と家族との共同決定が望ましいという見解。立岩は、それだと家族に遠慮して本人のQOLが犠牲にされるおそれがあるから、まず本人の意思に即して、という主張。本来ならば清水の見解が妥当だろう。一方、立岩の批判には、共同決定というベールの下、家族への遠慮などで本人が言いたいことを言えない立場にあったとき、本人の意思が犠牲にされてしまうことへの懸念があり、なかなか難しい。

【参考文献】
・清水哲郎『医療現場に臨む哲学』勁草書房、1997
・清水哲郎『医療現場に臨む哲学2 ことばに与る私たち』勁草書房、2000
・立岩真也『ALS 不動の身体と息する機械』医学書院、2004
・『思想』2005年8月号、特集「医療における意思決定」岩波書店。
・水野肇『インフォームド・コンセント─医療現場における説明と同意』中公新書、1990
・森岡恭彦『インフォームド・コンセント』NHKブックス、1994
・星野一正『インフォームド・コンセント─患者が納得し同意する診療』丸善、2003

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2008年1月25日 (金)

覚書①ALSについて

(パソコン内の文書を整理していたら、ALSという難病について3年ほど前に書いたメモが出てきたので掲載します。内容的に若干古くなっているかもしれませんし、私の誤解もあるかもしれませんので、間違いがありましたらご指摘ください。)

1.相模原事件

◆事件の経過
 介護に疲れた母親(60歳、以下H)が、ALS患者である長男(当時40歳、以下S)の人工呼吸器を止めて窒息死させ、本人も自殺を図るという事件があった。
 事件が起こったのは神奈川県相模原市。長男は2000年にALSを発症。01年3月にALSと診断された。病状の進行は早く、診断の2週間後には気管切開を行って人工呼吸器を装着。同年8月に退院して在宅療養を開始。03年3月からホームページを開設して患者同士の情報交換も行っていたが、04年4月頃からパソコンが使いづらくなり、意思伝達は文字盤に頼るようになった。Sは人工呼吸器をつけたことを後悔。次第に「呼吸器を外して」「死にたい」などの意思を示し始めたが、Hは訪問看護師やかかりつけ医と共に懸命にケアを続けていた。そうした中、04年8月26日深夜、HはSにつけられた人工呼吸器のスイッチを停止した。Sは窒息死。Hは自殺を図ったが、明け方になって夫が変事に気付き、一命をとりとめた。
 同年9月22日、Hは刑法199条による殺人罪として横浜地方裁判所に起訴された。翌05年2月14日に判決。「長男の日ごろの懇願を受け入れて呼吸器を停止させた」として、被告側の主張通りに法定刑の軽い嘱託殺人罪(刑法202条)を適用。懲役三年、執行猶予五年(求刑懲役五年)が言い渡された。検察側は控訴せず、判決は確定した。介護者がALS患者の呼吸器を止める行為に関して司法判断が示されたのはこれが初めてである。
(以上、日本ALS協会のHPを参照しながら要約)

◆本事件からうかがえる問題点
(患者本人が抱えた問題)

・運動機能の萎縮により、会話はおろか、パソコンを使ったコミュニケーションも物理的に困難となっていた。体は全くきかないのに意識だけは鮮明という、いわゆるロックトイン(locked-in)の状態に陥りつつあったため、絶望感の強かったことが想像される。
・ALS患者は、いずれ呼吸器の運動機能も失われるため、ある時点で人工呼吸器を装着するか、それとも自然死を迎えるか、という判断を迫られる。装着すれば延命は可能。ただし、一度装着すると取り外しはできない。本事件の場合、病状の進行が早かったため、S本人が気管切開・人工呼吸器装着について納得の上で判断する余裕がなかった。

(介護者側が抱えた問題)
・患者の運動機能が限りなくゼロに近づいて最終的には眼球の微妙な動きまでなくなるため、彼は生きているのに、気持ちの上でつながれないというもどかしさがあった。
・窒息死を防ぐために30分から1時間おきに痰を吸引するなど、24時間態勢での介護が必要となる。医療費負担の減免、ヘルパーの派遣などの支援はあるが、やはり家族の負担が重い。
・本事件の場合、介護は家族だけで背負ってしまい、孤立した状況にあった。行政を中心とした地域の支援体制が必要だ、という指摘がある。

2.ALSの概略

 ALSとはAmyotrophic Lateral Sclerosisの略語であり、日本の医学用語としては「筋萎縮性側索硬化症」と訳されている。通称、アミトロ。運動神経だけが選択的に侵されて筋肉が萎縮してしまう進行性の難病である。ベストセラー『モリー先生との火曜日』が有名だが、他にも往年の大リーガー・ゲーリックや宇宙物理学者ホーキング博士を思い浮かべる人もいるだろう。
 症状を大雑把に言うと、①運動障害、②コミュニケーション障害、③嚥下障害、④呼吸障害、の4点にまとめられる。感覚神経や頭脳に影響はない。つまり、意識ははっきりしているにもかかわらず、身体的運動機能が失われる。それも一時で失うのではない。まず、手足の自由がきかなくなることから症状が自覚される。その後も病状の進行につれて、舌や咽喉部の麻痺により会話や食事ができなくなり、さらには肺機能が麻痺して呼吸困難に陥る。こうしたプロセスを、ゆっくりと、しかし確実に、時間をかけてたどることとなる。失いゆくものの手ごたえを一つずつ実感し、かつ回復する見込みはないため、精神的なストレスが著しく、病の受容が難しい。
 ALSそのもので死ぬわけではない。しかし、呼吸器の故障や舌が垂れ下がってのどを詰まらせたことによる窒息死、体力の衰弱に伴う肺炎などの合併症で死に至る。
 10万人のうち1人の割合で発症するといわれている。この割合は世界的にも一律であり、地域差や人種差は認められない。発症後数年で死ぬ場合もあれば、進行の遅い場合、進行が止まってしまう場合もあり、患者によって異なる。年齢・性別を問わず発症例があるが、特に40代・50代に多く発症し、男女比率は約2:1で男性に多い。
 原因については諸説あるが解明されていない。遺伝性のケースも約1割前後あるようだがよく分かっていない。治療方法も不明であり、身体的機能の喪失をいかに遅らせるかに主眼を置いて療養生活を送ることとなる。
 呼吸器の普及や介護技術の向上、栄養状態の改善により、ALS患者は長生きするようになったが、病状の進行を止めることはできない。意識はあっても一切のコミュニケーション手段を失ってしまったいわゆる“閉じ込め”状態、TLS(Totally Locked-in State)に陥った人は日本全国で120人前後(ALS患者全体の約15%)いると言われている。

3.人工呼吸器

(装着の問題)
 最終的には、横隔膜などの筋肉の萎縮により、呼吸器の機能が停止してしまう。そこで、人工呼吸器を装着するかどうかの選択を迫られる。装着しない場合は、そのまま死を迎えることになる。
 装着を選んだ場合には、気管切開して管を通し、人工呼吸器につなぐ。この時、①自分の声を失う。②喉を切開されることに対するイメージとしての抵抗感。③いったん装着してしまうと取り外しはできない、などが問題となる。
 いったん人工呼吸器を装着したら、なぜ取り外しはできないのか? 呼吸器をつけないのは、あくまでも「しない」ことである。自然の経過に委ねることなのだから、その結果死に至ったとしても責任は誰にも問われない。ところが、呼吸器を外すのは意図して「する」ことである。その行為の結果として死に至るであろうことが事前に分かっている以上、殺人、自殺幇助、積極的安楽死など刑法上の問題として責任の所在が問われることとなる。前掲の相模原事件で呼吸器を停止させた母親は殺人罪で起訴され、情状酌量の結果、嘱託殺人罪(つまり、自殺幇助)で判決が下されている。

(自己決定の問題)
 呼吸器装着の決断は、問題の不可逆的な性質から、ぎりぎりの時期まで先延ばしされることが多い。土壇場であっても自分の判断として装着したのならば構わない。しかし、逡巡していると、そのぎりぎりの一線を越えてしまって後悔する事態を招いてしまう。具体的には、呼吸困難に陥って救急車で運ばれ、意識不明になったまま人工呼吸器を装着、延命療養に入ってしまうケースだ。呼吸器装着者の42%はこうした緊急時対応のため主に医師の判断によっている(日本ALS協会調査)。この場合、装着の決断に本人の意思は反映されていない。自らの意思に反して“無理やり生き延びさせられた”と悔恨や怒りの感情を抱き、家族を責め続けるという不幸なケースもある。
 仮に呼吸器装着の判断を“自分の意思”に基づいて表明したとしても問題は残る。家族に迷惑をかけることへの後ろめたさから、本当は生きたいにもかかわらず延命拒否する場合がある。逆に、静かに死を受け容れたいと思っていても、家族の悲しみに後ろ髪が引かれ、不本意ながらも言葉の表現としては“自分の意思”で呼吸器装着を選ぶこともある。この場合、装着後の生活がつらくて後悔しても、形式上は“自分の意思”で選んだことなのだから文句は言えない。つらさと後悔が内攻して精神的な葛藤がマイナス方向に振れてしまう。家族としては献身的に介護しているのにどうして認めてくれないのか分からない。患者と家族との不幸なすれ違い。こうした心理的な機微には、機械的な自己決定論で割り切れない難しさがある。
 QOL重視の立場から、ALS患者の人工呼吸器に関しては取り外し可能な方向で法制化を進めればいいのではないか。そうすれば、呼吸器装着の選択にも気持ちの余裕が生まれるのではないか、という指摘もある。これは当然ながら尊厳死をめぐる議論に直結する。たとえば次の場合を考えてみよう。その患者が、自分の介護によって周囲の人々に迷惑をかけているという自覚を持っている、あるいは経済的コスト面での不安がある、とする。周囲からは明示的に言わなくとも、そうした雰囲気そのものが暗黙の圧力となり、本人の気持ちを呼吸器取り外しの方向へと誘導してしまうおそれが出てくる。つまり、介護してくれる周辺、具体的には家族への気兼ねが必ず判断の足かせとなる。ここでも安易に自己決定論で割り切ることのできない問題をはらんでいる。
 日本のALS患者のうち人工呼吸器装着者の割合は、厚労省調査では25%、日本ALS協会調査では40%とされる。ただし、医療機関によって数字は大きく上下し、個々の担当する医師の考え方によって患者の意思決定のあり方も左右されているのではないかとも想像される。
 なお、欧米では呼吸器装着よりも尊厳死を選ぶ傾向が強い。たとえば、『モリー先生との火曜日』のモリー・シュワルツもそうした一人である。

(拡張する生)
 人工呼吸器を着けることについては、寝たきりの身体に医療機器のチューブが張り巡らされた状態、いわゆる“スパゲティー症候群”を思い起こさせ、イメージとして受け容れがたい側面がある。
 しかし、人工呼吸器を緊急避難的なやむを得ない手段として消極的に捉える意見ばかりではない。たとえば、ALS患者の母親の介護を経験した川口有美子は、ノーバート・ウィナーの「人体の構造の柔軟性は人間の知能のほとんど無限の拡張を可能にするものである」という指摘を引用しながら、機械的手段を人間の肉体的機能と接合、さらには融合させることは、むしろ生命活動の拡張であるとして積極的に肯定している(川口「人工呼吸器の人間的利用」『現代思想』2004年11月号)。
 人工呼吸器をはじめとする機械的手段の機能面に注目すれば、ALSという病の暗い側面ばかりでなく、生命科学や機械工学の知見を踏まえて生命観・身体観を根本から問い直す新たな議論へと結びつける可能性も十分にある。

4.在宅療養

 ALS患者は全国で約6800人いる。そのうち8割が在宅療養をしている。住み慣れた場所がいい、という理由もあるが、長期入院を受け容れてくれる施設が少ないという背景も見逃すことはできない。病院側としては、治る見込みのない患者を病室に入れておくことは経営効率上望ましくないという事情がある。
 在宅療養を行う場合には、窒息死を防ぐために30分から1時間おきにたんを吸引する、呼吸器が外れていないかチェックするなど、24時間態勢での介護が必要となる。医療費負担の減免、ヘルパーの派遣などの支援はあるにしても、やはり介護の主体となる家族の負担は重い。
 医療費そのものについては、特定疾患研究治療事業の対象としてほとんどを公費負担(国と都道府県がそれぞれ2分の1)としてまかなえる。ただし、実際に介護の担い手となるのは家族であり、しかもフルタイムによる介護者が最低一人以上必要となるため、医療費以外の生活面での余裕がないと困難な場合も考えられる。

(たん吸引)
 前述のように、ALS患者に対しては窒息死を防ぐためにたん吸引を行う必要がある。これは比較的高度な技量を要するケアなので医療行為にあたるとされ、医師や看護師が行わねばならない。しかし、実際には人手不足であるため難しい。自動吸引装置も現在のところ開発されていない。そこで、介護者である家族がたん吸引を行っている。
 医師以外の者が医療行為を行うことは本来ならば違法行為であり、違反者は医師法により3年以下の懲役もしくは100万円以下の罰金、保健師助産師看護師法により2年以下の懲役もしくは50万円以下の罰金に処される。つまり、医療資格保有者以外がALS患者のたん吸引を行うと罪を問われる可能性がある。
 ただ、厚生労働省は、インシュリンの自己注射を例にとって家族が医療行為を行う場合についての法的な考え方を整理している。実質的には違法なのだが、
①患者の治療目的のために行う(目的の正当性)
②十分な患者教育及び家族教育を行った上で、適切な指導及び管理のもとに行われる(手段の正当性)
③自己注射と通院との患者の負担解消との比較衡量(法益衡量)
④侵襲性が比較的低い行為であること(法益侵害の相対的軽微性)
⑤医師がインシュリン注射の必要性を判断(必要性・緊急性)
以上の5要件を満たしていれば構わないとされている。これは、法的に認められるということではなく、緊急処置的に黙認するというグレーゾーンとして当面の問題は先送りするということである。いずれにせよ、ALS患者に対して家族がたん吸引を行うケースでも、以上の考え方を準用して違法性は阻却されるという。つまり、「本当は違法なのだが、現実問題としてやむを得ないから黙認しますよ」という論理でかろうじて容認されている。
 ところで、ALS患者に対しては30分から1時間おきにたん吸引を行う必要があるため、24時間フルタイムで介護にあたらねばならない。家族の負担が重いため、ホームヘルパーや介護福祉士など家族以外の第三者にもたん吸引を代わってもらえるようにできないか、という要望が強い。しかし、たん吸引という医療行為可能な範囲を家族以外にまで広げることについては異論がある。例外的であってもヘルパー等に医療行為を認めるきっかけとなり得るため、技量水準への懸念だけでなく、国家資格制度に関わる問題としての風当たりも強い。
 2003年、厚生労働省に「看護師等によるALS患者の在宅療養支援に関する分科会」が設置され、最終報告書では家族以外の者によるたん吸引について次のような条件が示された。
①吸引はカニューレ(気管切開後に挿入された管)内部のみとする。
②吸引はヘルパーの業務としない。
③ヘルパーと利用者との個人的な契約で文書によって同意を取り交わし、事業者の責任は問われない。
④在宅療養中のALS患者に限定。
⑤医師と看護師の指導を受ける。
以上の条件の下でヘルパーによるたん吸引を当面は認め、制度的な検討は先送りされた(川口有美子「人工呼吸器の人間的利用」『現代思想』2004年11月号を参照)。
 本来は医師法違反だが、当面は仕方ないから黙認するという論理が継続されている点では家族による吸引行為の位置づけと同じである。しかし、ヘルパーは家族以外の第三者であり、もし事故が起こった場合には訴えられるケースが考えられる。法的根拠の埒外にある以上、ヘルパーを守りきれないためALS患者介護に躊躇する福祉事業所もある。

5.QOL

(WHOによるQOLの定義)
 「文化や価値観により規定され、その個人の目標、期待、基準および心配事に関連づけられた、生活状況に関する個人個人の知覚であり、その人の身体的健康、心理状態、依存性レベル、社会関係、個人的信条、および周りの環境の特徴とそれらとの関係性を複雑に含んだ広い範囲の概念である。この定義はQOLが文化的、社会的、環境的な文脈に組み込まれた個人の主観的な評価として参照されるものであるという観点を反映している。単に“健康状態”、“生活様式”、“生活の満足”、“精神状態”、と等価ではなく、それら以外の生活側面をも含む多元的概念」(中島孝訳)
 ALSのような難病については、疾病自体を治療して症状の改善を目指すことは現時点では困難である。診断・告知の時点から緩和ケアが始まっているものと考え、心理的サポートを含めた総合的な神経難病リハビリテーションの臨床的な有効性を検討する必要がある。

6.告知

 医師は、診断を告げるだけでなく、積極的にセカンドオピニオンの診断を受けるよう配慮することが重要である。
 告知に際しては次のことに配慮すべきである。
①告知は最初から患者と家族に同時に行う。家族に最初に話すと、家族が患者に知らせなかったり、医師が患者本人に告知するのを妨げるように働く場合もあり、そのため本人への告知が遅れるようなことがあってはならない。
②最初に話すべきことは何か。緩徐進行性であること、治らない疾患であることを正しく認識させることが重要。将来出現する症状について具体的に説明する必要あり。運動、コミュニケーション、嚥下、呼吸それぞれの障害について。なるべく早期に、症状に合わせて段階的に告知すること。
③コミュニケーション障害により患者のQOLは大きく左右される。そこで、パソコンを早期に習得させ、将来の機能低下によるコミュニケーション不全に備えておく必要あり。
④嚥下障害については、経鼻経管栄養や胃ろうの説明が必要。
⑤呼吸障害については、特に人工呼吸器装着の意味を理解させること。延命についてだけでなく、将来の病態の予想や、呼吸器の取り外しは不可能である点について説明。人工呼吸器を使って社会参加を積極的に行っている患者も増えていることを伝えると同時に、病院の一角で天井だけを見つめる生活が耐えがたくて後悔する人がいることも伝える。現在の医療環境では、年単位での療養可能な病院は限られており、在宅療養を選択せざるを得ない。在宅療養の場合、常に介護者(多くは家族)が必要なこと、介護保険を含めて利用できる福祉サービスについても説明すること。いずれも、本人の強い意志と家庭的、医療的、経済的、社会的環境を整えることが不可欠であることを伝える。専門医ばかりでなく、医療機関、看護師、ソーシャルワーカー、患者会、ボランティアなどと連携して医療チームを組んでサポートしながら告知することが望ましい。
(以上、日本神経学会ホームページを参照)

7.安楽死をめぐる議論

 ALS患者の安楽死については、人工呼吸器装着前と装着後との2つの時点に分けて考える必要がある。装着前には、衰え行く身体機能に見切りをつけて安楽死を選ぶことの是非が問われる。装着後では、人工呼吸器のスイッチを切ることの是非が問われる。
 日本ではいずれも違法行為となる。装着前の安楽死については当然ながら認められない。ただ、装着後については、前掲の相模原事件のような事態も起こっており、議論を煮詰めておく必要はある。
欧米ではALS患者の安楽死について積極的な議論が進められている。
 アメリカの事例。自殺装置を開発したことで有名なキボキアン医師の事件。男性のALS患者を致死薬の注射により殺害したとして第二級殺人罪並びに統制薬品の使用の罪により起訴されていたキボキアン医師に有罪判決が出された。患者の麻痺が進行しており、患者自身の手によるマーシトロン(自殺装置)の作動や致死量の薬の服用が不可能だったため、本人にかわってキボキアン医師が投与した。対世間的に問題提起を図るため、医師はその場面をビデオで撮影しておき、後にCBSで放映された。なお、キボキアン医師の自殺幇助した事例47人中、ALS患者は9人であった。
 カナダの事例。あるALS患者が、身体的な麻痺により自殺しようにもそれだけの体力がないため医師に自殺幇助してもらう権利を認めて欲しい、という訴えをおこした。1993年9/30、最高裁判所では9人の裁判官中5:4で否決された。
 このカナダの事例と同様な論争を巻き起こしたのが次に掲げるイギリスの事例。あるALS患者が自身の尊厳を守るための安楽死の権利を主張。ただし、身体的に麻痺が進行しているため自殺することができない。夫の手助けが必要であり、自殺幇助をしたとしてもその罪を問わないよう公訴局に訴えた。しかし、公訴局は却下、もし自殺幇助をした場合には起訴するとの姿勢を明らかにした。患者側は、これは人権保護法違反であるとして高等法院に訴えた。その後、患者は自殺幇助を受けることなく死去。
 オランダでは、1994~99年に死亡したALS患者で医師が調査に応じた203例のうち、35例(17%)が安楽死を選択。6例(3%)が医師による自殺幇助で死亡した。宗教を重要と考えていた患者は、そうでない患者に比べて、安楽死もしくは医師による自殺幇助の割合が低かった。また、これらの選択をした患者としなかった患者とを比べて、収入や教育水準との関係は認められなかった。これらの選択をした患者は、しなかった患者と比べて、障害の程度は重度であった。
 なお、オランダで安楽死を選んだALS患者についてのドキュメンタリー番組「依頼された死」が1994年11/16にTBSで放映された。ALS患者から「自分も死にたい」という反響があった一方、介護を懸命に続けていた家族からは「自分たちの努力はいったい何なのだろう」とむなしさを訴える声も寄せられた。オランダでは100年以上もの時間をかけて安楽死についての議論を積み重ね、国内的なコンセンサスを得るために努力がなされてきた。しかし、この番組ではそうした背景を紹介せず、単に「難病患者が死を選んだ」という一面的な捉え方がされかねない作り方であったことには批判がある。オランダのいわゆる「安楽死法」、(正式には埋葬法改正法)に関しても日本では印象論的に受け止められる傾向があり、正確な理解を促す必要があろう。
 いずれにせよ、死生観をめぐる文化的土壌の違いも当然ながら考えねばならない。日本での動向をみる場合には、日本尊厳死協会や超党派の国会議員グループが進めている「尊厳死法案」についての議論も考慮する必要がある。

8.難病患者の社会参加

 体を動かすことのできない人々を社会的にどのように位置づけ、受け容れるのか。これは、ALS患者を治療の対象としてではなく“病を抱えながら生き続ける人”と捉える点では、障害者の社会参加とテーマは共通する。ただし、身体的な運動機能がゼロに近づきつつあるという場合にどのような社会参加の形があり得るか、模索する必要がある。

【主要参考文献・HP】
・立岩真也『ALS 不動の身体と息する機械』医学書院、2004
・植竹日奈・他『「人工呼吸器をつけますか?」 ALS・告知・選択』メディカ出版、2004
・清水哲郎『医療現場に臨む哲学』勁草書房、1997
・『現代思想』2004年11月号、特集「生存の争い」青土社
・『思想』2005年8月号、特集「医療における意思決定」岩波書店
・日本ALS協会ホームページ
・神経難病情報サービス(国立療養所神経難病研究グループのホームページ)
・難病情報センター((財)難病医学研究財団のホームページ)
・厚生労働省ホームページ
・日本神経学会ホームページ

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2008年1月24日 (木)

ジグムント・バウマン『コミュニティ──安全と自由の戦場』

ジグムント・バウマン(奥井智之訳)『コミュニティ──安全と自由の戦場』(筑摩書房、2008年)

 覆水盆にかえらず、という言い方が適切かどうか分からないが、いったん崩れてしまったら二度と取り返しのつかないものがある。たとえば、“コミュニティ”といわれる人間関係がそうだろう。感覚的に自明なものは議論の対象とはなり得ない。語られた時点で、もはやそれは存在しない。もちろん想像することはできるが、再現的に組み立てたところで、まったくの別物になり下がる。“コミュニティ”の再構築を試みたとしても、それは本来、自発的な帰属意識を意味していたにも拘わらず、不自然な強制を伴うという矛盾を必ずはらんでしまう。私自身はコミュニタリアニズムにどちらかというと好意的だが、このアポリアはどうにもならない。

 ここしばらく、個人化、民営化、規制緩和といった言葉は日本でも当たり前になってきた。“近代化”という社会的動向の最大の特徴は、政治的・経済的・思想的に個人を括り付けてきた束縛を解きほぐすことにある。その果てには、経済効率性の向上による豊かさなり、自律的個人が対等に睦みあうユートピアなり、何らかの究極目標が了解されていた。しかしながら、「解放のために制限を打ち破るという、すぐれて近代的な情熱によって絶えず突き動かされながら、わたしたちはもはや、最終的な意図や目的についての明確なヴィジョンをもってはいないのである」(本書、106ページ)。ヴィジョンの明確だった“近代”を“solid modernity=堅固な近代”とするなら、ヴィジョンの不明瞭な現段階における“近代”をバウマンは“liquid modernity=液状的な近代”と呼ぶ(バウマン『リキッド・モダニティ──液状化する社会』森田典正訳、大月書店、2001年→参照)。

 リキッドな社会において、個人レベルでの自由は格段に広がったように見える。しかし、“自由”は常に逆説をはらむ。“自由”な個人としての力を行使できるのはほんの一握りの人々に限定される(“事実上の個人”)。多くの人々は生物的に人間であるという一点において“自由”の可能性を持つとみなされるが、実際には困難である(“権利上の個人”)。成功者は容易に国境を越えてコスモポリタンと呼ばれるが、実際には他国の同様の人々と付き合っているだけで、意外と人間関係は閉ざされている。彼らは自分たちの地位を守るため“ゲーティド・シティ”に象徴されるような壁を周囲にめぐらす。他方、貧困層・難民など経済生産性の剥奪された人々は成功者の眼に触れない所に追いやられ、“ゲットー”に押し込められる(バウマン『廃棄された生──モダニティとその追放者』中島道男訳、昭和堂、2007年→参照)。“グローバリゼーション”という美しい響きとは裏腹に、それぞれ閉ざされた空間が並存することになる。

 理念としての“自由”と実際の“自由”との間には大きなギャップがある。成功者は自身の努力によって独立独歩でやっていると思っていても、その実、親の世代からの恩恵を受けているが、「自分たちの背後の跳ね橋を吊り上げておくこと」で自分たちの特権的地位を正当化する。“自由”な社会では機会の均等が大前提だが、実際には“見えない格差”によって競争以前の選別が生じている。経済的にだけではなく生活環境も含めて親から有形無形の遺産を受けついでいるにも拘わらず受験=実力本位というフィルタリングを通して事実上の機会不均等が覆い隠されているという佐藤俊樹『不平等社会日本』(中公新書、2000年→参照)の指摘を思い出す。すべては自分の力なのだからエリートは“ノブレス・オブリージュ”の弁えを欠き、すべては自分のせいなのだから貧困層はじっと耐えるよう迫られる。バウマンがしばしばウルリヒ・ベックから引用するように「人は伝記的な解決を求められる」。こうして社会的な分断は正当化され、拡大・固定化する。

 “コミュニティ”への帰属意識が共有されておれば相互扶助の可能性は保てるが、それを崩してきたのが他ならぬ“近代”であった。個人を取り巻く不安定な波に巻き込まれていることに気付いても、一人の努力ではどうにもならない。関係性の回復を求め、“コミュニティ”を再評価する動きが始まるのも当然である。しかしながら、「現実にある個人の弱さやもろさを、コミュニティの(想像上の)潜在力に作り替えることで、保守的なイデオロギーや排他主義的な語用論が生み出される」(本書、138ページ)。もはや失われてしまった共同性を復活させようとしても、外への排外主義、内なる個人への抑圧というまた別種の問題が生じ得る。アイデンティティ・ポリティクスの陥穽がぽっかりと開いており、“コミュニティ”への忠誠心を利用して一定の政治目的に人々を動員操作する可能性が現われることにバウマンは注意を促している。

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2008年1月23日 (水)

新井一二三『中国語はおもしろい』

新井一二三『中国語はおもしろい』(講談社現代新書、2004年)

 先日、台北でぶらぶらと書店を歩き回っていたら、新井一二三という人の本が平積みされているのをよく見かけた。タイトルからすると日本文化論、東京論といった感じ。訳者名は併記されていなかったから中国語で書かれたのだろう。その時はとりたてて気に留めなかったのだが、帰国してから調べたら本書があるのを知った。経歴をみると、香港・台湾など中国語圏で文章を発表しているジャーナリストのようだ。

 語学の入門書的な本というのは、分かりやすく書かれてはいてもどこか無味乾燥になってしまうのは否めない。本書の場合、中国語圏の概略から生活事情まで著者自身の体験談を織り交ぜて語るうちに、さらりと発音や文法、中国語の勉強法に触れてくれるので呑み込みやすい。「通じないからこそ通じる」という逆説が面白い。“中国語”と一言で言っても上海語、広東語、閩南語、客家語などなど、それぞれに方言どころか別言語と言ってもいいくらいのバリエーションがある。普通話(プートンホア=標準語)をしゃべっても、なまりがあって当たり前。だからこそ、互いに分かり合おうという意志が強く働くから、外国人にとっても参入障壁は低いというのは勇気づけられるじゃないか。なまりを隠そうとする日本人(大阪人は除く)とは言語世界が明らかに違う。普通話─各省ごとの共通語─故郷の方言、という具合に多層的なアイデンティティ構造となっているという指摘も興味深い。

 私は中国語は苦手なくせに、台北でも書店をみつけてはもぐり込んで本をごっそり買い込んでいた。とりわけ、本書の著者がお薦めする誠品書店は私もお気に入り。台湾の書店をうろついていると、村上春樹をはじめ日本の文学作品がおびただしいまでに翻訳され、それが新刊・ベストセラーのコーナーでしっかり売られているのがすぐ目につく。このあいだなど、島田清次郎という大正時代のマイナーな作家の翻訳が新刊で出ていて驚いた。本書の著者が指摘するように日本文化は輸入一辺倒ばかりではなく発信力をきちんと持っていると言える。それと同時に、同じ小説を読めるということはそれだけ感性面での共通性があるという証拠でもあって、その点に私は強く関心を持っている。

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2008年1月19日 (土)

シベリウスはお好き?

 いや、何となくこんなフレーズが思い浮かんだだけで、サガンの小説と絡ませようとかいう意図はございません。あしからず。

 NHK交響楽団1611回定期演奏会に行った。NHKホールにて。考えてみると、NHKホールは本当に久しぶりだ。高校生のとき、大野和士指揮によるショスタコーヴィチ交響曲第十番を聴きに来て以来だから、もう15年も経つのか。意外と変わってないな。

 当日券で自由席、1,500円。さすがにN響でほぼ満席。15:00開演だが、その前にロビーで楽団員による室内楽演奏をやっていた。P・ガベイという人の曲「レクリエーション」。ホルン、トランペット、トロンボーン、ピアノの四重奏という変わった編成。軽快で、なかなか楽しい曲だった。

 今回のプログラムはシベリウスの交響詩「四つの伝説」から「トゥオネラの白鳥」、交響詩「タピオラ」、そして交響曲第二番。N響の名誉指揮者、ヘルベルト・ブロムシュテットの指揮。N響アワーをみていればおなじみだ。穏やかでやさしそうな笑顔にいつも好感を持っているのだが、今回、3階の奥まった席なので、遠くてお顔はよく見えず。

 私はクラシックを聴くようになった中学生の頃からシベリウスの交響曲第二番は大好きで、繰り返し聴いている。とりわけ第四楽章、弦楽のメロディーがなめらかに、かつ高らかに響きわたるあたり、胸の奥にじんわりとしみこんでくる感じで何とも言えず素晴らしい。大好きなメロディーを聴いていると体が我慢できず、かすかながらも手でリズムをとってしまう。斜め前に座っていたおじさんもやはり自然と手が動き出していて、連帯感を覚えた。

 シベリウスはフィンランドの民族叙事詩『カレワラ』に題材をとった交響詩を多く作曲している。中高生の頃、カラヤン指揮のCDで「トゥオネラの白鳥」や「タピオラ」を聴いて、そうした神話的ファンタジーの音楽的表現に興味を持った。もっと聴きたいと思ったものの、その頃はシベリウスの曲でもマイナーなCDは入手が難しかったように思う。「トゥオネラの白鳥」はよく単独で演奏されるが、これを第二曲とする連作交響詩「四つの伝説」の全体は、FM放送でのネーメ・ヤルヴィ指揮による演奏をテープに録音して、これを繰り返し聴いていた。第一曲「レミンカイネンと島の乙女たち」の出だしが好きだった。北方の森林や沼沢が広がる風景を脳裏にイメージして、清潔感を湛えた静寂に憧れを抱いた。

 「トゥオネラの白鳥」でのイングリッシュ・ホルンの響きが実に良い。ホルンとは言っても、見た目は大きめのオーボエといったところか。交響曲第七番でもイングリッシュ・ホルンのソロとオーケストラとの掛け合いが胸がすくように美しく、イングリッシュ・ホルンと言うと私はシベリウスを思い浮かべる。〔追記:確かめてみると、第七番のソロはトロンボーンでしたね(苦笑)。オーケストラの音がたゆたう中で管楽器の音色が孤高に響く感じが良い、と言い換えておきます。〕

 N響の広報誌『Philharmony』2008年1月号でシベリウス特集が組まれていたので、休憩時間に買い求めた。神部智「幻の《交響曲第8番》とシベリウス晩年の美学」でシベリウスに交響曲第八番の構想があったことを初めて知った。十九~二十世紀にかけてのヨーロッパは中小国でナショナリズムが大きく盛り上がった時代だが、リョンロートによる『カレワラ』採集と共に音楽がそのシンボルを果たした背景を新田ゆり「祖国と自然への想いを今につないで」は簡潔に教えてくれる。池田和秀「シベリウスの国は小さな音楽教育大国」によると、そうした音楽のシンボリックな位置付けから、弱小国としての立国の道として音楽も一つの柱となっているそうで、人口に比した音楽の活況ぶりに驚いた。

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2008年1月18日 (金)

白川静『孔子伝』

 私は中学生の頃から『荘子』が好きだった。言葉は絶対ではない。『荘子』に見える逆説に満ちた寓話を通して、言葉では決して示し得ない何かに目を向けるという発想に早くから馴染んだことは、私の乏しい読書体験の中では唯一と言って良いくらいの収穫だったと思っている。もともと中国史に興味があったのだが、中国の古典を現代日本語訳したシリーズが徳間書店から出ており、それを読み漁っているうちに『荘子』と出会った。儒家のものは読まなかった。儒家は体制派、老荘は反体制という単純な先入見があったからだ。大学生になって『論語』を初めて読んだ。一つ一つのセンテンスが短いので、漢文の勉強のつもりでノートに書き写しながら。意外と違和感はないのがむしろ驚きだった。

 白川静『孔子伝』(中公文庫、1991年)は漢字についての徹底的な考証を踏まえて、倫理道徳の権化のような孔子像を崩し、古代世界に生きた生身の彼の姿を描き出そうとする。とりわけ私が興味を持ったのは、「孔子の精神は、むしろ荘周の徒によって再確認されているように、私は思う」(本書、270ページ)という指摘だ。「儒教のノモス化は、孟子によって促進され、荀子によって成就された。それはもはや儒家ではない。少なくとも孔子の精神を伝えるものではないと思う。儒教の精神は、孔子の死によってすでに終っている。」「イデアは伝えられるものではない。残された弟子たちは、ノモス化してゆく社会のなかに、むなしく浮沈したにすぎない。」

 孔子の思想の核心は“仁”という一言に尽きるのだろうが、「他人への思いやりの心」と言い換えてしまうと陳腐だし、無意味だ。要は人それぞれが心の中に秘めている純粋さ、誠実さを呼び覚まそうということで、それは具体的に定義できるものではない。そうした心情的な何かを形式として表出させれば“礼”となる。孔子は伝統的古俗を探りながらその“礼”をまとめ上げるわけだが、人としてのあり方を形式規範で縛りつけることを意味するのではない。天地の間に生きる者として、私は私であって私ではないという確信が得られれば、“仁”といい、“礼”といっても、ごく自然な感覚で体現できるのだろう。

 結局、“仁”の表われ方は人それぞれだと思う。「人それぞれ」と言っても、自分勝手な放恣を指すのではない。人は所与の条件の中で生きるしかない。様々な制約がある中でも、自分なりの純粋さ、誠実さを追求してみる。ただし自分を甘やかして独りよがりになりかねないから自己批判的に。古の伝統に“礼”を求めるのは、思いつき程度の独りよがりな思い込みを常に相対化するためだろう。その結果として、こういうあり方が自分にとって自然だと感じられれば、それこそが“道”であるとしか言いようがない。

 このような試行錯誤は手がかりがないだけに難しい。手がかりを外に求めたくなる。孔子の言葉に注釈を施し、規範化する動きが生まれる。規範に従うことで何かが分かったような安易な納得を求め、他人にもその規範を押し付けようとする。自身の生身の感覚を総動員した試行錯誤を欠いた場合、規範への順応は空疎となる。注釈と規範とによる一大秩序体系=ノモスがこの世を覆いつくし、個々人それぞれの可能性を平均化しようという抑圧が生ずる。しかしながら、「『論語』は、特に孔子の語を、一貫して流れているものは、そのようなノモス的社会とは調和しがたいものである。」(本書、254ページ)

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2008年1月17日 (木)

澁谷由里『馬賊で見る「満洲」』『「漢奸」と英雄の満洲』

 太平天国の動乱以降、清朝末期から中華民国初期にかけて中央権力を欠いた中国では各地で武装勢力が割拠する混乱状態に陥っていた。世界史の教科書的に整理すると、淮軍を率いて太平天国を鎮圧した李鴻章系が洋務運動の担い手として中央政界に重きをなし、その中から新建陸軍を築いた袁世凱が台頭。彼が辛亥革命時に孫文と取引きして清朝に引導を渡して中華民国の大総統となったが、帝政運動に失敗して失意のうちに死ぬ。袁の部下たちは北洋軍閥として抗争。蒋介石率いる国民革命軍による北伐及び張学良の易幟(1928年)によっていったん中国は統一されたものの、今度は国共内戦に突入、という流れになる。こうした混乱期には、当然ながら各地で自衛の動きが出てくる。たとえば“馬賊”という言い方がされるが、その中には一定の保険料を徴収していわば必要悪的に形成された自衛武装集団(保険隊)などもあった。

 澁谷由里『馬賊で見る「満洲」』(講談社選書メチエ、2004年)はこうした“馬賊”出身者の中でも張作霖に焦点を当てる。張作霖といえば日本の傀儡となったなり上がり者というイメージも強いが、本書はそうした定説的な理解に疑問を呈し、むしろ彼の政権の自立的な性格に注目する。とりわけ、張作霖政権下、奉天という一地域ではあっても警察行政の刷新、税務機構の整備、財政再建、鉄道の敷設、大学の創立など内政改革を進めた王永江という人物を高く評価している。中央派遣のキャリア官僚(科挙官僚)がいなくなって、地元の中下級官吏たちのモチベーションが上がったこともこうした改革が成功した一因であったとも指摘する。

 中国近代史では康有為や孫文などの革命家が名高いが、彼らには理想はあっても混乱を終息させるだけの実行力がなかった。国家を秩序だってまとめ上げるには財政と軍事力とが不可欠であり、その点で着実な実行力を示そうとした人物として本書は袁世凱を評価。小規模ながら張作霖も同様の方向を目指していたという位置づけも興味深い。

 「保境安民」、つまり一定の秩序を保って民生を安定させるのが第一の目的であり、そのためには清濁併せ呑む。王永江はそうした態度で日本軍とも妥協を重ね、バランスをとった。澁谷由里『「漢奸」と英雄の満洲』(講談社選書メチエ、2008年)は、張作霖と張学良、張恵景と張紹紀、王永江と王賢湋、袁金鎧と袁慶清、于沖漢と于静遠という五組の父子それぞれを主役とする五章構成。張作霖・張学良親子と王永江を除けば、みな満州国に関わっており、彼らを“漢奸”として断罪して終わらせてしまうのが戦後歴史学のスタンダードであった。しかし、彼らとても「保境安民」という一線を持っており、抗日派とは方法論の違いに過ぎなかったと考えることもできる。

 満洲国の初代国務総理・鄭孝胥は洋務官僚出身の知識人で二代目国務総理・張恵景は“馬賊”あがり。二人とも日本側のスキを見て主導権を取り戻そうという思惑では共通していたが、出身階層の違いからソリが合わず協力することはできなかった。こうしたあたりから中国社会における庶民と知識人との断絶が見出せる。

 山海関の東、いわゆる“満洲”は清朝発祥の地としてかつては漢族の移住は禁止されており、漢族にとってなじみは薄かった。しかし、この地が“満洲国”として分離されたためにこそ、かえってここもまた中国の一部のはずだと意識化されたという指摘は、日本への対抗意識をもとに中国ナショナリズムが形成されたことを考える上で興味深い。

 日本の大陸進出は現地の人々の受け止め方を考えれば決して美化できないが、かといって中共の公式見解である人民史観も不自然だ。そうしたもどかしさが著者の動機となっている。特定の史観ですっきり整理してしまうのではなく、矛盾をはらみつつも試行錯誤していた人物群像を、上記二著はエピソード豊かに表情も浮かぶように描き出しており、とても面白かった。

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2008年1月16日 (水)

台北を歩く⑪誠品書店信義店にて

(承前)

 最後のお目当て、誠品書店信義店へ向かった。2006年に開店した新しい旗艦店である(写真84)。2~5階までを書店が占めている。店舗面積は実に広々としており、池袋のジュンク堂書店よりも広いのではないか。本店は24時間営業だが、ここも遅くまで開店しているはずで、正確な時間は確認していないが、少なくとも店内にある喫茶店の閉店時間は夜中の0:00だった。

 上から、まず5階は児童書フロア。中国語ばかりでなく、日本語、ヨーロッパ諸語の絵本が取り混ぜて置かれている。4階は洋書と芸術のフロア。日本語専門コーナーがある。芸術・ファッション・旅行関係が多い。換算レートにもよるが、日本で買うよりも1割ほど高くなってしまう。3階は人文関係。ちょうど、台湾大学の心理学の教授によるトークセッションが行なわれていた。それから、社会科学・ビジネス。2階が新刊・雑誌フロア。6階はレストラン街。

 ジュンク堂と同様、店内に座れるスペースがある。座り読みどころか堂々と調べ物や勉強をしている姿も目立ち、中には本の開きを手で平らにならしている人がいたのには驚いた。部数の多い新刊や雑誌はビニール包装されており、平積みの一番上に1冊だけ見本用が置かれているので、それを読んでいたのだろう。立ち読み・座り読みには日本よりも寛容な社会のようだ。

 台湾の書店で娯楽小説をみると、金庸などいわゆる武侠小説という中国独特の小説ジャンルがある一方で、現代小説や推理小説、それから漫画のコーナーをみると日本語からの翻訳が圧倒的に多い。日本の名だたる作家のものはほとんど翻訳されているし、漫画に至っては9割以上が日本作品だ。誠品書店信義店のような巨大書店をみても、これだけの出版物が出ているというのは台湾の人口から考えて驚異的だろう。読者需要というだけでなく、書き手という供給源の点からも一定の人口は必要である。台湾は人口比率からいって日本の約五分の一だが、娯楽作品については日本からの翻訳という形で供給源を補っていると言えるのだろう。

 日本のファッション雑誌は誠品書店などの大型書店に限らず街中の中規模店でも普通に置かれている。中国語版も装丁の雰囲気はまったく変わらず、ひらがな・カタカナが装飾的に使われたりカバー表紙で日本のアイドルが微笑んでいたりするので、並んでいてもどちらが日本語版でどちらが中国語版なのか、一瞬、見分けがつかないくらいだ。

 4階に大陸から輸入された簡体字本の専門コーナーがあった。台湾では民主化によって大陸からの輸入制限が緩和されている。西欧の学術的成果を摂取する際、かつては台湾独自で翻訳するか、もしくは日本語経由で読んでいた。ところが、近年は大陸の経済水準、そして文化水準が向上するにつれて、大陸でも西欧文化の翻訳出版が盛んになり、人口が多いだけに翻訳のペースもはやい。しかも、台湾や日本の本よりも廉価で入手できる。そのため、台湾では近年、簡体字本の需要が高まっているという。

 新刊のベストセラーでは、安妮宝貝(アニー・ベイビー)『蓮花』(繁体字版)が一位となっていた。安妮宝貝は上海を舞台とした小説を書き、ネット発で大人気、中国語圏の若者世代から広く支持されている(なお、帰国してから神保町の内山書店で大陸刊行の『蓮花』簡体字版を手にとって見たら、本の作りは台湾刊行の繁体字版の方が断然きれいだった)。これと合わせて興味を持ったのが、誠品書店でも張愛玲の小説がたくさん平積みされていたことだ。前にも述べたように、戦前の上海でラヴ・ストーリーを書いた女流作家である。張愛玲の原作をもとにトニー・レオン主演で映画が製作されているという事情がある。新旧両世代で大陸作家の小説が売れているというのが興味深い。

 同じ中国語(北京語)を公用語とする国として台湾は大陸と文化的土壌を共有している。他方、先に触れたように、娯楽小説や漫画の大半は日本語からの翻訳である。最近は韓国語からの翻訳も増えてきているようだ。娯楽作品は難しい思惑はとりあえず関係なく、自然な感覚で読むものだから、それだけ日本や韓国との共通した感性を台湾の一般読者は持っていると言える。つまり、言語的な共通性によって大陸に開かれつつ、同時に大陸からは独立した政治単位として、大陸と日本や韓国との結節点としてのポジションをとる。書籍事情からみても、そのように台湾が今後とるであろう方向性は考えられるのではないか。

 やはり本をごっそり買い込んでから宿舎に戻った。翌四日目、24時間営業の誠品書店敦南本店に早朝から足を運び、さらに何冊か買い足す。中国語は苦手なくせに、結局、合わせて20冊以上の本を買い込んでしまった。ついでに近くの国父紀念館にも寄る(写真88)。孫中山先生でございます(写真84)。儀仗兵の交代式(写真85写真86)。蒋介石は否定される一方で、孫文については国父としての地位は剥奪されていない。写真87は国父紀念館から見た台北101。昼12:00に集合場所で観光会社のバスに拾ってもらい、桃園国際空港へ行き、帰国の途に着いた。

(了)

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2008年1月15日 (火)

台北を歩く⑩行天宮・台北101

(承前)

 宿舎にいったん戻り、荷物だけ置く。16:00なので、時間を無駄にせずすぐ外出。今まで歩いたことのない東方向へ足を向けた。まっすぐ行くと何嘉仁書店というそこそこの大きさの書店があったので中をひやかした。この店から交差点を挟んだ向かい側に行天宮がある。交差点下には地下道があり、占い師の店が並んでいる。「日本語できます」という札のかかった店も多い。アロエ美肌療法をやっているおばさんもいて、日本人観光客が何人か集まっていた。

 行天宮に行った(写真80)。中に入っても、さてどうしていいものやら分からない。とりあえず、脇に並ぶベンチに腰かけ、メモをとりながら観察することにした。弁当を食べてるおばさんもいるから無作法ではないだろう。ただ、気がとがめるので写真は撮らなかった。

 老若男女を問わず、背広の男性も、バッチリ着こなした若い女の子も、とにかく人出が多い。長い線香を四、五十本ほどもあろうか束になって赤い紙にくるまれたのを宮の外で買ってから中に入ってくる。広場の中央と廟堂の前とに一つずつ火おこしがある。まず、中央の火おこしで線香に火をつける。一本を火おこしに放り込み、もう一本を両手で頭上におしいただき、線香を少ししならせるように振りながら一礼。人によっては、四、五回くらい礼をしており、敬虔そうな感じを受ける。人ごみでよく見えなかったのだが、さらに廟堂の前に行ってもう一度同じ礼を繰り返しているようだ。

 廟堂の前には青い衣を身にまとったおばさんたちが並んでいる。巫女さんだろうか。人々が行列して待っており、順番にお清めしてもらっている。巫女さんは火のついた線香を持っており、参拝者の頭上、前、後の順で線香をかざして煙を体にかける。これを何回か繰り返す。子供用の衣服を持ってきて、これに煙をかけてもらっている人もいた。無病息災の願いが込められているのだろうか。

 人がワサワサする中、時折、カタン、カタンと何かが石床にあたる音が響き渡る。廟堂の前で参拝者がふるサイコロの音だ。サイコロの入った両の掌を頭上に捧げ、体全体で勢いをつけてゆっくりと床に落とす。おみくじみたいなものか。道教の知識は皆無なので、作法の意味付けがさっぱり分からない。とりあえず手を合わせ、一礼して立ち去った。

 行天宮からさらに東へまっすぐ15分ほど歩いただろうか。途中、榮星公園の前を過ぎた。辜顕栄一族の別宅だった所らしい。しばらく行くとモノレールにぶつかる。MRT木柵線である。中山國中駅で乗車。現在はここが終着駅となっているが、建設中の路線が北の松山空港に向けて延びている。モノレールといっても、台北の街は高層建築が密集しているので視界はあまり開けない。微風広場というショッピングセンターの脇を通りかかった。紀伊国屋書店がここにあるのは帰国後に知った。忠孝復興路駅で地下鉄に乗り換え、市政府駅で下車。

 市政府駅の南側、信義地区は再開発されたばかりで、デパートやシネコンが集まっている(写真81写真82)。新光三越デパートのスカイロードをまっすぐ渡り、台北101の前に出た(写真83)。正式名称は臺北國際金融大樓。金融機関が集まったビジネスの最先端らしい。101階の高層ビルだが、最近、ドバイに抜かれてアジア第二位となったという。1~5階は太平洋そごうデパート。ここにページワンというシンガポールの書店グループが店舗を構えていることはやはり帰国後に知った。

 5階から直通エレベーターで89階の展望台まであがる。チケット売り場では中国語の分からない東洋人とみると日本語で話しかけてくる。時間は19:00を過ぎている。夜の台北の街に光の斑点がびっしりと広がっている様子は実に美しく、しばし時を忘れて見とれてしまった。

(続く)

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2008年1月14日 (月)

台北を歩く⑨台湾大学にて

(承前)

 歩いてMRT芝山駅に出た。淡水線に乗り、台北中心部を突っ切って南の公館駅で下車。ここは学生街である。

 台湾大学に行った。写真72は正門。衛視室は古い写真で見るのと全く変わらない。キャンパスは広々としており、学生は自転車で移動している。図書館までまっすぐにのびる椰子並木道が実に壮観だ(写真73写真74)。写真75は並木道沿いにあった建物。「国家科学委員会/人文学研究中心」となっている。赤レンガの風合いがレトロに重々しい。戦前の台北帝国大学の時の建物を現在でもそのまま活用している。撮影に失敗してしまったが、写真76は傅斯年ベル。戦後、新制の国立台湾大学初代学長を記念した鐘である。キャンパス内にまで路線バスが入ってきており、その停留所が鐘の前にあった。写真77が並木道の突き当たりにある図書館。

 理学部の校舎の前を通りかかったら、教室で原子物理学について展示をしているのでお気軽にどうぞ、という看板を見かけた。これを口実に校舎に入ってみた。展示教室では年配の女性が一人見ているだけ。あまり興味はないのですぐに退室。廊下をぶらぶら歩く。私は見た目として院生くらいの年齢なので、学生たちとすれ違っても不審がられることはない。日本でも戦前から続く大学のキャンパスだと古い校舎を直し直し使っていることがあるが、内装はそうした校舎と全く変わらず、外国の大学にいるという実感がわかない。歩いている学生の顔立ちも服装も日本人と見分けがつかないし。弁当を手にした学生が教室を覗き、「あ、ここ使ってる」という感じに場所探しをしている姿もなつかしい。

 台湾大学前の大通りは羅斯福路という。ルーズベルトのことらしい。正門からこの通りを挟んだちょうど真向かいに吉野家があった。話のタネにでもと入ってみる。カウンターで頼み、トレーに出た牛丼を持って席に着くのだが、内装はちょっとしたファミレス風。時間帯がずれていたのか空いており、何人か勉強している台湾大学生を見かけた。

 豚汁は甘めだが問題はない。キャベツの浅漬けは甘すぎる。紅生姜はなく、代わりに生姜の甘酢漬けがテーブルに置いてあった。牛丼そのものは米も普通で特に問題はない。ところで、中国や韓国と同様、台湾でも器を手に持って食べることは不作法とされる。一応気にしているので丼を置いたまま箸でこぼしながら米粒をすくっていたのだが、非常に食べづらい。牛丼はやはりガーッとかきこむのでないと、食べたという爽快感がない。周囲を見回すと、まず牛肉を箸でつまんで口に入れ、それからレンゲでご飯をすくって食べていた。微妙なところだが、食習慣の違いが見えて面白かった。

 台湾大学の周辺には書店が多いと聞いていたのでぶらぶら散歩。大学正門前の交差点脇には誠品書店の支店。店内はきれいだし、書棚の揃えも充実している。新生南路沿いに北へ行くと、日本式家屋を見つけた(写真78)。この家の前から横丁に入ると、台湾e店という書店がある。“e”にあたる文字を変換できないのだが、台湾語で“の”を意味するらしい。つまり、“台湾の店”。台湾人アイデンティティーをコンセプトとしており、台湾の歴史や文化についての本が充実している。5冊ほど買い込んだ。

 裏手の通りに入ると、宅地の中にカフェなどの店が混在している区域。喫茶店の窓越しに、勉強している台湾大学生の姿が見えた。羅斯福路を南に渡ると、にぎやかな商店街。“挪 威森林”という喫茶店(写真79)。つまり、『ノルウェーの森』。村上春樹好きが開いた店らしい。

 古本屋があったので入ってみた。店先のダンボール箱に二束三文の漫画やライトノベルが詰め込まれていた。店内に並べられているのが中国語の本であるということを除けば、日本でも見かける昔ながらの古本屋のイメージそのまま。ほこりっぽい空気が実になつかしく、落ち着く。丸川哲史「台北書店めぐり」(『未来』463号、2005年4月)によると、台湾の古書店には戦前に刊行された日本語の古書もかつてはたくさんあったらしいが、噂を聞きつけた日本人研究者がごっそり買いあさったため、今ではまったく見かけないという。

 南天書局も台湾関係の書籍が充実しているらしいので探したのだが、見つからず。校園書局はなぜか宗教書が多い。金石堂書店は標準的な書店という感じだろうか。外国文学の棚をみると、日本が2棚、韓国・美国(アメリカ)・英国が1棚ずつ、その他で2棚という配分。新刊・ベストセラーのコーナーでは日本語からの翻訳ものが目立つ。携帯小説の『恋空』まで平積みされていた。映画は台湾でも上映される予定らしく、オビに新垣結衣の写真があった。

 日本にいたときに台湾文学について調べて朱天文・朱天心姉妹、李昂、白先勇、舞鶴といった名前を頭に入れておいたのだが、実際に街中の新刊書店をひやかしてみると、あまり見かけない。棚ざしで1冊ずつあればいい方だ。書店では網路文学(ネット文学?)・励志文学(ライトノベル?)の藤井樹や九把刀(Giddens、ギデンズ)の本がよく目立った。中国文学を専攻する大学の先生たちと実際の一般読者とでは大きな乖離があるようだ。文学としてのクオリティーはひょっとしたら低いのかもしれないが、それもひっくるめてトータルに紹介してくれないと、現代台湾事情が見えてこない。なお、藤井樹はペンネームらしいのだが、“ふじい・いつき”と読んでいいのだろうか? 岩井俊二監督「LOVE LETTER」の主人公の名前だ。

 リュックサックに詰め込んだ本の重みで肩が痛いので、いったん宿舎に戻ることにした。公館駅でMRT淡水線に乗り、民権東路駅で下車。

(続く)

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2008年1月13日 (日)

台北を歩く⑧圓山・忠烈祠・芝山巖

(承前)

 三日目の朝。快晴。昨日は台北市の中心部を歩いたが、今日はその北のはじと南のはじを回る予定。

 宿舎を出て北上。朝食を摂れる店が見当たらず、コンビニでメロンパンを買ってぱくつきながら歩いた。台湾のコンビニでは包装済みの菓子パン、それからおにぎりは置いてあるのだが、サンドイッチ(三明治)など惣菜パンはない。その代わり、朝、駅の近くなどでは三明治を売っているおばさんを見かける。棲み分けをしているようだ。また、飲み物の自動販売機は公園など一部の区域を除き、街中で全く見かけなかった。ただし、コンビニ密度が極めて高いので、飲み物はちゃんと買える。台湾の水道水は硬水なので、うっかり飲むと腹を下してしまうから要注意。

 林安泰古暦へ行ったが、朝早いので閉まっていた。松山空港へと降りる飛行機が轟音を立てて頭上を通り過ぎる。台北市立美術館へ出た(写真56)。「海洋堂與御宅族文化」(海洋堂とオタク文化)展を開催中。海洋堂というのはフィギュア人形で有名な日本の会社である。こんなところでお目にかかるとは驚いた。

 ここから圓山へ向かって基隆河を渡るつもりだったのだが、橋は自動車専用らしく歩道がない。排気ガスを浴びながら立ちつくす。やむを得ず、最寄りの圓山駅へ行ってMRTに乗り、次の剣潭駅で下車。たいていの観光客は北口から出て士林夜市へと行くが、私は南口から出る。

 MRTは中心街では地下鉄だが、この辺りまで来ると高架路線となっている。かつて勅使道路と呼ばれた大通りと並行している。皇太子時代の昭和天皇が台湾神宮に詣でた道である。朱天心『古都』でこの高架路線は無粋だと文句をつけていたのを思い出した。この小説に時折“宮の下”という駅名が出てくるのが気になっていた。以前は北の淡水まで線路が敷かれており、現在の剣潭にあたる駅にそう名づけられていたらしい。つまり、台湾神宮参詣者のための駅であった。

 目の前に小高い山がそびえている。ふもとの大通りに面した道観の脇に階段があった。のぼると、圓山大飯店の駐車場に出る。かつての台湾神宮の故地である。戦争中、1944年に飛行機墜落事故で焼失、そのまま再建されることはなかった。祭神は大国主命・大己貴命・少彦名命、それから北白川宮能久親王。北白川宮は1895年の台湾進駐時に近衛師団長として上陸、陣中で病没したためここに祀られた。彼は彰義隊に擁立されて上野の寛永寺に立てこもった経歴もあり、皇族ながら数奇な人生が興味深い。

 日本の植民地支配でいつも不思議に思うのは、支配地に必ず神社を建てることだ。信仰の押し付けの無理という問題ばかりでなく、明治憲法体制下において国家神道は宗教ではないという見解が取られていたことも含め、現代の我々の感覚とはだいぶ距離を感ずる。当然ながら、そうした植民地の神社はすべて取り壊された。以前にソウルに行ったことがあるが、朝鮮神宮の跡地には抗日運動のシンボルとして安重根紀念館が建てられている。台湾神宮の跡地に建てられたのが圓山大飯店(写真57)。別に政治的理由はない。景色がいいからと宋美齢が蒋介石にせがんだから。トイレを拝借しようとロビーに入る。日本人観光客のざわめく日本語があちこちから聞こえてきた。

 ふもとに降りると、車の流れが激しい大通りに出た。圓山大飯店を見上げるように撮影(写真58)。剣潭旧址という碑文があった(写真59)。基隆河に降りてみた(写真60写真61)。高速道路の向こうに台北101がかすかに見える。川沿いにはサイクリングロードが整備されていた。

 忠烈祠まで歩く。圓山大飯店からはそんなに離れてはおらず、15分くらいか。日本統治時代、ここには護国神社があった。それをつぶした上に国民党軍の戦死者を祀るメモリアル・パークがあるというのが面白い。入口から廟堂に向かって3本の筋が続いている(写真62)。一時間ごとに儀仗兵の交代式が行なわれるのだが、その際に行進する跡がくっきりと正確に残っている。

 交代式まで時間があったので霊廟に祀られている位牌を一つ一つ確認した。女性革命家として知られる秋瑾の名前がすぐ目に入る。台湾での抗日運動で命を落とした人々の名前もあり、台湾を中華民国の歴史に組み込もうという意図がよく窺える。羅福星の名前が見えるのは当然だが、莫那魯道(モーナルダオ)や花岡一郎まであった。モーナルダオは1930年の霧社事件(こちらを参照)で原住民族の反乱を指導したタイヤル族の族長。花岡一郎はタイヤル族出身だが日本名を与えられて警官となっていて、霧社事件に際して日本人と出身部族との板ばさみに悩んだ挙句、自殺した人物である。何人か際立った人物の紹介文があったのだが、烏斯満(オスマン)というカザフ人族長が目を引いた。1951年、伊寧にて81歳で戦死。人民解放軍が新疆に進駐し、多数の国外脱出者を出した時である。

 そろそろ観光客が集まってきた。交代式の様子(写真63写真64)。基隆河を渡るときにまごついて予定がくるってしまっているので、次の目標地・芝山巖まではタクシーで行くことにした。「我想去這個…」と怪しげな中国語を口に出しながらメモ帳を見せる。運転手さんは了解!という感じに大きくうなずいた。タクシーの初乗りは70元。一定距離ごとに5元ずつ上がる。原油価格の高騰を受けて去年の10月に料金設定が改定され、メーターの5元ずつ上がるペースが速められているそうだ。それでも東京で乗るのに比べると安いと思う。

 芝山巖も小高い山だ。息を切りながら傾斜の急な石階段をのぼった。日本の台湾領有後間もなく、教育問題担当として台湾総督府に派遣された伊沢修二のイニシアティブでここに芝山巌学堂が開設されたのだが、1896年、地元民に襲われて六人の日本人教師が殺害されるという事件が起こった。伊沢は北白川宮の遺体に付き添って一時帰国していたので難を逃れた。その後、この事件は“芝山巖精神”として称揚され、植民地教育の格好な宣伝材料となる。なお、伊沢修二は日本の初等教育、とりわけ音楽教育の基礎を築いたことで知られる。弟の伊沢多喜男は民政党の加藤高明内閣の時に文官として台湾総督に就任した。

 伊藤博文の揮毫による「学務官僚遭難之碑」が今でも残っている(写真65)。戦後は倒されたまま放置されていたが、陳水扁が台北市長の時に立て直されたという。台湾では六氏先生事件といわれているが、その経緯を示すパネル(写真66写真67写真68)もある。碑文の後方に雨農閲読室というガラス窓の小さな建物が見えた。事件に関わる紀念館なのかと思って入ってみたが、自習室として利用されているようだ。法曹資格か公務員試験か、弁当持参の男性二人が熱心に勉強していたので、邪魔にならないよう静かに退室。抗日運動のシンボルとなっているはずだが、同時に教育の聖地としての意味合いも保たれているのだろうか。

 この山は現在、自然公園として整備されている。太極拳の練習を終えたジャージ姿のおばさんたちが歩くのものどかな雰囲気だ。近所の小学生たちが先生に連れられてワヤワヤと通り過ぎた。四阿(あずまや)があったのでしばし休息。まだ11時、空は青く澄みわたり、そろそろ陽も南中しようかという頃合。木立に囲まれた中に座る。風は少し強い。日本でいうと晩秋を思わせる冷気を浴び、それがかえって清々しく心地よい。

 石階段を降りる。戦前は芝山巖神社があったそうだが、確かに鳥居が似合いそうな石段である。降りきって大通りを挟んだ向かい側にも芝山巖事件についての大きな碑文があった(写真69写真70)。山のふもとでは石器時代の遺跡がドームに覆われて資料室となっている(写真71写真72)。入口の看板は馬英九の筆による。陳水扁の次の台北市長で現在は国民党の総統候補である。また、恵済宮という道観もあった。道教も日本の神道と同様に民間信仰としてのアニミズムが混淆しているという印象があるのだが、こちらでも山が崇拝対象になるのだろうか?

(続く)

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2008年1月12日 (土)

台北を歩く⑦北門から大稲埕へ

(承前)

 1895年、日清戦争後の下関条約によって日本の台湾領有が決まった。台湾にいた人々の間ではこれを不満に感じ、台湾巡撫として赴任していた唐景崧を総統に立てて台湾民主国の独立を宣言する動きがあった。ところが、基隆に日本軍が上陸すると民主国首脳はさっさと大陸に逃げてしまい、統制のとれなくなった軍隊が台北府内で略奪を始めるなど混乱した状況を呈する。そこで秩序回復のため日本軍を城内に導き入れようと、豪商の辜顕栄が代表として基隆に赴いた。日本軍が北門に到着すると、城内にいた陳法という老婆が梯子をおろして手引きし、日本軍は台北への無血入城に成功する。

 北門以外の城門は日本によって壊されたり、放置されて崩れてしまい、戦後になって復元されたものだが、この北門のみは辛うじて清朝時代から残っているらしい。ただし、高速道路が頭上をかすめており、史蹟というには意外なそっけなさ(写真39写真40)。東京の日本橋と同じ状況である。

 北門のあるロータリーに面して台北郵局の堂々たる姿(写真41)がある。戦前からずっと郵便局として使われている。北門前の忠孝路は台北で一番のメインストリートで車の流れが激しく、横断するだけでも一苦労だ。道路中の島状になった中継点から台北駅方面を撮影(写真42)。左、水色の頂きのある赤い屋根が台北駅。右のノッポビルが台北市内で二番目に高い新光人寿保険摩天大楼。このビルに新光三越百貨店が入っている。

 道路を渡りきった所に鉄道局がある(写真43)。日本統治時代から鉄道局として使われてきた建物だが、改修作業の最中のようでドームに覆われている。現在、ここで業務は行なわれておらず、中に入ろうにも立入禁止となっていた。入口だけ撮影(写真44)。裏手に回ると、やはり戦前からある鉄道工場の保存・改修工事の様子が見えた(写真45)。北門近辺一帯で再開発のプランがあり、鉄道局の保存・改修工事もその一環らしい。

 鉄道局の裏手には日本統治時代から日本人の鉄道職員用に戸建て住宅があり、敗戦後六十年もの星霜を閲した現在でもひっそりとしたたたずまいを見せている。庭の木々が大通りの喧騒や排気ガスを遮って、静かな別世界。ただし、街並みは荒れている。人の気配がほとんどない。北門近辺の再開発エリアに組み込まれているようで、この一帯は近いうちに更地になる予定らしい。日本人住宅には国民党と共に台湾へ来た軍人や公務員が住み、そうした住宅街を眷村という。ほんの二、三軒ばかり、洗濯物を干している家があった。転居を頑強に拒んでいるのだろうか。行き場のない孤独な老後を過ごす外省人なのかもしれない。侯孝賢監督「童年往時」(1985年)は高雄近郊の眷村を舞台として大陸の故郷を想いつつ亡くなっていった家族の姿を静かに描き出していたが、その孤独で淋しげなたたずまいをふと思い出した。

 写真46は日本式住宅街の一角。ボヤをおこしてそのままの家がある。右奥に見えるのが台北駅前の新光人寿保険摩天大楼。人の姿を見かけない代わり、犬や猫が闊歩している。屋根の上から猫がこちらを見ていたので一枚撮った(写真47)。

 鉄道局を後にさらに北上して、座標軸の西北ブロックに入る。大稲埕と呼ばれた地域である。もともと萬華・大稲埕ともに台湾人がつくった街だが、日本統治時代には商業の中心はこちら大稲埕の方に移っていた。車が一台ようやく通れるくらいの路地の両脇には四、五階くらいはある建物がすき間なく建ち並んでいる。問屋が集まっており、ちょっとうろついただけでも繊維問屋街、薬種問屋街、乾物問屋街をくぐり抜けた。観光スポットとしては迪化街が知られている。

 日本統治時代から実力を蓄えていた台湾人豪商の邸宅もこの大稲埕に散らばっていた。写真48は李春生紀念教会である。李春生は台湾の代表的豪商の一人。クリスチャンだったことにちなみ、彼の住んでいた所にこの教会が建てられたらしい。

 植民地支配は被支配者に対する抑圧構造を内包させる。日本による台湾の植民地支配が軌道に乗る一方、1920年代になって、台湾人の権利を合法的に向上させようという動きが始まった。台湾人の参政権を求める知識階層が集まり、台中の名望家・林献堂を総理、大稲埕で医院を開業していた蒋渭水を幹事として台湾文化協会が結成された。活動の一環として「港町文化講座」が開設されたが、それは現在の李春生紀念教会の斜め向かいあたりだったという。

 この教会前をさらにまっすぐ北上すると、古くてどっしりとした構えの建物が右手に現われた(写真49写真50)。陳天来という茶商の邸宅である。路地が狭いので正面からの撮影はできない。表札を見ると現在の持主の名字は異なっていた。日本統治時代に港町と呼ばれたこの通りには茶商が集まっていたらしい。李春生も茶の貿易で巨富をなした一人である。

 港町という名前から分かるように、淡水河に面した港がすぐ近くにある。河畔に出てみようと道を曲がると大通りにぶつかった。車の流れが激しく、横断するのに躊躇してしまう。濛濛たる排気ガスにせきこむ。朱天心『古都』でも、旧大稲埕を歩き回った最後にこの淡水河岸に出ようとするが、やはりトラックにひき殺されそうになりながら慌てふためくシーンがあった。写真51が淡水河畔への入口。写真52の碑文には淡水河沿いの港の位置が記されている。対岸は三重市で、台北近郊圏が河を越えて広がっている。

 街中に戻った。次の目標は辜顕栄の邸宅である。ガイドブックを参考に狭い路地に入り込む。現在は彼の号をとった榮星幼稚園があるが、その奥の方はよく見えなかった。前にも述べたように、辜顕栄は日本軍の台北入城に積極的な役割を果たし、その後も日本と協調することで事業を拡大させた。1934年には貴族院議員に勅撰されている。息子の辜振甫も実業家として活躍し、中台間の交流機関である海峡交流基金会会長を務めたことで知られている。

 迪化街を横切って帰綏街を東に進み、日本統治時代に遊郭があったという場所に出た。戦後は公娼地区となっていた辺りを歩いてみたが、つぶされて新しく公園となっており、それらしい雰囲気は跡形もない。

 日本の敗戦後、台湾は中華民国の統治下に入ったものの、国民党の放漫な経済政策のため人々の生活は壊滅的な打撃を受けていた。1947年2月27日のこと。闇タバコを売って女手一つで子供を育てていた女性が専売局の闇タバコ摘発隊につかまった。タバコを没収されたばかりか、殴られて金品を巻き上げられ、彼女の泣き叫ぶ姿を見て常々の不満を爆発させた人々が摘発隊員を取り囲んだ。言葉が通じないことも騒ぎを一層大きくしてしまった。摘発隊員が威嚇発砲したところ、群集の一人に命中して死亡。翌2月28日、抗議デモが大稲埕にあった専売局分室に押しかけたのをきっかけに、台湾全島で反国民党運動が沸き起こる。これ以降一ヶ月もの間にわたって続いた国民党軍による武力弾圧を二・二八事件という(→参照)。

 写真53が、二・二八事件のそもそものきっかけとなった、女性が殴られた辺りの現在の風景。この近くには、日本統治下において台湾人の権利向上のための運動を組織した蒋渭水の医院もある。

 波麗路西餐廳(ボレロ・レストラン)の前を通りかかった。1934年に開店した歴史の古いカフェである。当時は台湾人知識人がこの店に集まり、台北帝国大学の人類学者・金関丈夫や民俗学者・池田敏雄などもよく訪れたという。現在は洋食屋として知られているらしい。まだ夕方の16:00なので食事には早い。さっきの餃子がまだ腹にたまっているし。明日また来ようと思って通り過ぎたのだが、結局行けなかった…。
 
 旧大稲埕を後にして東へ歩く。書店をいくつかひやかすことにした。まずは、中山北路沿いにある永漢書局。邱永漢が経営する書店である。雑居ビルの四階にあり、フロアの半分は日本語書籍専門の売場となっていた。やはりビジネス書が多い。長い間置きっぱなしなのか背の茶けた本が目立つ。同じビルの三階は永漢日語という日本語教室となっており、これは街中を歩いていても時折みかける。エレベーターで降りる時、“開”ボタンを押して年配の男性を先に通そうとしたら、私の眼をまっすぐ見て丁寧に「謝謝」と言われたので、かえって恐縮してしまった。自然にやっていたのだが、台湾では珍しいことなのか?

 MRT中山駅地下に降りた。この地下街の北側は書店街となっている。ただし、特価本が多いようで、興味をそそられる本はそんなにない。せっかく来たので、朱天心の短編集を一冊買った。

 夕食は鼎泰豊本店に行くことに決めていた。永康街という所にあるのだが、近くに駅はなく不便。しかしながら、今回は台北の街をとにかく歩くことが目的。タクシーは使わず、MRT忠孝新生駅から大通り沿いに歩いた。駅を出ると、もう外には黒い帳が降りている。迷わないかと少々不安もあったが、台北の街並は整然とした碁盤目状なので歩きやすい。それに、私は意外と方向感覚が悪くない。鼎泰豊に着くと、店前では大勢の客が待っている。日本語がとびかい、店員さんも日本語を使うので、どこの国にいるのか一瞬分からなくなった。予約してあったので、意外と早く入れた。

 帰りは信義路をまっすぐ歩く。道路のあちこちで工事をしている。近いうちにここにもMRTが通るようだ。30分もしないうちに台湾民主紀念館の横にさしかかった。入ってみると、ライトアップ用のライトの前で少年たちが踊って影絵遊びをしている。敷地内にある国家音楽庁へと急ぐ人々とすれ違った。時計を見ると、19:30。ちょうどコンサートが始まる時刻のようだ。

 写真54はライトアップされた総統府。その隣にある台湾銀行にも元旦を祝うイルミネーションがまばゆい(写真55)。こちらは戦前も台湾銀行といった。鈴木商店への不良融資で金融恐慌をおこしたあの台湾銀行である。もちろん、現在の台湾銀行と組織的なつがなりはない。

 台北駅前、重慶北路の書店街をぶらぶらひやかし、誠品書店台北駅地下店で何冊か買いこんでから宿舎へと帰った。第二日目終了。

(続く)

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2008年1月11日 (金)

台北を歩く⑥西門町から萬華へ

(承前)

 中華路に沿って西門町へ行く。ここは若者が闊歩する繁華街、日本でいうと原宿、渋谷のような雰囲気と言ったらいいだろうか。

 もう昼過ぎだ。北平一條龍餃子館という店で食事をとることにした。チンジャオロウスー、焼き餃子、野菜入りのスープを頼んだ。餃子は大きく細長いのが一皿に十本あった。細長いのは華北風らしい。こってりとして、これだけでもお腹いっぱいだ。一人なので色々な料理を注文できないのがつらい。

 西門町は映画街としても知られる。蔡明亮監督「楽日」(2003年)では台北の古い映画館が閉鎖される最後の一日が描かれていた。この映画に出てきたような昔ながらの映画館は取り壊されてもはや見当たらず、みなシネコンに生まれ変わっている。どのシネコンも24時間営業。今は「國家寶蔵」(ナショナル・トレジャー)、来週公開予定の台湾のSF大作「長江七号」、金城武などが主演する時代劇「投名状」の看板が目立った。

 ぶらぶら歩きながら西門紅楼へ行った(写真35)。八角形の赤レンガが目を引く味わい深い建物だ。もともとは市場、映画館などとして使われたが、現在は建物そのものを保存しようと記念館として開放されている。館内にはこの建物の来歴が記されており、それによると近藤二郎という人が設計したそうだ。また、古い映写機が置かれていた(写真36)。二階はレトロになかなか洒落た感じのシアター・スペースとして利用されている。

 西門紅楼の裏手に出て萬華の旧市街地の方向へと歩く。萬華は台北で最も早くから開けた場所だが、現在では中心地としての賑わいはない。たとえて言うと、東京・山手線の東側に広がる下町のような雰囲気だろうか。家具問屋街を抜けてしばらく行くと、艋舺青山宮というお堂があった(写真37)。「宮」とつくのは道観、つまり道教のお寺である。こうした所に庶民の古い信仰形態もよく残っているようだ。

 萬華区の真ん中あたりを華西夜市が南北に走っており、その北の入口まで来た。この近辺に戦前は遊郭があり、戦後は公娼地区となっていた。かつて日本人の買春ツアー客が台湾にやって来て問題となっていたが、この辺りまで足を運んだのだろうか。そうした類の悲喜劇は、たとえば黄春明(田中宏・福田桂二訳)『さよなら、再見』(めこん、1979年)で描かれている。又吉書によると、以前は少数民族系の顔立ちをした年端のゆかぬ少女たちも見かけたという。陳水扁が台北市長だった頃に条例で禁止されたため、売春は現在では、少なくともおおっぴらには行なわれていない。公娼地区だったと思しき場所を歩いてみると、軒並みシャッターが閉まっていて、文字通りのゴーストタウンだ。辛うじて一軒だけ「情趣商品」という看板を掲げた“大人のおもちゃ”を売る店があったくらいで、狭い横丁に入っても誰一人として人影を見かけなかった。

 華西夜市を歩いた。もちろん夜にならないと夜市の賑わいは分からないが、ここはアーケード式商店街としての体裁が整えられているので、それなりに買い物客が出てきている。夜市街の南の端まで来たが、大通りを隔ててさらに南に路地が続いているのでそのまま歩き続けた。

 夜市街の延長線上にあるはずなのだが、雰囲気がちょっと違ってきた。夜市街は当然ながらきちんとしていない雑然とした空気が魅力なわけだが、この辺りはそういうのとは違って、まだ陽も高いので危ない感じはないにしても、明朗な感じもない。女性が寄って来て、何か言いながら私の腕を取ろうとしたので振り払った。辻立ちの客引きだ。ちょっと隠微な影を落とす横丁に入るといかにもそれらしい置き部屋があり、窓越しに女性たちが座っているのが見えた。公娼制度が廃止されたので、こちらに移ってしぶとく生き残っているようだ。路地は短く、まっすぐ突き抜けると、龍山寺近くの大通りに出る。普通に人々が歩いている。車が激しく行きかう喧騒が別世界のように感じられた。

 龍山寺に行った(写真38)。台北でもよく知られた観光スポットの一つで、東京でいうと浅草寺のような位置づけだろうか。“寺”だから当然ながら仏教のはずだが、私には道教との区別がつかない。実際、ここには関帝(関羽→商売の神様)や媽祖(航海の神様)も祭られており、仏教も道教も渾然一体となった民間信仰として考える方がいいのだろう。お香のかおりが立ち込める中、人々がお祈りしている。作法が複雑で、すぐには真似できない。とりあえず、後ろの方でそっと手を合わせて立ち去った。これが今年の初詣で。なお、又吉書によると、尾崎秀実や秀樹たちの父である尾崎秀真による碑文がこの寺のどこかにあるらしいのだが、見つけられなかった。

 龍山寺駅からMRTに乗って西門駅で下車。先ほど歩いた西門町に戻った。中華路を北上、忠孝路との交差点がロータリーとなっており、そこに北門がある。

(続く)

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2008年1月10日 (木)

台北を歩く⑤官庁街を歩く

(承前)

 台北の官庁街にある主だった施設はみな、戦前に日本が建てた建物をそのまま現在でも活用している。ふらふらうろつきながら、そうした建築物を一つ一つチェック。

 総統府の前を通る。かつての台湾総督府である。前回旅行時の総統府についての記事はこちらを参照のこと。小銃を構えた憲兵が眼を光らせており、重々しい。門前の大通りは凱達格蘭(ケタガラン)大道である。かつては蒋介石の長寿を祈って介寿大道と言われていたが、陳水扁が台北市長の時代に改称された。ケタガランとは、昔、台北盆地に住んでいた原住民族のことである。原住民族復権政策であると同時に、蒋介石の記憶を街中から消し去ろうという動きの表われでもある。ただし、大道脇の介寿公園は残っている(写真26)。奥の銅像は戦争中に中華民国総統だった林森。この介寿公園から大道を挟んだ向かい側が二・二八和平公園である。

 総統府前から南へ移動。左手に台北第一女子高等中学校。右手に司法院、つまり最高裁判所である(写真27)。司法院裏手の横丁をのぞくと、日本式家屋がまだ残っていた。また、清朝時代の台北府の役所があったことを示す碑文も立てられている(写真28写真29)。真新しくて鏡のように光っている。

 さらにまっすぐ進むと南門にぶつかる(写真30)。かつての城壁跡の大通りを渡って向かい側にあるのが日本統治時代の専売局(写真31)だ。戦後、政権が変わっても専売局として使われ続けたが、近年になって民営化され、現在は台湾菸酒股份有限公司となっている。

 この近辺には軍事関係機関の役所が多いので警備の空気がものものしい。大通りの南側に面した一画に大きな日本式家屋があった。補修工事が行われているらしく大きなドームに覆われている。歴史的な建築物なのかと気になって近寄ってみると、警官が歩哨に立っていた。門の脇に説明板があって読んでみると、どうやら厳家淦の邸宅らしい。厳家淦といってもその名を知っている人は少ないと思うが、蒋介石の死後、息子の蒋経国が昇格するまでの中継ぎとして総統の地位にあった人物である。蒋家のイエスマンとして仕え続けたご褒美としてこの一等地にある大邸宅をもらったのだろう。監視の視線が厳しくて、写真は撮りづらい雰囲気なのでさっさと立ち去る。この辺りには他にも大きな日本式家屋が並んでいる(写真32)。日本統治時代の高級官僚が住んでいたのかもしれない。日本人が引き揚げた後、こうした家屋は国民党や軍隊の要人に与えられた。

 大通りを渡って再び官庁街に戻る。国防部の横に細い道があったので入っていったら東呉大学のキャンパスにいつの間にか入り込んでいた。学生たちが歩き回る中を横切り、北の方向へと向かう。しばらく行くと、中山堂に出た(写真33)。日本統治時代の台北公会堂である。昭和天皇即位記念で建てられたモダンな建築で、台湾決戦文学会議など様々なイベントが行なわれた。日本の敗戦後、1945年10月25日には台湾省政府主席として派遣された陳儀と台湾総督兼台湾軍司令官・安藤利吉との間で降伏調印式が行なわれたのもここで、その記念として抗日戦勝利記念の碑文が中山堂の前にある(写真34)。なお、台湾では降伏調印式の行なわれた10月25日を以て光復節としている。

 中山堂の裏に行くと中華路という大通りに出た。現在、台北市中心部の台湾縦貫鉄道は地下化されているが、以前はこの通りに沿って線路が敷かれていた。その分もつぶして道路にしているからだろうが、かなり広い。

 台湾はちょうど政治の季節だった。一月十二日には立法院選挙、三月には総統選挙が控えている。大通りを歩くと選挙宣伝カーが頻繁に行きかう。そればかりか、選挙の広告規制は日本よりもゆるやからしく、繁華街にあるビルの商業看板やバスの車体広告にも選挙宣伝が大きく目立つ。

 立法院選挙は今回から選出方法が変わり、小選挙区・比例代表並立制を採用した上、議席数は半減された。比例代表では5%以上という要件が設定されている。投票用紙には候補者・候補政党の名前ではなく番号を記入するらしく、選挙広告には必ず数字が大きく記されている。台湾団結連盟が3、民進党が5、新党が6、国民党が10。街中でもテレビ・コマーシャルでも頻繁に見かけるので覚えてしまった。テレビ・コマーシャルでは民進党と国民党が互いにネガティヴ・キャンペーンをやっていた。

 台湾のテレビ・ニュースで報道されていた世論調査によると、少数政党の台湾団結連盟(李登輝派)と新党(中台統一派)はいずれも3%で議席獲得が難しい情勢のようだ。野党・国民党は50%を越えており、第二野党・親民党(宋楚瑜派)との選挙協力もうまくいっているので、総統選挙までこの勢いが続けば政権交代はほぼ間違いない。与党・民進党は29%で、小選挙区では同じく台湾独立派である台湾団結連盟との選挙協力にも失敗して厳しい情勢だ。

 国民党と民進党との対立では台湾独立問題が一つの焦点となっているのは周知の通りだろう。ただし、実際には、地方に張り巡らされた利権構造を地盤として国民党や親民党の立法委員は当選しており、国民党に投票はしても大陸との統一には反対という人々が多いらしい。たとえば、中台統一派の宋楚瑜までも台湾語を使ってスピーチをする努力をしており、統一問題に触れようとはしない。地元民は身近な経済問題から投票しているため、外交論は争点から外される。従って、立法院選挙と中台問題に直結する総統選挙とで選挙結果が異なることが台湾では珍しくない。陳水扁政権は立法院では少数与党としての運営を強いられていた。国民党が優勢ではあるが、だからといって大陸との統一を求める世論が強まっているわけでもない。今回の総統選では“TAIWAN”名義での国連加盟を求める住民投票が同時に実施されることでも注目されている。

(続く)

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2008年1月 9日 (水)

台北を歩く④台湾民主紀念館にて

(承前)

 1947年2月28日。闇タバコ摘発隊の行き過ぎた暴力に不満を持った台湾人が専売局前に集まって抗議、そして現在の行政院(当時は台湾省行政長官公署)前までデモ行進を行なった。台湾行政長官は陳儀。警備隊は厳戒態勢をしいており、集まった台湾人に向けて機関銃を掃射、多数の死傷者を出す。憤った台湾人群衆は近くの公園(現在の二・二八和平公園)内にあった放送局を占拠して「台湾人よ、立ち上がれ!」と全島に向けてメッセージを発した。

 これ以降、一ヶ月に及んで続いた国民党軍による武力弾圧を二・二八事件という。公式発表として2万8千人が殺されたとされているが、正確な数字は分かっていない。とりわけ知識階層が狙い撃ちされたため、台湾人の指導的な人物がいなくなり、政治に関わると命が危ないという恐怖心を植えつけられてしまったという。この事件によって本省人(台湾人)と外省人(国民党と共に台湾に来た大陸の人々)との間に生じた亀裂は戦後の台湾史に複雑な影を落とし、現在に至るも大きな政治的争点として激しい論争が繰り返されている。放送局の建物は現在、二・二八紀念館となっている(→参照)。

 台北駅南側のブロックは日本でいうと永田町・霞ヶ関といった地域である。中山南路を南下。監察院の横には立法院、つまり台湾の国会がある。このすぐ隣に古くて風格のある教会があった。台湾基督長老教会・済南教会となっている(写真11写真12)。李登輝もここで礼拝したそうだ。戦前は日本基督教団の台北幸町教会といったらしい。こんな官庁街のど真ん中に教会があるというのは驚いた。裏手をみると、日本式家屋が残っていた(写真13)。クリスマスの飾りがまだ片付けられていない。牧師さんの住まいだろうか。

 中山南路の西側にはやはり古い大型建築がどっしりと構えている。現在の台湾大学医学部附属病院、日本統治時代には台北帝国大学附属病院だった所である。中山南路を挟んで向かい側には新館が高くそびえており、門柱の銘文は総統の時の李登輝の筆になる。台大病院旧館の隣には台北賓館、つまり迎賓館がある。戦前の台湾総督官邸である(写真14)。

 台大附属病院・台北賓館の南はロータリーとなっている。清朝時代の東門が復元されており、それを円型に道路が囲む(写真15)。東門からのぞくと向こうには総統府が見える(写真16)。総統府・東門を結んだラインのこちら側には大きなビルディング(写真17)。比較的新しい。張榮發紀念基金とある。実は、この建物はもともと国民党本部だったのだが、野党に転落後、党財政が悪化、やむを得ず財閥のエバーグリーン・グループに売却したらしい。張榮發とはエバーグリーン・グループの創始者である。国民党は在台湾の旧日本資産をすべて接収したおかげで世界一の金持ち政党と言われたらしいが、歴史は着実に変わっているようだ。

 東門の南側に大きな広場がある。戦前は日本の台湾軍第一連隊の駐屯地だった場所だが、現在は大きなお堂のような建物が鎮座している。去年までは中正紀念堂という名前だった。中正とは蒋介石の号である。改修工事が行なわれ、つい昨日、私がまさに台北に降り立った今年の元旦(中華民国の建国記念日にあたる)、新しい名前でリニューアル・オープンしたばかり。その名も、台湾民主紀念館。かつての中正国際空港が桃園国際空港と名称が変更されたように、陳水扁の民進党政権による台湾化政策は蒋介石にまつわる名前を次々と消し去っていく。広場の入口には大きな門があり、以前は「大中至正門」という扁額が掛かっていた。中正にちなんだ言葉だが、こちらも「自由広場」と書き換えられた(写真18)。

 昨晩、宿舎でテレビ・ニュースをみていたら、この台湾民主紀念館開館について大きく取り上げられていた。紀念館の前で激しく口論する人々の姿が映っていた。台湾と大陸とでは蒋介石の扱いが対照的だという報道もあった。蒋介石の否定と台湾の独立志向とが密接に結びついているので牽制するつもりなのか、共産党にとっては仇敵であるはずの蒋介石だが、中国統一という観点から見直しが進んでいるという。他方、蒋介石の孫にあたる有名なファッション・デザイナーが「蒋家が台湾に与えた苦痛を深刻に受け止めるべきだ」と発言して驚かせてもいるらしい。複雑なねじれが興味深い。

 紀念堂には長い階段があり、蒋介石の享年にちなんで八十九段ある。そのたもとに、車椅子に乗った80代くらいのおじいさんがポツンと佇んでいた。傍らを通りかかったとき、日本人観光客とおぼしき60代くらいの男性が「ここは昔、蒋介石紀念館といったんですか?」と声をかけていた。一瞬、間があった。男性が「日本語、分からない?」と言ったら、やおらおじいさんは中国語で何かまくし立て始めた。おそらく、蒋介石と一緒に台湾にやって来た外省人なのだろう。台湾化政策が進むにつれて、彼ら外省人の立場は苦しくなっている。大陸に残した家族とは切り離され、かといって台湾社会にもなじめず、孤独な生活を送っている老人たちの存在は一つの社会問題となっている。そうした老人にとって蒋介石の名前を冠した紀念館の変わり様はやはり複雑な感慨があるはずだ。くだんの日本人男性は、年配の台湾人はみな日本語教育を受けているはずだという考えがあったのだろうが、本省人と外省人との関係について配慮する用心を欠いていたのは軽率なことのように思った。

 写真19が紀念堂。かつて「大中至正」と書かれていた扁額は「台湾民主紀念館」と書き換えられた(写真20)。蒋介石の大きな座像が正面をまっすぐに見据えている(写真21写真22)。かつてはこの両脇を儀仗兵が警護していたのだが、今では代わりにたくさんの凧が舞っている。有名な現代アーチストによる演出らしいが、昨晩のニュースによると賛否両論だという。また、「還我民権」という言葉が見える。我に民権を還せ──国民党政権による人権抑圧の歴史を示したパネルがあり、座像の両脇には犠牲者の名簿が置かれている。本来は蒋介石の“偉業”を褒め称えるための施設だったが、座像は壊さずそのままに、評価を180度転回させ、人権弾圧の歴史を忘れないためのシンボルとして位置づけられるようになった。

 一階に降りると展示室となっている。全く対照的な解説展示で完全に半分に分けられている。片方では、以前のままに蒋介石の生涯を紹介する資料が陳列されている。写真23は執務室を再現した部屋の様子。蒋介石の蝋人形が置かれている。また、写真24は広東蜂起の頃、孫文と若き日の蒋介石が向かい合った大きな絵である。この一月から三月までにかけて台湾は選挙の季節で、テレビでは各政党のCMが繰り返し流されている。民進党のCMには、この絵のオリジナルとなった写真をCGでアニメーションのように動かし、孫文が蒋介石を叱り飛ばすというものがあった。

 展示のもう半分では二つの特集展示。一つは、「台湾人権之路」展。ロック、モンテスキュー、ルソー以来の基本的人権の歩みの中で台湾の歴史を位置づけるという趣旨である。日本統治時代はオランダ、清朝の時代と共に一章にくくられているのに対し、国民党による弾圧については三章にわたって詳細に説明されているのが目を引いた。この隣では「報禁解除二十周年紀念」展が行なわれていた。1987年、晩年の蒋経国によって報道規制が解除されたのを記念した展示で、それまでに弾圧を受けた報道機関や作家・学者・ジャーナリストたちを詳細に紹介している。

 こうした全く相異なる二種類の展示が向かい合っているところに、現在でも台湾社会が引きずっている政治的亀裂が垣間見える。

(続く)

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2008年1月 8日 (火)

台北を歩く③台北歩きはじめ

(承前)

 台北市内のおおまかな位置関係は、東西に走る忠孝路を横軸、南北に走る中山路を縦軸にとって、四つの象限に分けてみると把握しやすい。この二つの大通りの交点を境にして、忠孝路は東路・西路、中山路は南路・北路と呼び分けられている。なお、中山とは孫文の号である。座標軸の西南ブロック、忠孝西路沿いにある台北駅の南側には総統府をはじめ行政機能が集中している。ここは19世紀の終わり頃、清朝統治時代には台北府として正方形に城壁で囲われていた。日本統治時代に入って城壁は崩されたが、城門の跡は現在でもロータリーとして名残りを留めている。

 西南ブロックのうちでも旧台北府の西側、淡水河とに挟まれた地区は萬華という。かつては艋舺(もうか)と呼ばれ、台北盆地で最も古くから栄えていたのはこの辺りである。その後、淡水河沿いに北側に移住する人々が増え、それにつれて商業の中心も北に移った。こちらが大稲埕(だいとうてい)で、現在の行政区分では大同区となっている。座標軸の西北ブロックにあたる。以上、旧台北府、旧艋舺、旧大稲埕をコアとして、時代をくだるにつれて東側へと市域が広がることで現在の台北市が形成されている。

 私の宿泊先は座標軸でいうと東北ブロックにある。台北歩きの二日目は、ここから南下して旧台北府に出て、さらに旧艋舺、旧大稲埕と順番に歩くことにした。ガイドブックとしては『地球の歩き方』の他に、又吉盛清『台湾 近い昔の旅 台北編―植民地時代をガイドする』(凱風社、1996年)及び朱天心の小説『古都』(国書刊行会、2000年)の計3冊を参考にした。『古都』の後半では日本人になった視点で台北の街を歩く話法が現れるが、その際のガイドブックとして使われていたことから又吉書を知った。

 中山北路と並行する林森北路をしばらく南下すると、道路の両側に公園が広がるところに出た。東側は林森公園(写真2)、西側は康楽公園(写真3)となっている。ここにはかつて日本人の共同墓地があった。乃木希典の母親や明石元二郎もここに葬られたという。乃木も明石も台湾総督経験者である。明石は在職中に世を去った。日本人が引き揚げた後、住む家のない外省人が住みつきスラム街となっていたが、その後つぶされて公園として整備されたらしい。又吉書には明石の墓の鳥居がそのまま不法住宅の柱に使われている写真が掲載されているが、現在ではあとかたもない。ジョギングや太極拳をしているジャージ姿のおじさん、おばさんをちらほら見かける。すぐ横にはシネコンがあり、日中にはにぎわう繁華街のようだ。事情を知らなければ広々と快適な、都会の中のオアシスといった感じの公園だ。なお、林森とは戦争中に中華民国の総統だった人物である。

 林森北路から西側に並ぶ横丁に入ってみた。旧共同墓地の南側、中山北路の東側はかつて大正町と呼ばれ、日本人の一戸建て住宅が並んでいたという。現在では飲み屋街となっており、雑然とした雰囲気が漂う。飲み屋の看板には日本語が目立つ。肥前屋というウナギの蒲焼屋があり、ここの味は評判が良いらしいが、まだ朝早いのでにおいは漂ってこない。四、五階以上はある雑居ビルが立ち並ぶすき間に二階建ての日本式家屋がまだ残っている(写真4)。かつての日本人街のたたずまいを微かにしのばせる。いくつか教会をみかけたが、いずれも屋根に瓦を葺いているのが目を引いた(写真5写真6)。

 この写真を撮っていたら、不意に後ろから犬がバウワウと野太い声で吠えかけてきたので驚いた。振り返ると、片目のつぶれた大きな犬。少しびびった。よく見ると尻尾をパタパタ振っているので、おそらく構って欲しかったのだろう。

 まだ朝食を摂っていなかったので、そろそろお腹がクレームをつけ始めている。ガイドブックを見て朝食はここにしようと決めていた台湾料理の店・青葉餐庁は8:30開店。ちょうどいい時間にたどり着いた。切り干し大根入りオムレツを注文。ちょっと甘めだが、決してまずくはない。お粥はおかわり自由。私はサツマイモ入りのお粥を頼んだ。さっぱりとして、朝の胃袋によくなじむ。

 中山北路を南下。林田桶店の前を通った(写真7)。まだ朝早いので開いていないが、日本統治時代に修行をしたおじいさんがここの店主で、日本人が来ると日本語で気さくに話してくれるらしい。台北の街を歩いていると、そろそろ都市としての新陳代謝が働く時期なのか、古い建物を取り壊した跡をよく見かける。写真8写真9には三角形の跡がついているが、隣に日本式の建物があったのが分かる。

 高速道路の下をくぐると、国父史蹟紀念館が目に入った。通称、梅屋敷。日本統治時代の旅館で、孫文がたびたびここに逗留したことにちなんで紀念館として保存されている(→参照)。中山北路の交差点を挟んだ斜向かいに行政院がある。かつて台北市役所だった建物だ。ここの南側で中山路と忠孝路が交わっており、前に述べた座標軸の基点をなす。宿舎からここまで、寄り道したり食事したりしたにもかかわらず二時間余りで来られた。行政院の南側、忠孝東路を挟んだ向かい側にあるのが監察院(写真10)。こちらは日本統治時代の台北州庁だった建物である。玄関上に張られた赤いラインは元旦を祝う飾り幕。

(続く)

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2008年1月 7日 (月)

台北を歩く②台北駅近くの書店街

(承前)
 台北駅近くの書店街を歩く。神保町の東京堂書店くらいの規模の店がいくつか並んでいる。新刊書店ばかりで古本屋はない。近くの南陽街に予備校が集中しているためか、学習参考書を売っている店も多い。写真1は東方出版社。日本統治時代には台湾で一番大きな書店だった新高堂書店のあった所だ。ぶらつきながら、いくつか適当な店に入ってみた。台北の書店はどこも夜遅くまでやっており、誠品書店敦南本店などは24時間営業している。

 商務印書館といえば近代中国で最も古い由緒ある出版社である。中華人民共和国の成立により、台北の商務印書館は分立したらしい。直営の書店があり、学術書を専門に置いている。日本の雅子妃についての新刊が出たらしく、それに合わせて平台で特集が組まれていた。日本研究書の棚を見ていたら、石原慎太郎『国家的幻影』(国家なる幻影)と家永三郎『戦争責任』の翻訳が同じシリーズで並んでいた。しかも奥付をみると出版されたのは両方ともここ二、三年のこと。意図がよく分からない。

 世界書局は大陸で出版された簡体字の輸入本を専門に扱う書店。古典が多い。店の中央の大型テーブルに平積みされた張愛玲特集が目立った。張愛玲は戦前から上海で活躍していた女流作家で、メロドラマ的な小説で人気を博した。近年、リバイバルの動きがある。平積みされている中に胡蘭成の伝記もあった。やはり戦前から有名な文人で、一時期、張愛玲の恋人だったことでも知られる。彼は汪兆銘政権に参加した経歴があるので台湾に逃れ、さらに日本へ亡命した。日本語でも作品を発表しており、数学者にして熱烈な日本主義者・岡潔と親しくしていた。なお、侯孝賢映画の脚本で知られる朱天文やその妹・朱天心たち姉妹の父親である朱西甯も胡蘭成と家族ぐるみで付き合いがあり、朱姉妹は彼を訪れて日本に滞在した経験がある。

 金石堂書店は三フロアある。店内の雰囲気が、日本でも地方のターミナル駅前にある書店のような感じで、どことなく懐かしい感じがした。新刊コーナーには『ぼく、オタリーマン』とか島田洋七『佐賀のがばいばあちゃん』などの翻訳が並んでいた。『佐賀の~』のオビには有名な脚本家・呉念真の推薦文があった。新刊小説には日本の作品からの翻訳が多い。荻原浩『明日の記憶』が新刊棚に積んであった。

 ウロウロしているうちに夜の八時。さすがに腹がへってきた。ガイドブックを見たら魯肉飯が安くてうまそうなので、丸林魯肉飯という店に行った。再びMRTに乗って、宿泊先の最寄り駅、民権西路站で下車。この店は自助餐、つまりセルフサービスである。カウンターに料理が並び、その後ろに店員さんが立っている。これをくれと指示してお皿に盛り付けてもらう。もちろん日本にもセルフサービスの惣菜屋はあるが、日本とは違って客にはよそわせない。いちいち計量器に載せて計るのが面倒なのだろうか。牛肉の細切りとサヤエンドウの炒め物、小エビまじりの野菜の炒め物を注文した。最後にご飯ものと湯(スープ)を頼んで席につく。

 魯肉飯はご飯の上に刻んだ豚の角煮をかけた素朴な料理。肉の煮込み料理には台湾独特のクセがあるが、タレのしみこんだご飯をかきこむとなかなかうまい。おかず二皿にご飯、スープというのが一人当たりの基本形で、人数が一人増えるごとにおかずを一皿ずつ足していくものらしい。精算したら140元。安上がりだし、手軽だし、自助餐は旅行者にもおすすめだ。

 自助餐はテイクアウトもできる。お店の看板に「便當」と書かれていることがあるが、つまり「弁当」のこと。もともと日本語だが、かつての国民党の国語政策で日本統治時代を思い出させる言葉は排除されたため、「弁」を「便」に変えて、発音はそのままに台湾の人々はこの言葉を使い続けているそうだ(平野久美子『台湾 好吃大全』新潮社、2005年、を参照)。

 自助餐を利用しながら反省したこと。私は中国語を話せないので、カウンターの料理を無言で指さし、「魯肉飯」のピンインだけは予め確認しておいたので“lǔròu fàn”と最後に一言口をきいただけで注文した。しかし、ほとんど無言というのはものすごく感じが悪いだろう。指さす時に、「這個」(Zhège=これ)と言うとか、日本語で「これ」と言ってもジェスチャーで通じるのだから、とにかく何でも声を出すほうがいい。とりあえず声を出しておけば、何か言いたいんだなという最低限の意思は伝わるが、無言はコミュニケーションの拒絶を意味してしまうのだから。

 風邪気味なのか、少し熱があった。そういえば、空港に到着して検疫ゲートをくぐるとき、ピンポンと鳴ってはねられた。体温の高さで第一次チェックをしているようだ。センサーをかざされ、問題はなかったらしくすぐに放免してはくれたが。睡眠薬代わりに機内でワインを2本あけたので余計に熱が高くなっていたのだろう。21:00過ぎには宿舎に戻り、持参したバファリンを飲んでグッスリと寝た。

(続く)

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2008年1月 6日 (日)

台北を歩く①台北に到着

 去年の11月にも台湾に行ってきたばかりで、故宮博物院、総統府、二・二八紀念館などをピンポイントで回り、台湾高速鉄道に乗って高雄へ行くなど充実はしていた。ただし慌しく、じっくりと街の雰囲気を観察する余裕はなかったのが心残りだった。今回は台北に焦点を定め、とにかく足を使って歩きまわることを目的とする。

 一人旅。トラブルに備え、旅行会社を通じて飛行機と宿舎のパックで申し込んだ。当初は6日間くらい行ってくるつもりだったが、12月に入ってから探し始めたので飛行機がなかなか確保できず、結局、元旦から4日まで3泊4日のプランに落ち着いた。名目上はツアーという形式を取っているが、現地で空港と宿舎の間をガイドさんが送迎してくれる以外は完全自由行動。

 2008年元旦、午前11:40成田空港発のエアー・ニッポン2109便で出発、現地時間14:30頃に桃園国際空港に到着。現地ガイドさんの案内でバスに乗り、途中、義務的に土産物店に寄ってから、宿舎で降ろされた。豪爵大飯店(Aristocrat Hotel)。ビジネスホテルという感じで、フロントの人はみな日本語が使える。部屋は細部を見るとあまりきれいとは言いがたいが、広々としているので居心地は必ずしも悪くはない。

 荷物を置いて時計をみると、もう17:00だ。外も暗くなっている。時間がもったいないので早速外に出た。このホテルは交通アクセスがあまりよろしくない。空港直通のリムジンが近くから発着してはいるのだが、最寄のMRT駅までは歩いて30分ほどかかる。

 台北は寒かった…。寒波が来ているらしく、台北の人々はみなダッフルコートやマフラーに身をくるんで重武装。私はセーターを着込んでいるとはいえ、その上にはジャケットを羽織っているだけ。一月でも平均気温は14度くらいとガイドブックに載っていたので、寒い東京を出発する時にも我慢して少々薄めの服装で来た。ただし、過ごせないほどでもない。この日、台北の気温は8度。夜、宿舎でテレビをつけたら、この寒さ自体が大きなニュースとなっていた。

 台湾の人口は約2,300万人、そのうち一割強の260万人が台北市に住む。近隣の市を合わせた大台北圏では600万人規模となる。西に淡水河、北・東・南を山に囲まれた盆地に人々が密集している。市域はそれほど広くはないが、その分、人口密度は極めて高い。縦横に走る碁盤目状に整然とした街路によって区切られている。大通りは路、小さい通りは街。垂直に交わる街路の交差点と交差点とでブロックが形成され、一段、二段という町名がつき、さらに数字をふって住所表示がされている。普通の街並でも5階から10階建てくらいの建物がすき間なく並んでいるのが壮観だ。

 特徴的なのが、停仔脚と呼ばれるアーケードだ。建物はそれぞれ独立して建てられているのだが、道路に面した一画は歩道用にくり抜かれ、それがつながってアーケードを成している。建物ごとに歩道の高さも異なるので、足もとに気をつけないと転んでしまう。大通りでは、停仔脚のさらに外側にも歩道が確保されていることもある。お店の前ではこのアーケードの歩道にまで商品や飲食用のテーブルがせり出しており、お店の一部をくぐりながら歩いている感じがする。お店のない場合には、停仔脚の柱と柱との間にスクーターがびっしりと駐められている。

 台北はスクーターが大活躍する町で、自転車は少数派。そのせいか、ちょっとした修理工場を街中のあちこちで見かける。交通マナーはよろしくない。青信号なので横断歩道を渡ろうとすると、スクーターや車がブレーキもかけず平気で曲がってくる。見ていると、左右確認もしないでハンドルをきっている。歩行者優先ではなく、自動車優先。道路を歩くときは常に気を張っていないと本当に命に関わる。最初は地元の人が歩くのに合わせて横断歩道を渡っていたが、三日目になるともう慣れた。

 街行く人を眺める。おじさんはジャンパーに野球帽というのが定番だ。蒋経国や李登輝が地方視察をするときはいつもこの格好だったのを思い出す。若い人は男女共に服装では日本人と全く見分けがつかない。野良犬や放し飼いの犬を街中でよく見かける。車が激しく行きかう通りで、犬もタイミングを見計らいながら渡っている。時折、片足をひきずった犬をみかけるが、おそらくはねられたのだろう。

 MRT淡水線の民権東路站に出た。ここから三つ目の台北站で下車。エスカレーターで歩く人は左側通行。駅構内のエスカレーターや車内の扉のあたりに「よりかからないでください」という注意書きを見かける。ホームから乗り込んできて奥の方に行きたがる人が多いので見てみると、車両の連結部の前後の壁に乗客が背中をもたせかけていた。そういう習慣があるのか。車内でガムを噛んでいるのがみつかると罰金。おそらく、もともとは檳榔の吐き捨てを防ぐためなのだろう。私は普段からガムを噛む習慣があるので、ガムを口にふくんだまま電車に乗り込んでしまったことが何回かあり、そのたびに内心ビクビクしていた。

(続く)

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