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2007年2月18日 - 2007年2月24日

2007年2月23日 (金)

蔵研也『リバタリアン宣言』

蔵研也『リバタリアン宣言』(朝日新書、2007年)

 リバタリアンの議論には思考実験としての刺戟があって興味を持っているのだが、本書はつっこみがあまい。はっきり言って愚書である。教養のない学者が本を書くとこんなブザマな代物が出来上がるという典型的な例だ。

 それから、現代の社会哲学的なコンテクストにおいて“自由”を論じているにも拘わらず、コミュニタリアニズムやロールズの“公正としての正義”論に言及がないのも奇妙なことである。巻末の参考文献一覧を見る限り、著者は勉強不足のように思う。

 アトム的個人を前提とし、その集積体として人間社会を捉え、資源配分の効率の問題として国家の必要・不必要を論じるのが本書の骨格となっている。個人に許されるべき裁量に制限をかけている点で、国家に頼る社会設計は“道徳的”ではないとされる。

 よく分からないのだが、この著者は何を以て個人の“自由”と想定しているのだろうか? たとえば、こういう問題がある。効率の論理に従った経済学的な考え方で人間行動を捉えようとする場合、意思決定に際して参照すべき情報が質・量ともに均質であることを前提とし、その上で競争モデルが構築される。しかし、複雑化した社会においては、①情報へのアクセスのしやすさによって出発点で格差が生じる、②情報量があまりに膨大なので個人では処理しきれない、といった問題が出てくる。従って、個人の意思決定がスムーズに行なわれることはあり得ないという意味で、“自己決定”を保障すべき前提が担保できない。このような“情報の非対称性”という問題に対し、リバタリアンはどのように考えるのだろうか?

 著者の議論の背景には、あらゆる選択肢を検討した上で自分の責任において選んだのだから、結果について引き受けるのは当然だ、という倫理観がある。この考え方自体はまっとうだと思う。しかし、出発点の段階から選択肢が限られているとき、こんな楽観的な“自由”論を展開されたところで、“公正”の観点から果たして説得的と言えるだろうか? 

 ハイエクの思想の理解があまいのではないか? ハイエクの自由主義の背景としては、“知”に溺れやすい人間の傲慢を戒め、社会設計において人間のでっち上げた不自然な理屈が暴走することへの懸念がある。その具体例として、ファシズムや共産主義が俎上にのせられた。しかし、彼の全体主義批判で示された問題意識は、単に制度の問題に限られるものではない。ある特定の理論が“正しい”とみなされ、その理論を社会全体に一貫させようと考え始めた時点で、実は人知の傲慢が表われている。そして、効率モデルに基づく自由“原理”主義もまたその傲慢の罠にはまっていると言える。

 身を切るように切実な試行錯誤を通して勝ち取られた“自由”は何にも代えがたく貴重だ。しかし、本書の著者のように、机上ででっちあげた理屈だけで“自由”を論じているのは、そのこと自体がハイエクの思想からすると戒めるべき傲慢さの表われであろう。こうした逆説が本書の著者に理解できるだろうか?

 “自由”を効率の問題に還元して考えること自体、別の観念の奴隷となっていると言えないだろうか。我々は、我々の欲求を、我々自身の“意志”に基づいて作り出しているのではない。効率的な経済システムで運営される社会にあっては、むしろこのシステムの方が各自の中に欲求を映し出していく。“自由”を求める主体が各自の内面にあってその集合体として社会が組み立てられているのではない。まず、社会があって、その中で“自由”を求める(と錯覚している)我々自身の価値観が規定されている。

 効率モデルの中で個人の“自由”を徹底させたところで、システムから発せられた指令が個人というゲートを通過して再びシステムに還っていく、そうした循環を純化させるだけのことであろう。個人はシステムに吸収されて個性をますます失い、従属化されていく。こうした逆説が本書の著者には理解できるだろうか?

 本書の基本的な主張は、笠井潔『国家民営化論』(光文社・知恵の森文庫、2000年)と変わらない。笠井の場合には、自己責任における自殺も認めるため安楽死を制度化せよという主張からも分かるように、人間の生き死にも含めてどこか突き放してしまう、ニヒルで確信犯的なすごみが魅力であった。これに比べると、本書の著者は平板でつまらない。その人の人生観のにじみ出てこない“自由”論など、そもそも論ずべき価値すらない。また、先に述べたように著者の勉強不足は明らかで、学説整理という点では森村進『自由はどこまで可能か』(講談社現代新書、2001年)の方をおすすめする。

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2007年2月22日 (木)

増田義郎『古代アステカ王国』

増田義郎『古代アステカ王国』(中公新書、1963年)

 スペイン・ポルトガルによって先鞭のつけられた大航海時代の背景としてキリスト教、とりわけカトリックの熱情が動因として強く働いていたことはよく知られている。コロンブスがパロス港を出帆したのと、イベリア半島におけるイスラム勢力最後の拠点グラナダが陥落したのとが同じ1492年の出来事であったのは偶然ではない。

 イスラム勢力から領土を奪い返す、いわゆる失地回復運動(レコンキスタ)の先頭に立ったのがスペイン(カスティリャ及びアラゴン)とポルトガルであった。彼らはローマ教会から精神的支援を受けたため、異教徒に対する戦いは、同時にカトリックへのリゴリスティックなまでの帰依をも意味していた。それは、やはり同時代に勃興しつつあった宗教改革への対抗意識をもたらし(ルターがローマ教会批判の口火をきったのは1517年)、イエズス会の宣教師は大海原へと乗り出す冒険者たちの船に同乗して世界各地へと散って行った。

 以上が、大雑把ながら古代アステカ王国滅亡を取り巻く時代背景である。本書の主人公エルナン・コルテスが宣教師を従軍させて、征服した各地でカトリックを押し付けようとした理由が分かるだろう。

 スペインとアステカ、二つの異文化の接触が、それぞれの宗教的宇宙観のあり方をはからずも浮き彫りにしているのが興味深い。コルテスを含め当時のスペイン人にとって、キリスト教徒と異教徒とを画然と分けるのは当然であった。長年にわたってイスラム勢力と戦ってきた経験を踏まえて異教を信ずる者がこの世にはあり得ると考えていた点で、実は多元的な世界認識があった。その上で異教徒征伐という使命感が成り立っていた。

 ところが、異文化と衝突した経験が全くなかったアステカ人は、あくまでも自分たちの宇宙観に基づいて相手を認識するしかなかった。アステカの神話には、ケツァルコアトルという白い顔をした神がいる。スペイン人がやって来たとき、アステカ王モンテスマは彼らをケツァルコアトルの再来と信じて抵抗をあきらめてしまった。モンテスマの死後、クワウテモク王が徹底抗戦の方針に転じてコルテスを窮地に追い詰めたときにも、スペイン人捕虜を生け贄に捧げる儀式に熱中して追撃の好機を逸したり、占いが外れて戦意を喪失したりということが続く。強権的な軍事帝国であったさしものアステカも、1521年、わずかなスペイン人によってあっという間に崩されてしまった。

 歴史を読む面白さは、登場する人物像の陰影が描きこまれているかどうかで違ってくる。アステカ王モンテスマとクワウテモクのパーソナリティーの違い。奸智に長けたコルテス。そして、登場頻度は少ないが、マリンチェと呼ばれた謎の女性に興味が引かれた。彼女は、コルテス軍に敗れた現地勢力から降伏の印に送られた奴隷の一人。もとは別部族の貴族の出身だったらしい。現地のいくつかの言葉に通じているので、スペイン語も覚えた後に通訳として活躍。アステカ王国への進撃に際しても自ら積極的な役割を果たしたという。後にコルテスの子供を生み、その子は混血児であったにも拘らずコルテスの後継者に指名されたそうだ。慣れ親しんだ土地へ進撃する異邦人に協力した心境には何があったのだろうか? 彼女の数奇な人生もまた一つの物語の題材になりそうだ。そうしたエピソードを拾い集めるのも歴史を読む醍醐味である。

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2007年2月21日 (水)

増田義郎『太平洋──開かれた海の歴史』

増田義郎『太平洋──開かれた海の歴史』(集英社新書、2004年)

 日本地図をパッと見たとき、その地図の外側にどのような広がりを想像するだろうか? 私の不明をさらけ出すと、九州・沖縄方面は中国大陸・朝鮮半島とのつながりが思い出されて、西へとつながるルートのイメージがすぐにわく。これに対して太平洋側については、そこで行き止まりという感じ。

 しかし、サブタイトルにあるように、実は太平洋は四方八方に開けた海である。本書はこうした観点に立ち、有史以前から現代に至るまでに太平洋を舞台に織り成された人類の軌跡を大きく通観する。

 世界史の教科書などには、「1513年、スペイン人のバルボアが太平洋を発見した」という記述がある(なお、前回紹介した増田義郎『インカ帝国探検記』との関わりで言うと、インカ帝国を征服したピサロはかつてバルボアの部下だったことがある)。だが、スペイン人は太平洋を“発見”したのではなく、“発明”したのだ、と著者は言う。

 16世紀のいわゆる大航海時代、スペインは香料の産出するモルッカ諸島への道を探していた。ところが、ポルトガルとの取り決め(トルデシリャス条約)によってインド経由のアジア航路を取ることはできず、大西洋、さらにはアメリカ大陸を越えて西へと進まねばならない。その結果、太平洋を横切り、メキシコからマニラへと至る航路が確定された。太平洋は広い。しかし、スペイン人にはこの航路以外の海域には全くと言っていいほど関心がなかった。それは当時描かれた世界地図にもはっきり示されている。つまり、その時の自分たちの必要や願望によって地理観、ひいては世界観を固定化させてしまう傾向が、太平洋をめぐる問題から見え隠れするのだ。

 大航海時代以降、太平洋における利権を求めて列国は覇権を争った。先行したのはスペイン・ポルトガル、とりわけフェリペ2世の時代は歴史上にも希なほど巨大な帝国を築き上げた。しかし、アルマダ海戦をきっかけに没落。一時オランダが優勢となったが、やがてイギリスとフランスとの抗争が太平洋上でも繰り広げられた。20世紀に入るとイギリス・フランスはやや後退、かわって日本とアメリカが雌雄を決する。

 いずれにせよ、ヨーロッパからやって来た白人は、太平洋の島々に暮らす人びとに大きな災厄をもたらした。伝染病や性病が蔓延し、免疫のなかった原住民の人口は極端なほどに減少した。銃火器の使用を覚えたことで、土着世界内での抗争が激化、ヨーロッパ人はそこにつけこむ。キリスト教が押し付けられて伝統的な文化を失い、強制労働に駆り立てられる。無力感を苛む彼らの心に対しては酒や阿片という習慣も用意された。初めにヨーロッパ人が来航した時には暖かく迎えられたので「高貴な野蛮人」という肯定的なイメージが生れた(このイメージがフランス啓蒙思想のディドロやルソーに影響を与えたことは周知のことだろう)のに対し、その後に乗り込んできたキリスト教の宣教師たちの眼には、原住民の風習は不道徳なものとしか映らない。白人は原住民を蔑視する。原住民は屈辱の中に滅んでいく。こうした悲劇は、著者の別のフィールドであるラテンアメリカの古代文明がたどった道と全く同じであった。

 幅広いタイムスパンで描き出された通史だが、新書サイズなので内容的に濃淡の差が出てしまうのは仕方ない。しかし、航海者の行動と異文化接触を取り上げた箇所では叙述に力が入っている。クックの航海記を散文作品として読み直したり、モーム、スティーヴンソン、メルヴィル、中島敦など文学者の描写を随所で引用しているのも面白い。

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2007年2月20日 (火)

増田義郎『インカ帝国探検記』

増田義郎『インカ帝国探検記──ある文化の滅亡の歴史』(中公文庫BIBLIO、2001年)

 サブタイトルから分かるように、インカ帝国滅亡の過程を、著者自身の現地踏査や膨大なスペイン語原資料の渉猟によって描き出している。本書が初めに刊行されたのは1961年(1975年に中公文庫の一冊となり、2001年には若干の補訂をほどこした上で中公文庫BIBLIOシリーズとして再刊された)。それから半世紀近くもの月日が経っているが、読み物としての面白さは全然色あせていない。

 インカ帝国についての考古学的研究は着実に積み重ねられ、新事実も色々と発見されていることと思う。しかし、歴史学的に事実を把捉することと、読み物として歴史を読むこととでは、おのずと読み手の態度は違う。やはり、登場人物の息づかいがヴィヴィッドに伝わってくるかどうか、本としての魅力はそこにかかってくる。

 スペイン人のコンキスタドーレス(征服者)がやって来たとき、インカ帝国内部もまた大きな転機を迎えていた。エクアドル方面に領土拡張のため陣頭指揮に当たっていたワナイ・カパック帝が急死。嫡男だが文弱のワスカールと、庶子だが軍事的才能に恵まれ先帝から気に入られていたアタワルパとの二派に分かれての抗争が始まった。いったんワスカールが帝位を継いだものの、軍事力を握るアタワルパには強い警戒感を示し、機会を捉えて抑圧策を弄する。アタワルパは反撃に出て、ワスカール派をたたきつぶした。

 ピサロがペルーに上陸したのは、アタワルパが帝位を奪い取った直後の時期であった。ピサロ一行はわずか200名の小勢。予想とは裏腹に高度な文明を誇るインカ帝国の威容に恐れをなす者もいた。対するアタワルパは自信に満ちている。異邦人がやって来ても余裕を崩さず、変なまねをしようものならいつでも殺してやるという態度を取った。

 まともに戦っては勝ち目がない。そこでピサロは作戦を練り、アタワルパを生け捕りにした。インカ帝国のシステムは太陽神崇拝に基づく絶対専制君主制であった。“日の御子”(インカ)の命令には絶対服従という倫理規範が人びとの皮膚感覚にまで染み付いていた。逆に言うと、インカの命令がなければ組織的な反抗を行なうという発想すら出てこない。ワスカール派の残党がアタワルパの悲運に快哉を叫び、この機会を利用しようとしたことも背景にある。いずれにせよ、インカ帝国はあっという間に瓦解してしまった。

 ピサロはしばらくアタワルパを傀儡として統治を行なったが、やがて邪魔となったため処刑してしまう。皇族が後継を名乗って独立政権を形成し、スペイン人が押し付けようとするキリスト教をはねつけながら昔ながらの祭祀を維持した。コンキスタドーレスによる制圧後も三十年以上にもわたってスペイン人を翻弄し続ける(彼らが根拠地としていた“幻の都”が、世界遺産にも登録された有名なマチュピチュである)。とりわけトゥパク・アマルは先住民による抵抗のシンボルとなり、ペルーの日本大使館占拠事件を起した「トゥパク・アマル革命運動」の名前の由来として記憶している人もいるだろう。

 世界史の教科書を読むだけでは、「1533年、ピサロがインカ帝国を滅ぼす」という簡単な記述で終ってしまう。しかし、その背景には複雑なドラマが織り成していることを一つ一つ読み取っていくと、歴史をみる視点に奥行きがでてくる。様々に輻輳する事実連関がタテにヨコに拡がっていくのが見えてきて、面白い。

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2007年2月19日 (月)

南直哉『老師と少年』を読みながら

南直哉(みなみ・じきさい)『老師と少年』(新潮社、2006年)

 私はよく、自分の心境を表現しようとして言葉につまり、「自分は自分であって、自分ではない」と矛盾した言い回しを使わざるを得なくなり、相手に妙な顔をされてしまうことがある。このように私が言わんとした感覚は、本書からおのずと浮かび上がっているように思う。

 自分が“生きる”ことの意味を考えることと、いわゆる“私探し”とでは、根本的に発想が異なる。そもそも“私”とは何だろうか? 「刹那滅」的な感覚をもとにすると、“いま、ここにある”何かをかりそめに“私”と名づけているに過ぎない。しかし、巷間よくみられる“私探し”は、実体としての“本当の私”なるものがどこかにあるという前提から離れることができない。どうしたって空回りするしかないわけだ。

 もし、「本当の私」があるとすれば、それは「私」という物語を作らせる病、としか言えない。あるいは、「あなた」や「彼」と共にいる中で経験される、「嘘の私」へのいらだちとしか言えない。「ぼくは本当のぼくではない」と君は言う。人にそう言わせる、この亀裂、この裂け目、この痛みとしか言えない。(三十一頁)

 私は“生きる”ことが基本的に好きではない。青春期には、「自殺」という言葉が四六時中、頭の中にこびりついているような暗い日々を過ごしていた。

 ただ、ある日から、こういうふうに考えるようになった。“生の否定”は、“生きる”ことの意味を否定しているのではない。“生きる”ことに伴う煩わしさから逃避しようとしているに過ぎない。それは裏返すと、“生きる”ことに何がしかの価値を認めている。物事が自分の思う通りにならないことにすねて、世界から裏切られたような逆恨みをしているだけのこと。哲学的なカッコいい悩みのように見えて、実は極めて打算的で薄汚い迷いであった。

 “生の否定”は、同時に“死の否定”でもあらねばならない。つまり、“生きる”ことに意味はないと観ずるならば、反転して死を選ぶのではなく、生も死も共にあるがままに引き受けること。ちょっと独特な弁証法だが、それが最も自然な振舞いであり、実は最もラディカルな深みで“生”を超克することだと思うようになった。生にも死にも意味を認めないならば、ことさら望む必要はないだけでなく、逆に忌避すべき理由もないのだから。

 ゆえに、私は死が向こうから訪れるまで生き続ける。死に限らず、自分に降りかかってくるあらゆる出来事を自分に与えられたものだと思って引き受ける、少なくともそのように心がけている(実際にはなかなか難しいのだが)。

 大切なのは答えではなく、答えがわからなくともやっていけることだと、彼はどこかで感じたのだ。(一一○頁)

 読みながら、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を思い出していた。もちろん内容は全く違う。ただ、寓話的な背景の下で対話が行なわれるという点で何となく。

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