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2007年12月23日 - 2007年12月29日

2007年12月29日 (土)

佐藤優の新刊2冊

 佐藤優『国家の謀略』(小学館、2007年)は『SAPIO』誌でのインテリジェンスをテーマとした連載をまとめた本。陸軍中野学校出身者の死生観を取り上げた箇所に興味を持った。佐藤は原田統吉『風と雲と最後の諜報将校』から「名誉も金も権力も地位も要らないという心境だけではまだ足りない。売国奴の汚名や変節漢の罵声を甘受するだけでもまだ不足である。任務の為には時として名声や金を得ることさえ厭わない、という逆説が平然と現実のものとなるのでなければ真物(ほんもの)ではない」という一節を引用している。読みながら、本当に悟りをひらけば世俗の欲望も平気で受け入れてしまうという禅僧の話を思い浮かべた。目的合理性を追求すると、自分自身をも道具として使い捨てするという発想になる。“自分”などないのだから、目的のためにはすべてがよし、という境地。では、目的とは? 神なき現代において、命を棄てる対象となる超越性はナショナリズムに求められているという佐藤の指摘は傾聴に値する。

 佐藤優『インテリジェンス人間論』(新潮社、2007年)は人物論的なエッセーを集めている。『国家の罠』や『自壊する帝国』を読んだとき、ソ連崩壊に伴う混乱期に人々の見せた情熱や悲哀や裏切りがつぶさに観察されていて、この人は外交官や学者という以上に作家として素晴らしいアンテナを持っていると感心したのが佐藤優に入れ込むようになった理由の一つだ。そうした点で本書も面白い。

 私はユダによる福音書やパウル・ティリッヒについての章に興味を持った。キリスト教神学の思考構造をこれほどかみ砕いて説明できる人は珍しい。以前、『国家の罠』を読了直後、この人は他に何を書いているのだろうと探し、彼の訳したチェコの神学者フロマートカ『なぜ私は生きているか』(新教出版社、1997年)を手に取ったことがある。私は佐藤のインテリジェンス論や外交論にも関心はあるにしても、実はそれほど重きは置いていない。むしろ、そうした議論の行間から透けて見えてくる彼の人生観に興味を引かれている。『国家の罠』で漠然とながらも感じ取った彼の感性が本書巻末に掲載された解説論文によく表われていて、これを読んで以来、彼の本格的なキリスト教論を読んでみたいという希望を持っている。

 新刊として他にも『私とマルクス』(文藝春秋、2007年)、『国家論』(NHKブックス、2007年)も出た。こちらは内容が濃そうなので時間をかけて読むつもり。

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2007年12月28日 (金)

日本の旧植民地について3冊

 橋谷弘『帝国日本と植民地都市』(吉川弘文館、2004年)はソウル、釜山、台北、高雄、奉天、大連など、日本の支配下に入った都市の成り立ちを検証して植民地化の影響を分析した論考。ソウルの朝鮮総督府撤去問題に関して“近代化”の葛藤という視点からの考察に興味を持った。

 日本が各地に残した洋風建築は、植民地支配の終わった後も現地の人々によって同様の建築が建てられていることを考え合わせると、都市の景観という点で違和感はない。たとえば、朝鮮銀行本店は文化財として保存されている。建物そのものへの嫌悪感ではなく、政治的思惑から朝鮮総督府は解体された。

 朝鮮半島近現代史を多少なりとも学んだ人ならば李光洙(イ・グァンジュ)の名前を目にしたことはあるだろう。当時の日本はすでに近代化=西欧化というジレンマを受け入れつつあった。そうした中、日本語を使って文学活動を始めた李は、近代化を目標として朝鮮半島の後進性を批判、それが後世になって“親日的”として指弾されることになった。

 他方、創氏改名に反対して自殺した柳健仁(ユ・ゴニャン)や薛鎮永(ソル・ジニョン)たちは戦後になって民族主義の立場から高く評価された。しかし、両班(ヤンバン)貴族としての旧来的なプライドを守ろうとしたのが彼らの自殺の動機であって、その主観的な意図はともかく、現代の価値観とは大きく乖離する。李光洙の親日的発言が批判されるのはやむをえないにしても、近代性の獲得=土着性・伝統の否定というジレンマを一身に帯びていた点では、その否定された李光洙の方がむしろ現代的な問題意識に近いという逆説がある。

 外発的開化の不自然さについては日本でも夏目漱石以来繰り返されてきたテーマではあるが、日本の植民地支配を受けた地域では、“近代化=西欧化”であると同時に、“近代化=日本経由の西欧化”というもう一つ別の要因が重なってきて一層問題が複雑になっている。韓国ナショナリズム=善玉、親日派=悪玉という安直な善悪図式で済ますのではなく、より丁寧な議論が必要とされよう。

 『別冊歴史読本19 外地鉄道古写真帖』(新人物往来社、2005年)は、北は樺太・満洲から南は台湾まで、日本が“外地”に敷設した鉄道にまつわる写真を収録している。南北に細長い日本の風土は四季の豊かさが特徴ではあるが、それ以上にヴァラエティーに富んだ風景を当時の日本支配地域全域で見せていたのが興味深い。前掲書に続けて本書を眺めたので、鉄道のターミナル駅がすべて洋風であるのが目を引いた。現地民を威圧するためのシンボルが例外なくモダンな西洋式建築だったというあたりに日本のジレンマが窺える。

 “外地”に移住した日本人は書籍をどうやって入手していたのだろうというのが私などには気にかかるところだ。沖田信悦『植民地時代の古本屋たち 樺太・朝鮮・台湾・満洲・中華民国──空白の庶民史』(寿郎社、2007年)は、その動向を紹介してくれる。古書店の場所を示した各都市の地図や写真が抱負に収録されており、当時の“外地”における日本人の暮らしぶりの一端が窺えて興味深い。資料として貴重な本だ。

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2007年12月27日 (木)

藤井省三『村上春樹のなかの中国』

藤井省三『村上春樹のなかの中国』(朝日選書、2007年)

 もともと小説はそんなに読む方ではなかったが、学生の頃、村上春樹は割合と読んでいた。あの淡々と乾いた感覚を私は自然に受け入れていた。好きとか嫌いとかいう力みかえりもなく、空気のようにごく自然に。しばらく離れていたので新しい作品は読んでいない。

 中国語圏での村上春樹現象について本書は四つの“法則”で読み解く。第一に、台湾から始まって香港、上海を経由して北京へとブームが波及する“時計回りの法則”。第二に、それぞれの地域で高率の経済成長が半減する時期に村上現象が起こる“経済成長踊り場の法則”。第三に、“ポスト民主化運動の法則”。村上の小説に時折現れる学生運動の挫折感に民主化運動の葛藤を投影する人々が多いようだ。第四に、欧米での村上受容とは異なり、『羊をめぐる冒険』よりも『ノルウェーの森』の人気が高い“森高羊低の法則”。

 中国大陸では鄧小平時代に紹介されたが、「現代資本主義国家の都市生活」における空虚で寂寞とした「人間性の貧窮」と「感情的色彩の衰退」をえぐりだした「深い哲理」なるものを評価するというスタンスだったというのが面白い。つまり、“改革開放”を進める一方で、病んだ資本主義は拒否すべきという共産党のお墨付きの下で翻訳されたわけである。本当に色々な読み方があるものだ。

 しかし、そうした公式見解の一方で、「実際には夢の都市生活の物語として読まれるという二律背反的な価値を付与されていた。そして一九八九年「血の日曜日」事件後には民主化運動挫折に対する癒しの文学となり、そしてポスト鄧小平時代には台湾・香港の「経済成長踊り場の法則」を追体験するかのように「小資(プチブル)」の論理と情念の表現へと変化してきた。中国の読者は村上受容を通じて各時代ごとに自らの論理と情念とを語ってきたのである。」(本書、210ページ)

 文化の横への伝播関係としてみるのではなく、村上春樹という一本の補助線を引くことで東アジア広域における現代的感性のありようを浮き彫りにしようとしている点で本書は説得力を持つ。村上チルドレンとして衛慧(ウェイ・フェイ)、安妮宝貝(アニー・ベイビー)、王家衛(ウォン・カーワイ)などが取り沙汰されるらしいが、いずれも村上からの直接の影響は否定しているのが面白い。逆にいうと、経済的・社会的変化に応じて、それだけ東アジアで共通した感覚が醸成されつつあるということだろう。韓国も含めるとどんな見取り図が見えてくるのだろうか? 阿Qというモチーフをめぐり、魯迅→村上→ウォン・カーワイに一つの系譜を見出そうとする議論も、東アジアにおける文学的インタラクションを窺わせて興味深い。

 台湾、香港、中国、それぞれで正式に版権取得された翻訳出版だけでも六種類あり、海賊版を含めるとかなりの数に及ぶという。台湾の頼明珠は村上の雰囲気を出そうと原文にできるだけ忠実に訳そうとしているのに対し、中国の林少華は頼訳には格調がないとして批判、中国風の美文調にこだわって日本風は拒否するというあたりには、翻訳という側面から中国ナショナリズムの問題も垣間見える。

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2007年12月25日 (火)

「魍魎の匣」

「魍魎の匣」(もうりょうのはこ)

 最近の邦画では、「三丁目の夕日」シリーズのように、昭和初期の風景を映像的に再現しようという傾向が目立つ。私などは喜んでせっせと映画館に足を運んでいる。「魍魎の匣」もその点では興味深く観た。旧い街並を日本だけで再現するのは難しいようで、中国ロケも行なわれている。クリークを舟で行くシーンなど東京ではなく明らかに上海を思わせるが、これはこれで私は好きだ。

 ただし、後半に入ると、安物ハリウッド映画みたいで興ざめする。私は京極夏彦の小説をそんなに読み込んだわけではないが、だいぶ以前に何冊か読んだ印象として、良い意味でほこりっぽいかぐわしさがほんのり漂う感じが好きだった。そうしたレトロ感覚はすっかり台無しだ。キャスティングのクセの強そうな面々にも興味があったのだが、いずれも使い方が中途半端。エピソードを詰め込みすぎてストーリーは呑み込みづらく、特に面白くはない。

【データ】
監督・脚本:原田眞人
出演:堤真一、椎名桔平、阿部寛、宮迫博之、田中麗奈、黒木瞳、柄本明、ほか。
2007年/133分
(2007年12月24日、新宿ミラノにて)

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2007年12月23日 (日)

「サラエボの花」

「サラエボの花」

 内戦終結から10年あまり経ったボスニア=ヘルツェゴビナの首都、サラエボの冬。一見したところ、決して裕福ではないものの人々の生活は落ち着きを取り戻しているかのように見え、再建された真新しいモスクが雪化粧に彩られているのも美しい。しかし、人の立ち入らぬ廃墟もひっそりと残されている。同様に、人々の心に刻み付けられた傷痕もいまだ癒されてはいない。

 エスマはナイトクラブに勤めながら女手一つで一人娘のサラを育てている。修学旅行で200ユーロが必要なのだが工面できない。ただし、父親が殉教者(つまり、モスレム人兵士としての戦死者)ならば費用は全額免除されるという。父親は殉教者だと言い聞かされてきたので、サラは「どうして証明書がないの?」と母親に詰め寄る。エスマは複雑な表情を浮かべ、話をそらすしかない。

 旧ユーゴ紛争において、見た目にも言語的にもほとんど変わらず隣り合って暮らしてきた人々の間で、宗教的・歴史的背景によるエスニックな差異(セルビア人:東方正教会、クロアチア人:カトリック、モスレム人:イスラム)が際立たせられることで互いに血みどろの殺し合いが繰り広げられたことは周知の通りだろう。「ブコバルに手紙は届かない」(1994年)という映画を以前に観たことがある。民族の異なる夫婦が紛争によって引き裂かれてしまう話だったが、集団レイプのシーンがあったのを覚えている。その結果として、望まれずに生まれてきた子供をどのように受け止めるべきなのか。娘は絶対に捨てないというエスマの努力は母性そのものだが、ここには同時に、憎悪の連鎖を引き起こした“エスニシティー”という観念的構築物を直接的な親子の結びつきを通して乗り越えようという姿を見出せる。

 上映館の岩波ホールはほぼ席が埋まっていた。ここはいつ、どんな映画を観に来ても客層は高齢で、特におばさんグループが目立ち、他のミニシアターとは雰囲気が全く違う。です・ます調で語り合うマジメそうな若めのカップルや、がさつなおばさんグループが、「良い映画を観ましたわよねえ」という感じに笑みを浮かべ合って席を立つ姿がものすごく癇に障った。こういう映画を観た直後に笑みがこぼれるという神経が私には理解できない。岩波ホールはきちんとした映画を上映してくれるので非常にありがたいのだが、客層のもったいぶった“文化趣味”は大嫌いだ。

【データ】
監督・脚本:ヤスミラ・ジュバニッチ
2006年/ボスニア=ヘルツェゴビナ・クロアチア・ドイツ・オーストリア/95分
(2007年12月23日、岩波ホールにて)

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