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2007年1月28日 - 2007年2月3日

2007年2月 3日 (土)

適当に4冊

◆工藤庸子『宗教vs.国家──フランス〈政教分離〉と市民の誕生』(講談社現代新書、2007年)
 著者はフローベールやコレットなどについて研究のあるフランス文学者。19世紀フランスの小説を読み解きながら、その背景として見える、政教分離原則をめぐって火花をちらした教会と国家とのせめぎ合いを描き出す。理屈だけで骨ばった政治思想史とは視座が異なり、具体的な社会状況を取り上げているので、当時の人びとにとっての切実なインパクトが垣間見えるのが興味深い。

◆黒沢清『黒沢清の映画術』(新潮社、2006年)
 映画術とは大げさなタイトルで、映画作りのノウハウを明かしてくれるわけではない。むしろ、そんなのにはこだわらず映画と取っ組み合ってきた黒沢清の半生が語られる。私は「CURE」(1998年)や「カリスマ」(1999年)を観て以来の黒沢清ファンだが、不可解なシーンがあると、つい観念的なテーマを読み取ろうとしてしまう悪い癖がある。しかし、黒沢は必ずしも何かのテーマ性を持たせて映画を作っているわけではないらしい。ただ、たとえばホラー映画を作るにしても、「幽霊とは何か」「怖さとは何か」と、作りながら考えざるを得ない。つまり、初めにテーマを設定してから作るのではなく、作りながら考える。その分、作り終わった時には、たとえばホラー映画を作っていたなら幽霊について人一倍考えたことは胸をはれる、という言い方をしていた。そういう衒いのないところが黒沢清の良さだろう。

◆重松清『哀愁的東京』(角川文庫、2006年)
 新作が書けなくなった絵本作家。フリーライターとして糊口をしのぎながら、東京で様々に息づく人々との出会いを描いた連作短編集。タイトルにひかれて買ったのだが、重松清の器用な文章は読ませるものの、私はそんなに感じ入るところはなかった。

◆吉村昭『遅れた時計』(中公文庫、1990年)
 先日お亡くなりになった吉村昭の小説がふと読みたくなって本棚から引っ張り出した。吉村の作品では、たとえば『ニコライ遭難』『ポーツマスの旗』をはじめ徹底した取材に基づいて緻密に描き出された歴史小説は実に読み応えがあるが、現代の人間模様をしっとりと描いた短編も捨てがたい。何気ないきっかけで人生の歯車がおかしくなってしまった人の抱える哀しみや葛藤、そこを冷静に、しかし少々の感傷をまじえて描く筆致が私は好きだ。結核でズダズダになった病身を抱え、色々と肩身の狭い思いをした実体験が反映されているのだろう。

(2007年2月2日記)

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2007年2月 2日 (金)

韓国映画雑感②

(承前)

 その後も韓国映画はエンタテイメントとしても良質な作品を次々と生み出している。たとえば、南北首脳会談の陰で暗躍する北のスパイと公安との攻防を描いた「シュリ」(1999年)。軍事境界線をはさんだ南北の兵士の許されざる交流を描いた「JSA」(2000年)。いずれもポリティカル・サスペンスとして秀逸だった(他にも「ブラザーフッド」や「シルミド」なども公開されたが、私は未見)。

 政治問題をテーマに取り上げると、肯定的なスタンスから体制賛美をするか、批判的なスタンスから風刺作品となるか、いずれにしても政治論争に絡め取られ、どうしてもこわばった疲れを観客に残してしまう。ところが、「シュリ」も「JSA」も、政治を題材としながら、ストーリーの面白さを前面に押し出し、政治を後景に追いやることに成功している。政治と娯楽の分離、政教分離ならぬ政樂分離とでも言おうか。それだけ政治的民主主義が韓国社会で成熟していることの証拠である。

 「八月のクリスマス」のように感情の微妙な機微を描いた作品としては、「Interview」(2000年)、「イル・マーレ」(2000年)、「春の日は過ぎゆく」(ホ・ジノ監督、2001年)などが好きだ。毛色が違うが、「友へ──チング」(2001年)という作品も印象に残っている(「イル・マーレ」はアメリカでリメイクされたが未見)。

 その一方で、いわゆる“冬ソナ”ブームの流れに合わせて公開されているベタなラブストーリーは実は好きではない。韓国映画が大きく注目されるに従って私は逆に遠ざかるようになった。とは言いながら、最近にもいくつかの作品は観ている。映画ではないが、NHKで放映されていたドラマ「チャングムの誓い」は毎週欠かさず観ていた。

 「大統領の理髪師」(イム・チャンサン監督、2005年)は、図らずも大統領専属となってしまった街の理髪師(ソン・ガンホ)の物語。朴正熙の人柄、政権内部の抗争、朴政権下における言論弾圧などを、それぞれ等分な距離をおいて、時にはコミカルに描いている。この作品も政治を後景に追いやり、理髪師の視点を通して60年代から現代に至るまでの韓国社会の移り変わりを捉えているのが興味深い(2006年、渋谷・BUNKAMURAル・シネマにて)。

 「サマリア」(キム・ギドク監督、2004年)はいわゆる“援助交際”少女の気持ちの揺れとそれを見つめる父親の葛藤を描く。しかし、社会派的な力みかえりはなく、むしろ叙情的な美しさを湛えているのが印象深い。ヨジンとチェヨンは仲良し二人組みの女子高生。いつかヨーロッパに行こうとヨジンは体を売っていたのだが、警察の手入れから逃げようとして窓から落ち、息絶えてしまった。その瞬間を見てしまったチェヨンはヨジンの出会った男たち一人ひとりに会いに行く。そして、その跡をつけてゆく父親の哀しげな後姿…。サティのジムノペディ、ノクターンが流れ、けだるいメロディーに合わせてヨジンはまどろむ。映像の静かな美しさは、胸に抱えた痛みをうずかせる。私はこの作品になぜか強い思い入れを持った(2005年、恵比寿ガーデンシネマにて)。

 「うつせみ」(キム・ギドク監督、2004年)。自分の気配を消すことのできる青年テソク。彼は定職・住いを持たず、留守宅を物色しながら暮らしている。他人の家で過ごし、そこの住人の気持ちになりきることで様々な人生を体感することに生きがいを感じているかのようだ。ある日、夫から暴力を振るわれている女性ソナと出会う。テソクは、違う人生を渇望する彼女を連れて放浪の生活に出ることになる。家庭はそれぞれに様々な事情、幸不幸を抱えている。現代都市における一戸建ての塀、マンションの壁によって完全にシャットアウトされた生活空間では、他人が抱える家庭的な葛藤を窺い知るきっかけがない。その分だけ、自分にはもっと別の人生があり得たはずだという一方的な思いを強めやすい。そうした気持ちの振幅を寓話的に描いた不思議な作品である(2006年、恵比寿ガーデンシネマにて)。

(2007年1月8日記)

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2007年2月 1日 (木)

韓国映画雑感①

 いわゆる“韓流”ブームがおこるよりも少し前の頃、韓国映画を意識的に観ていた時期がある。2000年前後だったと思うから、6,7年くらい前のことだ。きっかけは「八月のクリスマス」(ホ・ジノ監督、1998年)。就職の面接を受けた帰り、ささくれ立った気分を変えたいと思い、普段は観ないタイプの映画を観ようと映画館に入ったのがこの作品だった。確か新宿のシネマスクエア東急だったと思う。

 写真館を営む若主人(ハン・ソッキュ)は不治の病を抱えており、死期が近い。しかし、それを隠して無理に明るく振舞っている。写真館をよく訪れる交通整理の婦警(シム・ウナ)はそんな事情を知らず、ふざけ合いながら、互いに抱くほのかな想いを言い出すきっかけがつかめないまま。いつも穏やかな笑顔を浮かべているハン・ソッキュが時折見せるつらそうな表情が妙に胸を打った。舞台となっている街並みが一昔前の日本を思わせたことも、自然と感情移入するのに一役買っていたと思う。

 「八月のクリスマス」以前にもいくつか韓国映画を観たことはあった。学生の頃、すでに閉館間際の時期だったが池袋の旧文芸坐へリバイバル上映をたまに観に行っていた。そこで「西便制──風の丘を越えて」(イム・グォンテク監督、1993年)を観た。フランス・ヴェトナム合作の「青いパパイヤの香り」(トラン・アン・ユン監督、1993年)と併映されていたのでアジアの文芸映画という括りだったのだろう。「西便制」は名作の誉れが高いが、私には少々つらかった。韓国の伝統民謡パンソリをうたう旅回りの親娘が主役。パンソリの凋落を憂う父は自分の芸を何とか娘に伝えようと、ついには耳の感覚を研ぎ澄ますため娘の両目をつぶしてしまう。芸への執念と親娘の愛憎が絡み合うじっとりと重苦しい映画だった。

 同じくイム・グォンテク監督の「太白山脈」(1994年)というやはり評判になった作品をビデオで観たこともある。舞台は韓国独立直後の山あいの村。政府軍と共産ゲリラが入れかわり立かわりやって来て村人を脅すという筋立てで、イデオロギーに振り回される悲劇を描いていた。また、「我らの歪んだ英雄」(パク・チョンウォン監督、1992年)というのも観たが、小学生のグループ争いを権力抗争のカリカチュアとして描くというこれもまた極めて政治色の濃厚な作品だった(パク・チョンウォンの作品は他にも「永遠なる帝国」(1995年)という李朝を舞台とした時代劇も観たことがある。いずれも、昔のユーロスペースで韓国映画特集を組んだ時に観たように記憶している)。

 いずれにせよ、濃厚な情念を描いた文芸映画か、さもなくば政治的メッセージの強い社会派映画というイメージを韓国映画に対して私は強く持っていた。どちらも作品としての完成度は高いのだが、どこかスマートさに欠けるというか、観ていて疲れるのだ。そうした印象で凝り固まっていた時に「八月のクリスマス」を観た。感情移入が素直にでき、新鮮な驚きを感じた。このような作品を作っている韓国の現状に眼をみはった。

 飛躍的な経済発展、政治的民主化の進展により韓国が先進国入りしつつあることは当然ながら知っていた。しかし、社会的な成熟にはまだ時間がかかると思っていた。感情がひだをなして輻輳する奥行きを丁寧に描き、そしてそれを鑑賞する観客層が現れるには社会的な安定が不可欠である。そのように韓国社会が質的に大きく変化していることを私は「八月のクリスマス」によって知った。

 こうした傾向は韓国ばかりでなく、中国・台湾も含めて着実に拡がりつつある。たとえば、ウォン・カーウァイの作品などもいい例だろう。大文字の政治として「東アジア共同体」の可能性が議論されているが、映画という形で心情表現における共通の文法が醸成されつつあることは特筆大書されていいと思う。

(つづく)

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2007年1月30日 (火)

「ディパーテッド」

◆「ディパーテッド」

 コステロ(ジャック・ニコルソン)はアイルランド系マフィアの大物。麻薬売買や殺人など様々な犯罪に手を染め、警察からマークされているがなかなか逮捕されない。そこで州警察はビリー(レオナルド・ディカプリオ)をスパイとしてコステロの組織に送り込む。一方、コステロもまた自分の息のかかったコリン(マット・デイモン)を警察内部に送り込んでいた。警察側も、コステロ側も、自分たちの組織にもぐりこんだ“ネズミ”が誰なのかあぶりだそうと躍起になる。二時間半にわたる長丁場だが、虚々実々の駆け引きにあふれるストーリーは緊張感が持続し、観ていて決して飽きない。ジャック・ニコルソンの悪党ぶりはさすがに凄みがある。

 警察に任官したコリンの入居した部屋から議事堂が見える。サスペンス映画としても純粋に面白いが、この映画もやはり政治的なメッセージ性が強い。“ネズミ”探しで疑心暗鬼に陥るというストーリーは、9・11以降のアメリカでテロリスト探しという大義名分のもとで行なわれている騒動を暗示しており、とりわけ愛国者法をめぐる問題意識が随所に見え隠れする。なお、タイトルのdepartedとは、すでに亡くなった者という意味。身分を偽り、己の心を殺した者たちを意味しているだけでなく、変貌しつつあるアメリカ社会の姿をも指し示しているのかもしれない。
(2007年1月28日、新宿ミラノにて)

【データ】
原題:The Departed
監督:マーティン・スコセッシ
アメリカ/2006年/152分

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「エレクション」

◆「エレクション」

 香港の暴力団組織“和連勝会”は二年ごとに会長を選挙で選んでいる。今回の候補者は、冷静沈着なロク(サイモン・ヤム)と、粗暴だが行動力のあるディー(レオン・カーファイ)の二人。ディーは買収も含め様々な手段を用いてのし上がろうとしたが、人望がないため、後継の会長にはロクが選ばれた。ディーは憤懣やるかたない。そうした中、会長の正統性を示す竜頭棍が運ばれてくる──。

 私は学生の頃、中国映画をテーマとする講義を取っていたことがある。香港駐在経験の豊かな元ジャーナリストが講師として来ていた。普段観ることのなかった中国映画を色々と紹介してくれただけでなく、その読み解き方を示してくれたのが興味深かった。中国は言論の自由が必ずしも保障されているとは言いがたい。映画にしても、表立っては表現できない政治的メッセージがシンボリックに織り込まれていることが多い。たとえ娯楽映画であっても、その裏にはどのようなメッセージが隠されているのか、そこを読み取ろうと意識を向ける癖がついてしまった。深読みしすぎて空回りする危うさもあるが。

 この「エレクション」はヤクザの抗争を描いた映画であるが、邦題からすぐ分かるとおり、極めて政治色が濃い。人間が存在する限りどんな場面でも権力闘争があり得るという一般論レベルのテーマも読み取れるが、そればかりでなく、買収や当局による干渉が当たり前という中国の政治風土を一つのカリカチュアとして描いていることも想像できる。それにしても、広州に隠されていた竜頭棍が香港に運ばれてくるという筋立てにしたのはなぜだろうか? 広州と言えば、孫文の出身地である。中国における民主主義の伝統という大きな話題をほのめかしているのか。
(2007年1月26日、テアトル新宿にて)

【データ】
原題:黒社会
監督:ジョニー・トー
香港/2005年/101分

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2007年1月29日 (月)

最近読んだ雑誌から

 最近読んだ雑誌から興味を持った記事をいくつかご紹介。まずは『文藝春秋』二月号から、梯久美子「栗林中将 衝撃の最期──ノイローゼ、部下による斬殺説の真相」。硫黄島の激戦で栗林忠道がどのような最期を遂げたのかはよく分かっていない。クリント・イーストウッド監督「硫黄島からの手紙」では重傷を負った末に拳銃で自決を遂げており、これは防衛庁の編んだ『戦史叢書』にそったオーソドックスな描き方らしい。ところが、ショッキングな異説が現れた。栗林は重度のノイローゼ状態にあり、米軍に投降しようとして部下に殺された、というのだ。梯はこの異説の背景を調べ、投降説はあり得ないとの結論に達する。その過程でほの見える、戦前と戦後とでの戦争観・死生観の微妙なズレが興味深い。

 塩野七生・佐藤優・池内恵「ローマ滅亡に学ぶ国家の資格」は、塩野七生『ローマ人の物語』の完結を受けて、それぞれに独特なスタンスを持つ論者三人による鼎談。塩野は感想を聞かせて欲しいという受身の姿勢で、話題が深まらない。ようやく佐藤が『愚管抄』『神皇正統記』を、池内がイブン・ハルドゥーン『歴史序説』を取り上げてそれぞれ歴史観について話題を提起し、いよいよ話が盛り上がるぞ、というところで鼎談終了。あー、もったいない…。

 保阪正康「私が会った「昭和史の証人」秘録」。私は保阪による昭和史掘り起こしの仕事には深く敬意を抱いている。他人事のような理屈で断罪する凝り固まった思考枠組みを崩してくれるだけでなく、生身の声が持つ切実な響きには、時代を超えて人間の抱える葛藤そのものがにじみ出ており、心ゆさぶられる。今回の記事ではとりわけ、死なう団事件で特高のスパイであった老人の自殺に瞑目した。長い年月、秘密を一人抱えて生きてきた孤独。それを告白できて胸のつかえが降りた、と死ぬ前に話していたそうだ。善悪是非で個々の人間を類型化してしまうのではなく、一人ひとりがその立場の中で何を思っていたのか、そこを誠実に引き出そうとする姿勢には頭が下る。

 次は、『論座』2月号から。まずは内田樹「「これを勉強することが何の役に立つんですか」に絶句する私」。昨今の風潮として、市場原理的なマインドが教育現場にまで浸透している。これに影響されて子供たちまでもが、「有用」「無用」を安易にカテゴリー分けしてしまい、あとは“費用対効果”の論理にのせられると本気で思い込んでいる。高校の世界史未履修の問題はそうした発想の表れである。ところが、「何の役に立つのか?」という判断基準そのものを養うためにこそ、子供たちは学校に通って基礎知識を習得しなければならないのだ。市場効率が社会を成り立たせる有効なシステムの一つなのは確かだろう。しかし、市場原理の際限なき徹底が、かえって市場も含めた社会全体の基礎を掘り崩してしまうという皮肉がここに見えている。

 先般公開された「ダーウィンの悪夢」についてはこのブログでも紹介した。勝俣誠「ドキュメンタリー映画『ダーウィンの悪夢』は、「北」の私たちを不安にさせる」は、このドキュメンタリーの政治経済的背景を南北問題の枠組みから解説してくれる。アフリカの問題は新聞記事での扱いも小さく、なかなか目にとまらない。資源輸出型経済の破綻、企業歓迎国家への変質によりますます「北」の経済に従属せざるを得なくなる矛盾などが指摘される。

 坂下雅一「「憎しみの連鎖」から解き放たれるために──紛争地メディアの支援」は、インドネシアのマルク諸島、ルワンダ、旧ユーゴなどの具体例を取り上げながら、紛争地におけるメディアが“敵意の扇動”に加担してしまう問題を指摘し、その解決策を模索している。

 『水からの伝言』という写真集の存在を私は寡聞にして知らなかった。これによると、たとえば「ありがとう」という言葉を見せた水は、冷凍すると雪花状に美しく結晶化し、「ばかやろう」という言葉を見せた水は雪花状にならないという。つまり、“良い”言葉は美しい結晶をつくり、“悪い”言葉は醜く崩れると言いたいらしい。もちろん、擬似科学本だ。こんなうさんくさい本が教育現場の一部で使われているというのだから驚いた。菊池誠「『水からの伝言』が教えてくれないもの」は、こうしたニセ科学の発想から、人間の心の問題を“物質”や“自然”などの“客観的な事実”に求めようとするいびつな精神構造を抉り出している。同様の観点から、田崎晴明「科学の心、科学的思考、そして科学者の姿勢とは」は科学者の持つ研究姿勢について、左巻健男「お手軽化が蔓延する教育現場の怪」はTOSS(教育技術法則化運動)なる教育団体の危うさを指摘してる。

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2007年1月28日 (日)

山本譲司『累犯障害者』

山本譲司『累犯障害者──獄の中の不条理』(新潮社、2006年)

 健常者として当たり前になじんだ視線をずらし、障害者の視線に立ってみようと想像力をめぐらしても、口先ではともかく、実際には大きな壁にぶつかってしまう。ノーマライゼーションの努力は必要である。だが、その一方で、たとえ動機は善意であっても、意図しないままに健常者の世界観の押し付けになっていることが往々にしてある。本書はそうした健常者と障害者とのシビアな距離感を描き出したノンフィクションであり、貴重な問題提起をしている。

 知的障害者の家族が法律上・生活上のアドバイスを受けられないまま陥ってしまった困窮の哀しさ。触法障害者には出所後の受け入れ先がない、従って社会に居場所がないため、再び刑務所に戻らざるを得ないとい悪循環。様々なケースが取り上げられているが、とりわけ私が関心を持ったのはろうあ者の問題だ。

 ろうあ者の用いる手話と健常者の用いる手話とでは、実はほとんど別の言語に近いという。文法や心情的な微妙なニュアンスの表わし方が大きく異なり、手以外の動作も含めて、体全体の動かし方そのものが文法上重要な役割を果たしているらしい。そうした機微までは健常者の手話能力では分からない。健常者の方では意思が伝わっていると思っていても、ろうあ者の方では、伝わらないというもどかしさそのものを伝えられないケースが当然に考えられる。警察や検察の取調べの際に、手話通訳者が誤訳することもある。いずれにせよ、こうしたコミュニケーションの根本的な難しさから、ろうあ者同士の閉じた社会(deaf community)となってしまう。逆に、健常者とは異なる文化があるとする積極的な主張もあるそうだ。

 著者の山本譲司は元民主党代議士。秘書給与流用の容疑で実刑判決を受けた。都議や代議士として政治活動していた頃から福祉政策には力を入れていたが、入獄して見た現実、とりわけ刑務所の中でしか暮らせないという障害者と身近に接したことで、自分のそれまでの主張は上っ面のものに過ぎなかったと気付かされたという。現在はヘルパーをしながら執筆もしている。一度獄に落ちて、その体験をバネに這い上がってきた書き手が最近何人か出ているが、山本のこれからにも注目したい。

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